第22話 離婚の原因①
居間には、ピンと張り詰めた空気が流れていた。
ほんの数分前までは、由真と菫が珍しく喧嘩をしないで話し合っていたのに、今は大人達四人が、ちゃぶ台を囲み、無言で菫の淹れた飲み物を飲んでいる。
この状況を現実逃避したい菫は水を。菫の隣には仏頂面の海人が珈琲を。
その海人の隣で、上品な仕草で煎茶に口をつけているのは、海人の母、由紀子。
五十一の年齢の割に若々しく見える。夫を長年支え続けてきた不動産屋の社長夫人は、小娘には立ち迎えないほどの貫禄とオーラがある。
そして、由紀子と菫の間には一人の若い女性の姿。にこにこと海人を見ながら、優雅な所作で紅茶に口を付けた。
綿菓子のようにふわふわとしたウェーブの黒髪は、思わず触れたくなるほど艶やかで、柔らかい陽だまりのようなその女性に良く似合っている。
大きな二重の瞳に見つめられた男性は、一目で恋に落ちるほど魅力的だ。華奢な身体は男性の庇護欲をそそり、守りたいと思わせる仕草は天性のもの。
到底太刀打ち出来ない完璧なお嬢様の出現に、菫の顔色は悪い。
なぜなら、その女性こそ海人の幼馴染であり、離婚の原因なのだから。
「――いきなり押しかけてごめんなさいね、菫さん。海人の説明ではわかりにくくて、こうして伺ったの。どうしても菫さんの胸の内が聞きたくて。……海人が、菫さんと復縁したいって言うから、私、驚いてしまって」
沈黙を破ったのは、由紀子だった。
湯飲みを置くと、正面に座っている菫を見つめる。だが、口を開いたのは菫ではなく海人だった。
「母さん。その話はまだ決まっていないんだよ。今、菫ちゃんと話し合っている所だから静観していてよ。母さんが入ると碌な事がない」
「海人。こう言う話は長引かせると良いことなんて何もないのよ。早く決めた方が菫さんのためでもあるの。ねぇ、菫さん」
ぴりぴりとした海人の不機嫌な口調も一切気にせず、由紀子は菫の返事を待っている。
「菫さんに復縁の意志はあるのかしら?」
蛇に睨まれた蛙のように縮こまった菫は、首を横にふった。
「……私に復縁の意志はありません」
「菫ちゃん!」
きっぱりと菫が断ると、由紀子がほっとしたように微笑んだ。それとは反対に、海人が情けない顔で、縋る様に菫を見る。
だが、菫はそんな海人と目を合わせようとしない。
「良かったわ。ねぇ、亜沙美さん」
「ええ、これで海人さんとわだかまりなくお付き合いが出来ますわ」
三人の会話に一切口を挟まずに状況を見守っていた若い女性、亜沙美がふわりと嬉しそうに微笑んだ。
その亜沙美の「海人と付き合う」の一言に、菫の心にじわりと痛みが広がる。
やっぱり、二人はそう言う関係だったのだと、菫は思い知った。
結婚している当時も、二人は菫に内緒で会っていた。そして、別れるのを待っていたのだと。
「良かったわね。亜沙美ちゃんが海人と結婚してくれるのを、私はずっと信じていたわ。亜沙美ちゃんが一番良く海人を知っているものね。娘になってくれるのを昔からずっと心待ちにしていたのよ」
由紀子の言葉は、更に菫を傷つける。
菫も最初からわかっていた。由紀子に嫌われていることも、嫁とは認められていなかったことも。
結婚もずっと反対され、入籍しても家族の一員と認められないままで、風当たりはきつかった。
海人と結婚する前に菫の経歴や、雅彦の浮気から青木家の事情は全て調べられていた。
由緒ある熊井家の嫁にはふさわしくないと、盆や正月、親族の集まりの度に、何度陰口を叩かれたか。
その度に、菫は持ち前の精神力で何でもないように振る舞い耐えてきた。離婚して、もう解放されたと思った。なのに、なぜ今また、あの時と同じような、惨めな気持ちを味わなければならないのか、菫は泣きたくてたまらない。
早く帰って欲しいと思っている菫の心とは反対に、由紀子と亜沙美が和やかに会話を続ける。
「私が一番かはわかりませんが、私も由紀子さんの家族になりたかったので嬉しいです」
