第31話 彼が捨てられた理由

「これは……!」


 ベルはダンの手を繋いで空を飛びながら、いつも忌々しく感じていた王都とスラムを隔てる城壁が跡形もなく破壊されているのを見つけた。


「スラムの人々みんなが願い続けていた願いが一つ叶ったというわけです。あの城壁をぶち壊したい、という。《神様》は緋色の王様に一番影響を受けてはいますが、元々はスラムの人々みんなの願いから生まれたものですからね」

「……そもそも、なぜ王都とスラムは城壁なんかで隔てられたんだ?」


 ダンはその問いかけに、昔を思い出すかのように遠い目をする。


「スラムは汚染されている、とされていたからです。昔はスラムも王都の一部でしたが、大規模な戦争があったとき、今はスラムと化したあの地区は敵国から総攻撃を受けました。あそこには有力貴族がたくさん住んでいたので、狙い撃ちされたようです。


 たくさんの犠牲者が出て、戦争が終わった後も、彼らの呪いに満ちた思いがあの地区には残っているとされました。その呪いから国を守るために、城壁は作られたのです。けれど、スラムに残されてしまった人々はそれで余計に王都の人々を恨むことになった。そして彼らの憎しみに満ちた願いが、《神様》を生み出したというわけです。


 けれど、最初の頃は確かに強大な力を誇っていた《神様》は、やがてどんどん力を失っていきました。戦争が過去のものとなるにつれ、人々の憎しみや恨みも風化していったからです。あのまま放っておけば、《神様》がここまでの力を持つことはありませんでした。けれどある日、のちに緋色の王様と呼ばれることになる少年が《神様》を拾ってしまったのです」



※※※



《愛するニック。この手紙を貴方が読むとき、私は既にこの世にはいないでしょうね。先日、私はこの身を蝕む病がもう治らないということを知りました。もう二度と、生きて貴方に会える日は訪れないでしょう。だから、私の知る真実を貴方に伝えるために、少しずつこの手紙を書いています。


 ねえ、元気にしている? 貴方はまだ、あの子と一緒にいるのかしら? そうであってほしい、と願いながら、この手紙を書いています。


 貴方が攫われたあの日から、私は徐々に心を病んでいきました。罪悪感という黒い鎖が私をがんじがらめに縛って、どうにも逃れられなくしてしまったのです。


 そして、貴方の弟に当たる男の子を産んだとき、私の心は完全に壊れてしまいました。ブラッディと名付けられた貴方の弟は、信じられないほど、貴方を攫っていったあの子に——私の弟に、そっくりでした。ブラッディを見たとき、私も、夫も、思ってしまったのです。これは天罰ではないか、と。


 壊れた私は、ブラッディを弟と思い込むようになりました。あの子には辛い思いをさせてしまったでしょうね。死の間際、わずかに取り戻せた理性を持ってブラッディへの仕打ちを思い返すと、悔やんでも悔やみきれません。


 ブラッディという名前は、私たちにとって貴方の赤い髪と瞳が罪の色に、真っ赤な血の色にしか見えなかったから、付けてしまった名前です。私たちはどこまでいっても、あの子を純粋に息子として見ることができませんでした。本当にごめんなさい、とブラッディに伝えてください。


 本来なら自分で伝えるべきことだけど、私はあの子を見るだけでおかしくなってしまうのです。だからどうか、貴方に伝えてもらえればと願っています。


 そしてニック。弟に連れ去られた貴方は、一番の被害者です。だから、真実を伝えるべきだとずっと思っていました。なぜ貴方は攫われなければならなかったのか。


 私と夫が、私の弟にしたひどい仕打ちを、ここに告白します》



※※※



「この悲劇は王様が引き起こしたものであり、彼は間違いなく罪人ですが。彼がああなってしまった一番最初の原因に関しては、同情の余地がありますね。彼は姉に捨てられたことで壊れ、暴走した。けれど、彼が姉に捨てられたことについて、彼の落ち度なんて一つもなかったんです」

「それなら、なぜ彼は捨てられたんだ?」


 ベルの問いに、ダンは呆れた、というような表情を浮かべて答えた。


「人間とはどうしようもない生き物です。スラムの人々が王都の人々を憎み呪ったように、王都の人々の中にもスラムの人々を毛嫌いしていた連中がいるんですよ。


 王都では城壁を越えてスラムから人が押し寄せてくるのを防ぐために、厳しい取り締まりをしていました。城壁が出来た当初、家族で壁の内外に分かれてしまった人たちがいて、その人たちが再会できるように、スラムから王都に連れてきていいのは王都に家族がいる者のみ、という決まりを作ったのです。それが何年も経った今でも形骸化しつつ残っていた。王様の姉と結婚した貴族の若者は、その決まりを使って彼女を王都に迎え入れたのです。


