第28話 訪れた人物①
「菫ちゃん。一日中家にいるのって暇じゃないの?」
夏休みの間、毎日のように寝そべって、アイスを食べていた由真に言われる筋合いはない。と、菫は苦笑する。
今も由真は扇風機を独占してアイスクリームに夢中だ。
「別に。大人の夏休み貰っている感じで楽しいけど?」
「……長い夏休みだね。一年でしょ? 良いなあ」
今日は夏休み最終日。
宿題をやっとの思いで終わらせた由真は、明日からの学校が憂鬱らしく、ぶつぶつと文句を言い始めた。
それがなぜか菫へと向かう。
「――真面目に働いた私へ、神様がくれた人生半分ご苦労さんってご褒美よ。それに食事作って洗濯して、掃除して買い物に行って色々忙しいの。ダラダラしている訳じゃないわよ」
菫がえんどう豆の筋を取りながらそう答えた。
新学期が始まるせいか、市役所の教育課に勤める海人の仕事も慌ただしいらしい。
由真の前では普段と変わらない姿を見せてはいるが、少しの間だが一緒に暮らしていた菫は気が付いた。
疲れ切っていると。
そんな海人のためにと、彼の好きなスナップえんどうを、菫はかいがいしく用意していた。
そんな菫の隣で、だらけて仕方がない由真は「学校嫌だ」と一時間事に呟き駄々をこね、菫は苦笑する。
夏休みの最後は少しセンチメンタルになるらしい。
それは菫も経験がある十代特有の症状だ。
終わって欲しくないのは当然で、でも、始まらないと一年が終わらない。だが、学校に行きたくない。
「早く冬休みにならないかなあ。ねぇ、冬休みはどこかへ行こうよ。本当の家族になる前に、疑似家族ごっこしよう」
まだ新学期も始まっていないのに、もう冬休みの計画を由真がたて始めた。
しかも碌でもないことを言い始める。
海人と同居している時点で、疑似家族同然だと菫は何とも言えない顔をした。
「疑似家族って……私、まだ海人と結婚するって決めてないよ」
確かにそれとなく菫は匂わせたが、まだ結婚へと辿り着けない怖さがあった。
海人の浮気騒動が嵌められた嘘だとはわかったが、一歩が踏み出せない。
「ええ――! なんで? 海人君、優良物件だよ。あれ以上の良い男なんて私、見たことないけど。……菫ちゃんはあるの?」
まだ十四歳。人生七十年と考えると、まだほんのちょっとしか生きていない子供が何を言っているのかと菫は呆れた。
だが、由真の言葉で考え込む。
「由真の言う優良物件って顔? それとも収入?」
「どっちもだよ。イケメンでも愛だけじゃ生活出来ないし、お金があっても自分好みの顔じゃなかったらキスも出来ないでしょ?」
またしても大人びたことを言う由真が心配になる。
どこで、そんな言葉を覚えたのかと。
「……誰からどんな話しを聞いて、そんな考えに至ったのよ」
「花屋の彗君。彗君のお家、両親が十歳の頃から家庭内別居してるんだって。それで、私と意気投合しちゃってさ」
そう言うと、食べ終えたアイスカップを、由真がゴミ箱めがけて投げ捨てた。適当に投げたと思ったそれは、綺麗な放物線を描いてゴミ箱に入った。
菫は思わす頭を抱える。
仲良くなった花屋のイケメン店員に、由真は家庭の事情を告げたらしい。しかも、我が家以上に彗の家庭も複雑なようだ。
「……由真、あんまり家庭の事情を他人には言わないで。彗君はまだ口が固いと思うけど、近所の噂好きのおばさん達は話を大きくするから気を付けて」
「わかってるよ。近所の井戸端おばさん達に知られた次の日は、私と菫ちゃんが血みどろの喧嘩でもしたことになってそうだよね」
呑気な由真に菫は笑えない。
なぜなら、初めて会ったあの日を思い出したから。
決して懐かない猫のような由真に手を焼き、一緒に暮らすのを諦めたあの日を。それを思ったら、今の状況は不思議でならない。
こうして由真と仲良くしていられるのも、間に入って世話を焼いてくれた海人のおかげだと菫はわかっていた。
でも、まだ結婚したいとは思わない。
結婚の決め手は何だったかと菫は視線を宙にさ迷わせた。
すると、玄関のインターホンが鳴った。
昔ながらの甲高い、ピンポーンと聞こえるその音に菫と由真は顔を見合わせる。
「あれ、菫ちゃん。今日、誰か来る予定あった?」
だらけて気を抜いていた由真が、不思議そうに菫を見つめた。
「ないよ。誰だろ?」
今時のモニターホンなどではないため、誰が来たのか画面越しで確認出来ない。不安に思いながらも菫が立ち上がると、またインターホンが鳴り響く。
「宗教かセールスかな」
居留守も考えたが、玄関から少し入るだけで、縁側に面しているこの部屋が見える構造。変な人だったら早く追い払うのが一番だと菫は歩き出した。
「大丈夫なの? 菫ちゃん。強盗かもよ」
「平和な日本で昼間から強盗なんてどんな確率よ」
近くに置いてあったうさぎのヌイグルミを抱えた由真に呆れつつ玄関へと向かう。
だが警戒してすぐには開けない。
「どなたですか? セールスはお断りです」