二人の会話を聞いていると、どうやら海人との結婚が決まったような口ぶりだ。
そんな二人の会話を海人がブチ切る。
「……俺は亜沙美と結婚する気も付き合う気もないけど。二人で盛り上がらないでくれる? それに、亜沙美はまだ離婚協議中だよね? まだ人妻なのに、すぐに結婚を考えるなんて理解出来ない」
海斗の意外な一言に、俯いていた菫は驚きながら亜沙美を見た。
すると、亜沙美は海人の言葉に傷ついたように大きな瞳に涙を溜める。
「海人! 亜沙美ちゃんに何てことを言うの。亜沙美ちゃんの離婚は相手が悪かったのよ。大学病院の教授の地位が約束されていたのに、何を思ったのか途上国へ行って医療がやりたいなんて。真面目だけが取り柄の地味でつまらない男は突拍子もないことを言うわ」
ぐちぐちと文句を言う由紀子は、亜沙美の家の事情にも詳しいようだ。
どうやら、腕が良い優秀な婿養子を貰ったのは良いが、急に、海外へ行って人助けがしたいと言い出したらしく揉めていると言う。
地位や名誉を捨てて、苦労するとわかっていても、自分の考えを貫く男性は素敵だと菫は思うが、由紀子と亜沙美は違うらしい。
「私、ずっと海人君が好きだったの。なのに、結婚しちゃって……私、とても辛かった。だから、私も自暴自棄になって、お父様とお母様に言われるままお見合いして結婚したけど、やっぱり違和感があったの。私はやっぱり海人君じゃないとだめなの」
これだけ可愛い女性に愛の告白を受けていると言うのに、海人は眉一つ動かさず、動揺すらしない。
それどころか、怒っているのか顔が怖い。
「亜沙美、ふざけたこと言わないでくれる? 俺が知らないとでも思っているんだね。亜沙美が高校時代に俺の親友と付き合っていたことや、大学時代も彼氏が変わりまくっていたこと知っていたけど?」
どうやら海人は本気で怒っているようで、一人称が「僕」から「俺」に変わっている。こんなに怒りを纏った海人を菫は見たことがなかった。
「そ、それは、海人君の誤解よ。正樹君には、海人君の相談をしていたの。それに、大学時代はサークルで男子が多かったから……勘違いだよ。私を信じて」
亜沙美は、見たことのあるブランド物のハンカチを鞄から取り出し涙をそっと拭う。その姿は儚げで、海人でなければ、すぐに許してしまうだろう。
「俺は正樹から付き合っているって聞いたけど? 正樹のお父さんは市議会議員だったっけ? 権力が大好きな亜沙美にはぴったりだと思ったけど、正樹自身はアニメーターを選んだから捨てたの?」
二人の会話で、菫は思い出した。
海人と付き合っていた時から、たまに三人で食事をしていた高校時代の同級生を。
相川正樹は海人よりも長身で顔も整っていた。モデルをしていると言われても納得するほどのイケメン。家も代々、政治家を輩出している家系の次男と聞いている。
だが、正樹自身は政治家に興味はなく、昔から好きだったアニメ制作の道へと進んだ。
どうやら亜沙美は、洋服や鞄と同じように、男にも仕事と言うブランド力を求めるようで、アニメ制作と言う職種は、お気に召さなかったらしい。
「それは正樹君の嘘だよ。私は告白されてもすぐに断ったの! 海人君、誤解だよ。由紀子さん……私、そんなことしていません」
亜沙美が潤んだ瞳で助けを求めたのは由紀子だった。
由紀子は、亜沙美の彼氏の話を聞くのは初めてだったらしく、目に見えて動揺している。
だが、菫と目が合うと、すぐに冷静さを取り戻した。
「海人、亜沙美ちゃんがそんな不誠実な真似をする訳がないわ。幼稚園から高校まで女子ばかりだったもの。大学は、お嬢様育ちの亜沙美ちゃんが珍しくて周りが可笑しく吹聴しただけよ。信じてあげなさい。亜沙美ちゃんが奥さんだと、私も安心だもの。だって、菫さんはいつも仕事で忙しくて傍にいない。妻は夫を支えるものだわ……。しかも、一緒に住んでないのに夫婦とは言えません」