 彼はスラムをお忍びで視察する中で、王様の姉と出会い恋に落ちた。そして慌てて王都から神父を呼び出して、スラムの教会で結婚式を挙げてしまったのです。ところが、この神父はスラムの人々をよく思っていませんでした。


 彼は無意識のうちにこう思ったのです。王都は神に選ばれた人々のみが暮らす神聖な場所だ。スラムの薄汚い人間どもなど一人足りとも王都に入れたくない。若者と結婚した娘は仕方がないとしても、その弟など他人に等しい。決して王都に迎えてなどやるものか。しかし、どうすれば正当な理由を付けて王都から締め出せるのかわからない。


 だから、私は彼の前に姿を現しました。その方法が知りたいなら、教えてやろう、とね。彼の願いは彼だけのものではなく、何人もの人間が願っていたことでしたから。愚かなことです。神に選ばれたなんてことはありません。ただ、運が良かったか悪かったか。それだけの問題ですよ。


 そう、そして私は神父に教えたのです。あの花嫁の弟は、黒い毛玉のような生き物を手懐けている。一見無害そうに見えるあの生き物は、人々の憎しみから生まれた世界を滅ぼしかねないものですよ、と」



※※※



《あの子はいつだったか、子供達にいじめられていた不思議な生き物を助けたことがありました。真っ黒でふわふわの、毛玉のような生き物。弟は優しいから、その生き物の代わりに子供達に殴られ蹴られても、なんとか毛玉を守ったのです。


 それから、毛玉のようなそれはあの子に懐き、いつもそばを駆け回るようになりました。それは無害な生き物に見えたから、私も微笑ましく思って放っておいたのです。けれど、その生き物の正体は恐ろしいものでした。


 私は当時、何も知らなかったのです。あの毛玉の正体も、なぜ弟はスラムに置き去りにされなければならなかったのかも、私はあとから知りました。


 結婚式の後、幸せな気持ちで眠っていたら、目が覚めた時には王都の屋敷にいたのです。言い訳のようだけど、信じてください。私は弟を置いていくつもりなんてこれっぽっちもありませんでした。もし私が起きていたら、間違いなくあの子を一緒に連れて行かせたはずです。だからこそ、夫と神父は私が寝ている間に連れ去ってしまったのですが。


 あの毛玉は、世界を滅ぼしかねない呪われた存在だったのです。そのことに気が付いた神父は夫に、弟はあの化け物に取り憑かれている、王都に連れて行けば王都を滅ぼしかねない、と何度も訴えました。最初は相手にしていなかった夫ですが、あの毛玉に噛み付かれたときに考えを改めたようでした。


 あの毛玉は私や弟には懐いていたけれど、王都から来た夫や神父には敵意をむき出しにしていました。あの毛玉が、王都の人々を呪ったスラムの人々の願いの塊と知った今では、納得のいくことではありますが。


 夫はあれに噛み付かれた時、背筋が凍るような恐怖を覚えたそうです。憎しみや恨み、呪いの念、それらが激流のように彼を襲ったのだと。怖くなった夫は神父の言う通り、眠る私を攫ってこっそりとスラムを抜け出しました。そしてあの子は、あの化け物と一緒に取り残されました。


 私はもちろん激怒しました。今すぐ弟を迎えにいく、と何度も訴えたのです。けれど、王都からスラムに入る許可はそう簡単に降りるものではありませんでした。


 許可が降りるのを待つ間、ニック、貴方が生まれたのです。貴方を育てているうちに、私は弟のことを忘れていきました。きっと、一人でもなんとかやっているだろう。そんな都合の良い思い込みをして、いつまでも降りない許可を取ることを諦めてしまったのです。


 だから、貴方が弟に攫われた時。私も夫も、これは罰なのだと思わずにはいられませんでした。


 ニック、貴方は一番の被害者です。私と夫の罪のせいで、不幸を背負わされてしまったのだから。でもどうか、弟を憎まないで。悪いのは彼ではない。私たちなのだから。


 もし今でも弟のそばに貴方がいるのなら。どうか、そばにいて、あの子の壊れた心を癒してあげてください。最期まで自分勝手な母でごめんなさい。貴方の幸せを、いつまでも願っています》

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