第33話 決して、目を逸らさないで

 いつだって、目の前に広がる世界は最悪だ。正当な理由もないまま、城壁の外側にいるか内側にいるか、それだけで決まってしまう未来。生き延びるために、人は平気で他人の願いを踏みにじる。叶わなかった願いは呪いとなり、また別の願いを破り捨てて。


 そんな残酷過ぎる現実なんか見たくない。だから、何度も目を逸らして逃げてきた。けれど、逃げた先に不幸は無くても、幸せだってありはしなかった。


「私はずっと、現実から逃げたいと願ってきた。その願いは私に特別な《現実逃避》の力を与えてくれたけれど。本当に私が欲しかったのは、そんな力ではなかったような気がするんだ」


 だんだん、《神様》と緋色の王様の姿が近づいてくる。もう、迷っている時間はなかった。静かに語りかければ、ダンがらしくなく穏やかな声で問いかける。


「では、貴方が本当に願っていたことは、一体なんだったんですか?」


 《神様》がこちらを一瞥して、緋色の王様に何かを告げるのが見えた。狂気に染められた、どこか虚ろな瞳で眼下の街の惨状を眺めていた王様の返事を聞いて、《神様》は頷く。そのまま、二人は地上に向かって急降下していった。ダンの翼に運ばれて、二人の後を追いかけながら、自分の願いを表すのに相応しい言葉を探す。やっと見えてきた本当の願いを、もう二度と見失わないように。


「強さが欲しかった。現実逃避をしなければ生きていけない自分ではなく、辛い現実から目を逸らさず戦えるような、そんな自分になりたかった。どんなに遠くへ逃げても、現実は消えて無くなったりしないから。終わらない逃避行を続けるくらいなら、真正面から立ち向かいたかったんだ」


 《神様》たちが降り立ったのは、王都でも一、二を争うほど立派な屋敷。美しい真っ青な屋根を見て、幼い頃に尋ねたことがあるのを思い出す。ブラッディの住んでいた、レイン家の本邸だ。おそらくレイン家の人間なのだろう魔法使いたちが必死に作っていた結界を、《神様》はいとも簡単に打ち破る。その衝撃で、屋敷を守ろうと奮闘していた人々が吹き飛ばされていくのが見えた。


「私の《現実逃避》の力を使えば、この最悪な現実を止められるんだな」


 願いを叶えるためには、いつだって大きな代償が必要だ。けれど、逃げ続けてばかりの自分を変えることができるチャンスは、そう何度も訪れはしないだろう。自分は決して勇者ではないから、世界のために自分を犠牲に、なんてことはできっこない。でも、自分のためなら。自分の願いを叶えるためなら、どんな代償だって払ってもいいと思えた。


「後悔、しませんか」


 結界の消えたレイン家の屋敷に赤い流星は容赦無く降り注ぐ。穴の開いた天井から屋敷の中に降り立って、ダンと繋いだ手を離した。彼は真っ直ぐな眼差しで問いかけてきて。


「しない」


 今度はすぐに答えられた自分に安心した。珍しく、ダンも優しい笑顔を見せる。


「知りたいと願う全ての人々のために、私に教えてください。現実に立ち向かう術を、本当の願いを叶える方法を」

「ああ。一瞬足りとも、目を逸らすなよ」


 《神様》たちの姿は見えなかったが、不思議とどこにいるのかはっきりと分かった。迷うことなく、私は走り出す。怖いことはもう、何もなかった。



※※※



「姉さん、ねえ、僕だよ! どこにいるの、隠れてないで出ておいでよ!」


 屋敷中を走り回って、声が枯れるくらい叫んでも。姉さんは現れない。屋敷を守っていた人たちがたくさん襲いかかってきたけれど、誰も僕には触れられもしなかった。


「姉さん、外を見た? 赤い流れ星がたくさん降ってきているでしょう! あれは僕が《神様》にお願いしたんだ。素敵でしょう!? 姉さん、姉さんに見てもらえなきゃ意味ないんだよ、ねえ、ねえ、ねえ、ねえ!」


 気づけば、周りには《神様》以外誰もいなくなっていて。目の前に、立派な白い扉があった。誰もその扉の先に行けないように封印されていたけれど、そんなの僕には関係ない。扉をすり抜けて中に入れば、後ろで《神様》が封印ごと扉を粉々に破壊してついてきた。


 そこは礼拝堂のようだった。清浄な空気に満たされた、神聖な空間。その奥に、真っ白い棺が置いてある。それを見た瞬間、探し続けていたものがそこにあると分かってしまった。


「嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」


 足が止まる。気づいた時には、その場に膝をついて震えていた。こんなものを見たくて、ずっと願っていたわけじゃない。僕が本当に願っていたのは。願っていた、のは。


「認めたくないよね、こんな現実」


 ゆっくりと、《神様》が近づいてくる。ニコニコと笑いながら、優しく僕の肩に手を置いて。


「じゃあ全部壊しちゃおうよ。目の前からなくなっちゃえば、最初からなかったのと一緒だよ」


 そうなんだ、じゃあ、そうしよう。もう、なんでもいいよ。目を逸らしていられれば、どうだっていいんだ。


 《神様》の言葉に頷こうとしたその時、誰かが勢いよく礼拝堂の中に走ってきて。僕と《神様》が避ける間もなく、その誰かは僕たちに向かって飛びかかってきた。


「目の前からなくしたいのなら、私と一緒に現実から逃げよう」


 そんな言葉と一緒に、目の前が眩しい光に包まれて。僕は気を失った。



※※※



 かつて城壁があった場所を越えて、ネズミの群れは王都に入り込んだ。人のいなかったスラムの路地とは違って、あちこちで傷ついた人々が倒れている。もう、ネズミたちに乗って進むことは出来なかった。


「これは……!」


 愛する街の惨状を間近に見て、ランが言葉を失う。そんな彼女を勇気付けるように、ブラッディは震える彼女の手を握った。


「僕たちが彼らを助けるんだ。諦めないで。僕らが絶望したら、何もかもおしまいだよ」


 王都を出たばかりの頃の、ひねくれて子供じみたところのあった彼とは違う力強い言葉に、ランは必死で涙を拭う。


「貴方の言う通りね。王都の人々は私を愛してくれたのだもの。だから、私が救わなくちゃ!」


 そんな二人を見守りつつネズミたちをスラムに帰したニックは、真っ白い翼で宙に浮かぶグリュックを見上げた。


「なあ、あんたは王様がどこに行ったか分かるのか?」

「分かる。君だけなら、今すぐに連れて行けるよ」


 それを聞いて、キティがニックの両手を握る。


「お願い、ニック。緋色の王様を止めて、ソルを連れ戻して。本当は何がなんでもあたしがソルを助けてあげたいけど、あたしには出来ないから」


 ソルの後ろに隠れて、おびえながら周りをうかがっていたかつての彼女とは似ても似つかない、強く真っ直ぐな眼差しに射抜かれて、ニックは彼女の手をしっかりと握り返した。


「約束する」


 それからニックは、初めて見る王都に戸惑い静かになった子供達の方を振り返る。


「みんな、俺は王様を助けにいくけど、みんなはここにいるお兄ちゃんお姉ちゃんのお手伝いをしてあげて」


 子供達はみんな少し不安そうな顔をしていたけれど、それでも揃って頷いた。


「おうさまを、たすけてあげてー!」

「ぼくたちもがんばるから!」

「みんなできょうかいにかえろうね!」


 口々にニックへ思いを託して、子供達が手伝いをしようと、ランたちの元へ駆け寄っていったその時。


「みんな、空を見て!」


 キティが叫ぶ声にみんなが空を見上げれば、無数に降り注いできていた赤い流星がみるみるうちに消えていく。


「これは一体……!?」

「もう、ここに彼らはいない。ベルが《神様》たちを別の世界に連れて行ったんだ。だから、あの流星は消えたんだよ」


 グリュックの言葉に、ランとブラッディは真っ青になった。


「まさかベル、あの力を使ったの!?」


 ベルの力の代償の大きさを知っている二人は取り乱しかけるが、グリュックは大丈夫、と二人に告げる。


「みんなの願いがあれば、大丈夫だよ。君たちだけじゃない。この悲劇の終わりを、この王都の人々は誰もが願っている。彼らの願いが呪いにならないように、君たちはできる限りたくさんの人々を救ってね」


 ランは心配そうな顔をしてはいたが、それでも拳を握りしめて、子供達に声をかけた。


「みんな、手分けしてけが人を探してちょうだい! 私とブラッディで駆けつけて治癒するから! 学校の実習の成績は酷かったけれど、今なら貴方も大丈夫よね!」


 ランの言葉に、ブラッディは任せてくれと右手で胸を叩く。


「もっちろん!」

「じゃあみんな、突撃よ!」


 駆け出した彼らの力強い背中を見つめながら、グリュックは優しく微笑んだ。


「あの子たちはきっと、大丈夫。あとは君が、君のやるべきことをするだけだ。王様たちのいる場所に行けば、きっと何事もなく帰ってくることはできない。覚悟はできているかと聞きたいところだけれど、きっと君ならそんなことはとっくに分かっているね」


 彼の微笑みにつられて、ニックも笑う。今までずっと悩んで迷って、何がしたいかもわからなかったけれど、そんな心の曇りはもう少しも残っていなかったから。


「俺は王様を救いたい。そのためなら、代償を払う覚悟はできてる」


 グリュックの真っ白な翼がまばゆく光る。光に包まれながら、彼はニックに手を差し伸べた。その手を取った先がどこにたどり着くかなんて分からなくても、もうニックは迷わない。グリュックとニックは手を繋いだまま光に包まれる。その光の中で、ニックは優しいぬくもりを感じながら気を失ったのだった。

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