第12話 現実逃避の代償
目が覚める。目の前には真っ暗な空と、金髪の男の心配そうな顔。眠る前と同じ光景が、これは夢ではないと告げていた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「……あなたは、だれ?」
その言葉に、男はふわりと柔らかな笑顔を見せる。
「私は誰でもないよ。あるいは、この世界の誰もが私と言えるかもね。多くの人の願いが私を生み、君の生を願った誰かの想いがここに私を呼んだ。君がもう一度現実と向き合えるようになるまでは、一緒にいるよ」
彼の話は難しくて、私にはよく分からなかった。魔法学校の先生が、魔法とは願いから生まれる、と言っていたことを思い出す。
「ここは、あなたのまほうってこと?」
首を傾げれば、男はきらきら輝く金髪を揺らして首を降った。
「いいや。ここを作ったのは君の魔法だよ。君の願いがここを作ったんだ。私はそこにお邪魔しているだけ」
「よく、わからない」
自分の身に起きている出来事が理解できなくて、心がざわつく。それに呼応するかのように、静かだった足元の水面にさざ波が生まれた。
「分からなくてもいいよ。もう少し大きくなれば、自ずと分かる。それよりも大切なのは、君がこれからどうするかだ」
これからどうするか。そう言われて、どきりとする。心の奥底に押しやろうとしていたあの惨劇を、もう一度はっきりと意識させられたから。今まで当たり前のように思い描いていた未来は、粉々に砕け散ってしまったのだ。
「残念だけど、王都には帰れないよ。君から何もかも奪っていった人たちは血眼で君を探している。見つかれば君も、君の周りの人も危険にさらされるだろう。君に生きる意志があるのなら、絶対に見つからない場所に隠れなくてはね」
「そんなところがあるの?」
すると、彼は頷いて水面に手をかざした。淡い光を放ちながら、水面は見知らぬ荒廃した街並みを映し出す。
「君のいた王都のすぐ東にあるスラムだよ。王都の人たちはスラムに入ることを厳しく禁じられているから、君がそこにいるとは誰も思わないし、仮にそう思ったとしても探しにくることは不可能だ。スラムで生きるのはとても厳しいけれど、願い続ければ大丈夫。願いは君の力になって君を守ってくれるからね」
「じゃあ、ぼくがねがえばあなたはいっしょにいてくれるの?」
その問いに、彼は困った顔をした。不安げな顔をしていたのであろう私の頭を優しく撫でながら、申し訳なさそうに首を振る。
「私は行けない。あのスラムには願ってくれる人間が少なすぎる。ついていってあげられたらどんなにいいかと思うけれど、出来ないんだ」
突然、水面を揺らしていたさざ波が荒れ狂う大波に変わった。波が砕ける音が何度も世界に反響する。
「じゃあ、ずっとここにいる。ここにいれば、あなたはいっしょにいてくれるんでしょう。ぼくはたいへんなおもいをしなくても、いきていける。どうしてここからでていかなくちゃいけないの?」
荒波は金髪の男を責め立てるように、ひっきりなしに彼に襲いかかる。全く濡れていない私と対照的に、彼は全身ずぶ濡れになっていた。
「ここにいても何も変わらないよ。現実では君は死んだことになる。どこにもいないなら死んだのと一緒だからね」
「でも、ぼくはここにいる。生きてるよ」
「どうして君の母上が君を生かしてくれたのか、分かるかい?」
その刹那、真っ暗だった空が真っ赤に染まる。最期に見た母上の姿が脳裏に浮かんだ。
《母上からの命令です! 必ず生き延びなさい、生きて、生きて、生きて——!》
「君の母上は君に生きて、《何か》をして欲しかったはずだよ。ここにいても、何もできない。笑うことも怒ることも、泣くこともできないんだ。生きることしかできない。君は本当に、彼女がそれを望んでいたと思う?」
よく笑い、泣く賑やかな人だった母上を思い出す。普段はほとんど表情の変わらない父上も、母上といるときは幸せそうに笑っていた。舞台を観劇にいったりすると、母上があまりにも泣くものだから父上までもらい泣きすることがよくあった。普段はとても仲の良い夫婦だったが、稀に喧嘩すると屋敷中を駆け回って魔法の掛け合いをするものだから、使用人達にこっぴどく叱られているのを見たことがある。