相変わらず菫の評価を落とすことを忘れない由紀子に、亜沙美の声が弾んだ。
「私はそんな真似はしません。美味しいご飯はもちろん、家事も子育ても精一杯頑張ります」
そう亜沙美が言うと、由紀子は満足げに頷く。
「ええ、亜沙美ちゃんなら安心して任せられるわ。菫さんだと海人がいつも何を食べているのか心配だったの。作るのが面倒だとかでコンビニばっかりって聞いていたから。身体が資本でしょう? やっぱり、ご両親に問題があると……ね」
菫が何も言わないのを良いことに、雅彦と結の話を由紀子は始めた。
「夫が浮気をするのは妻に問題があると私は思うのよ。そんな家庭環境で菫さんは大変だったでしょう? やっぱり、結婚は家同士の釣り合いも大事だと私は思うの」
さすがに菫の我慢も限界だった。
何も知らないくせに、興信所から受け取った報告だけで、菫の家庭が最低だと決めつける。
由紀子は、自分の家よりも下のランクの家には、何を言っても良いと思っている。
――菫が沈黙したままだから。
菫が何も言わないのは、由紀子が海人の母だから。下手に喧嘩して、海人と由紀子の間に亀裂を入れたくないから。
それと、半分は真実だからだ。
雅彦が浮気していたのは当たっていて、そのせいで結は死んだ。……でも、それを言うなら海人も同じだ。
海斗も浮気していたのだから。そこにいる亜沙美と。
菫が覚悟を決めて反撃しようとすると、いきなり居間の襖が勢い良く開けられた。
「おばさん達、ふざけたこと言わないでよ! 何も知らない癖に家庭の事情に首つっこむな! 菫ちゃんは海人君と再婚する気はないの。それなのに、菫ちゃんをいじめて最低。あんたみたいな意地悪な腹黒ババアに菫ちゃんは勿体ないから、こっちからお断りよ。それに、顔だけ良くて親の地位に頼っているだけの中身がないおばさんは、旦那を捨てたんじゃなくて、捨てられたんじゃないの? 私ならあんたみたいな猫被った女、お断りよ! 性格ブス」
一気に捲し立てた由真は、どうやら、こっそりと話を聞いていたらしい。
茫然としている大人達を尻目に、海人の元へと行くと仁王立ちになる。
「なんで自分で処理しないのよ? 見損なったわ、海人君。こんな人達を連れて来るなんて。さっさと荷物を纏めて出て行って。この、おばさんとの関係を清算するまで菫ちゃんは絶対にあげないわ。三人共出て行って!」
由真の暴言に一番先に我に返ったのは由紀子で、顔を真っ赤にして叫び出した。
「ま、まあ。やっぱり不倫相手の子は碌な教育を受けてないのね。不愉快だわ」
「不愉快なのは私も同じよ! 出て行け!」
由紀子は由真のことも調べ上げたらしく、十四歳の子供を罵った。
そんな由紀子に、物怖じせず言い返す由真に、菫も我に返る。
「由真、お、落ち着いて」
「何で、落ち着かなきゃいけないのよ。それに、前に菫ちゃんが言ってたじゃん。海人君との離婚原因は、海人君の浮気だって。それって、この人とでしょ? ここまで来たらはっきり言った方が良いよ」
言葉に詰まった菫とは違い、由真の「海人の浮気」発言に反応したのは由紀子だった。
どうやら、自慢の息子が浮気していたことにショックを受けたらしく、顔色を失くしたまま菫を見る。
「菫さん、どう言うこと? あなた達が別れた原因は、菫さんの仕事が原因でしょ? 菫さんは結婚生活よりも仕事を優先しすぎて、海人との結婚生活が破綻していたからだって私は聞いたけど。それに、亜沙美ちゃんは、そんなことしないわよ」
それでも答えない菫に代わり、亜沙美がたどたどしく口を開く。
「……私は、身に覚えがありません。菫さんの勘違いではありませんか?」
亜沙美のその、自分は関係ない。悪くないと訴えるような姿に、菫はあの当時が蘇った。
「――去年のホワイトデーよ。夜に海人のマンションで見たわ。あなた……海人と一緒にベッドで寝ていたもの」
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