戸を閉めたままそう言うと、男性の声が聞こえてきた。
「菫ちゃんかな? 久しぶり。僕だよ、僕。開けて貰っても良い? 海人は仕事だろう?」
まるで振り込み詐欺のような受け答えに一瞬考え込んだが、菫は声の主が誰か気づいた。
その低く渋い声と「海人」の言葉に急いで引き戸を引いた。
そこには、六十代の紳士と呼ぶに相応しい男性の姿。
このうだるような暑さの中、白髪交じりの髪にスーツの上着を手に持ち、爽やかに立っていた。もう片方の手に色とりどりの花束を持って。
「……お義父様」
意外すぎる人物の登場に、菫は茫然と呟くことしか出来ない。だが、すぐに菫は失態に気が付いた。
「あ、申し訳ありません。お義父様なんて呼んで。あ、あの……どうしてここに?」
疑問がありすぎて困惑している菫に、海人の父、空嗣は首を横に振る。
「良いんだよ。その呼び方で。だって、また海人と結婚する予定だと聞いたよ? 結婚しなくてもその呼び方の方が嬉しいよ。菫ちゃん」
英国紳士のような優雅さでそう言われ、花束を差し出された。
「あ、ありがとうございます」
「菫ちゃんはカラフルな色が良く似合うね。中へ入れて貰っても?」
「は、はい。勿論です」
高圧的でもないが、断ることが出来ない何かを感じて菫はたどたどしく頷いた。
スリッパを出し由真のいる居間へと案内する。
「……狭いですけど、どうぞ」
そう言い居間へと入ると、由真がうさぎのヌイグルミを抱えたまま、不審人物でも見るような目で警戒していた。
「……誰?」
胡散臭そうな瞳で由真が空嗣を見上げる。
「初めまして。お邪魔します……由真ちゃんかな? 海人と由紀子から聞いているよ。熊井空嗣と言います。海斗の父親です」
「海人君のお父さん……」
思わぬ登場人物に、由真も驚いたようだ。
「由真ちゃんだね? 由紀子が失礼なことを言ったみたいで、ごめんね。彼女はまだ海人が心配で過保護なんだ。僕が叱っておいたから許してくれるかな?」
そう言って空嗣は、ちゃぶ台を挟んで由真の前へと座った。
「……あの失礼なおばさんの旦那さん? 海人君と違って女の趣味悪い」
「由真! 失礼なこと言わないの! 申し訳ありません」
土下座するように頭を下げる菫に対して、空嗣は気にしていないと手をふる。
「大丈夫だよ。菫ちゃんも悪かったね。由紀子が失礼なことばかり言って。話し合ったから、もう君には何も言わないよ。また問題が起きたら遠慮なく言って」
この様子だと空嗣は全部知っている。そう確信した菫は途端に申し訳ない気持ちになった。
空嗣だけだった。
家柄も普通で父親は浮気中。そんな訳ありな菫を、温かく熊井家に向かい入れてくれたのは。いつも変わらぬ態度で接してくれて、その柔らかな雰囲気は以前と変わらない。
「……ありがとうございます」
「大丈夫だよ。ただ、今日はお願いがあって来たんだ」
「お願いですか?」
「うん。あ、お水かお茶貰っても良い? 暑くてかなわないね、今年の夏は特に」
確かに今年の夏は、例年にも増して熱帯夜が続いている。八月が終わる今も残暑が厳しい。
そう言うと、空嗣はハンカチを取り出して額に滲んでいる汗をぬぐう。
「あ、すぐに用意します」
菫は慌てて立ち上がった。
台所へと急ぐ菫を見ながら、由真は空嗣を見た。
「菫ちゃんを泣かしたら海人君を追い出すから」
「おや。ずいぶんと信用がないね。大丈夫だよ、僕は菫ちゃんを気に入っているんだ。海人には勿体ないと思っているよ。また捨てられなくて良かった」
「おじさん、何気に良い人?」
由真のストレートな素直さに、空嗣は声を上げて笑った。
「すぐに人を信じたらダメだよ。甘い言葉で騙す詐欺師も多いからね」
「おじさん、笑ったら海人君に似てる」
「違うよ。海人が僕に似ているの。由真ちゃんも菫ちゃんと目元が似ているね」
空嗣がそう言うと、由真が小さく息を呑み込んだ。
そして困ったように、はにかみながら嬉しそうに笑う。
「そう? 初めて言われたな。そんなこと。でも嬉しい。おじさん、ありがとう」
「素直だね。由紀子に由真ちゃんの爪の垢でも煎じて飲ませたいよ」
疲れたようにため息を吐いた空嗣の前に冷たい麦茶が置かれた。
「随分とお疲れですね。お仕事が忙しいんですか?」
菫がちゃぶ台の上に三人分のお茶を置くと心配そうに空嗣を見た。
ガラスのコップを置くと、中に入っていた氷がぶつかり合う音が聞こえる。
「仕事はそれほどでもないけど、やっぱり由紀子が落ち込んでね。実は、そのことで菫ちゃんにお願いが合って今日は来たんだ」
「私に……お願いですか?」
今まで空嗣に何かをお願いされたことがない菫は途端に警戒した。
「ああ、そんなに身構えないで欲しいな。実はね……熊井家に遊びに来てくれないかな?」
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