そういう両親を見ていると、気づけば自分も笑っていて、怒っていて、泣いていて。幸せ、だったのだ。
「……ははうえはきっと、ぼくにわらってほしいとおもう。こんなところににげこんだりしないで、たちむかいなさい、っていうとおもう」
「そうか。じゃあ、君はこれからどうしたい?」
気づけば、空は元の暗闇に戻っていた。荒波もおさまっていて、世界は再び静寂に支配されている。相変わらず、空には星も月も見えないけれど、赤よりずっとましだと思った。
「ここからでる。でて、それからどうしたらいいのかはわからないけど。でも、ははうえとちちうえにはじないように、せいいっぱいたたかわなきゃ」
小さな光も見えないような、この先の真っ暗な未来を思い浮かべて足が震える。それを見て、金髪の男は微笑んで私を優しく抱きしめた。
「いい子だね」
今まで無風だった世界に、柔らかなそよ風が吹いていた。彼の美しい金髪が、風にそよいできらきらと光る。
「きっとこれからも君は辛い経験をたくさんする。現実逃避をしたくなることだって何度もあるだろう。生き抜くためには、それが必要なときだってある。でも、覚えておいて。強い願いを叶えるための特別な魔法を使うときには、いつだって大きな代償が必要なんだ。これからここを抜け出すときに、身を以て実感することになる。だから、本当にどうしようもないとき以外は逃げてはいけないよ」
足元からまばゆい光が放たれた。それは私を包み込んで、徐々に彼の姿をかき消していく。
「まって! また、あえるよね? あなたのなまえをおしえてよ!」
慌てて叫べば、彼は目を丸くして、それからとても嬉しそうな顔をした。
「名前などないのだけれどね。昔、私をグリュックと呼んだひとがいたよ。君が君のままで願い続けてくれたなら、いつかきっとまた会える」
さよなら、と微笑む彼の姿が真っ白な光の向こうに消えていった。これで現実逃避は終わりなんだ、とはっきり分かった。その瞬間、身体中を切り裂かれるような痛みを感じてうずくまる。気づけば、全身血まみれだった。立っていることができず、その場に倒れこむ。
彼の言葉を思い出した。大きな代償が必要。身を以て実感することになる。この痛みは、この傷は代償ということか。グリュックと名乗ったあの男と一緒にいたときはなぜか忘れていられた暗い感情が、じわりと滲んでいくのを感じた。
そうか、これからは一人でこの痛みを抱えなくてはいけないのか。誰の助けも借りず、一人で生き抜いていかなければいけないのか。ずっと信じていたメイド長の歪んだ笑みを思い出す。もう誰かを信じるのは怖かった。グリュックは不思議と信用してしまったけれど、彼はきっと特別だったのだろう。
気づけば、薄暗い路地の角にうずくまっていた。彼が見せてくれた景色と同じ、荒廃した街並みの中に自分がいた。生き抜くと決めたのに、現実逃避の代償が大きすぎて、指一本動かせない。このまま死ぬわけにはいかないのに。
そのとき、誰かが私の目の前で足を止めた。私は必死で顔を上げる。それが今の自分にできる精一杯の抵抗だった。そこにいた青年はそんな私の様子に驚いたようだった。
「生きたいかい? 俺と一緒に来るなら、助けてあげるよ」
彼はうさんくさい笑みを浮かべる。いかにも裏のありそうなその提案とともに差し伸べられた手をなんとか振り払う。
「たすけなんかいらない。だれもしんじたりなんかするもんか。ぼくはぼくだけの力で、生きぬいてみせる」
それはその青年に対しても、自分に対しても向けられた言葉だった。どれだけ現実的でない誓いだとしても、そう思わなければこの最低な現実に溺れてしまいそうだったから。すると、青年は先程までの嘘くさい笑みを引っ込めて、代わりに優しい眼差しを私に向けた。
「そうか。じゃあ、ここで死ぬわけにゃいかねえよな」
言うが早いか、彼はひょいと私を抱えて歩き出す。一体どこへ連れていかれるのか、恐怖に苛まれて必死に抵抗する。けれどすぐに力尽きて、目の前が真っ暗になった。
「きっといつか、こいつを助けたことを後悔するんだろうな」
そう自嘲気味に呟く青年の声が、薄れゆく意識の中で聞こえた気がした。
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