第10話 二人の食卓

「朝……」


 菫が目を覚ますと、カーテンの隙間から太陽光が入り込んでいた。

 いつも起きる薄暗い時間帯とは違って、部屋の中が明るい。だが、すぐに起きようとは思えなかった。

 部屋の中を見渡すと、中身が詰まったままのダンボールがいくつも視界に入る。


「片づけなくて良かった……」


 目覚めが悪くて瞼が重い原因をすぐに思い出した。

 由真と海人の目の前で、あんな醜態をさらしたのだ。また、すぐに引っ越すことになるだろう。

 不動産屋を巡るのは億劫だが、由真と一緒に暮らす自信がない。それまで荷物はこのままにしておこうと菫は決めた。


 一人で引きこもれば回復する。全てを遮断して自分の世界に入ろうと決意した。掛布団を頭まで被り、嫌な記憶にまた蓋をした。

 しばらくはベッドの中でごろごろしていたが、お腹が空いて仕方なく起き上がる。

 スマホを手に取ると、時刻は十一時を回っていた。


「由真はどうしたかな」


 気になるのは、由真が学校に行ったかどうか。

 別々に住むとなると、また弁護士と話し合いが始まる。

由真がどうしても施設や親戚の家が嫌だと言うのなら、寮がある学校か、信頼できる人に預けなければならない。


 由真の希望を聞いてどうするか決めようと、菫はベッドから立ち上がる。

 着替える気もなくて、どうせ自分の家で誰もいないのだからと、のろのろとパジャマにカーディガンを羽織ると部屋を出た。

 歩く度にぎしりと音を立てる縁側を歩く。

 ガラス窓には太陽光が降り注いでいる。初夏の陽気は気持ち良さそうだ。

 荒れ放題の庭も、手入れをしないまま手放すのかと思うと、少し残念に思う。ここで一年のんびり暮らそうと思っていたのに、それも、もう出来なくなる。

 居間に近づくとテレビの音が聞こえてきた。由真が、学校をさぼっているのかと思うと、入ることに躊躇した。

 でも、このまま会わない訳にもいかず、覚悟を決めて、暗い気持ちのまま居間の障子戸を引くと、想像とは違う人がそこにはいた。


「あ、起きたんだ。おはよう。気分はどう? もう少し遅かったら起こしに行こうと思っていたよ」

「…………なんでいるの?」


 目の前にいたのは、不機嫌な由真ではなく、新聞を読みながら優雅に珈琲を飲んでいる海人の姿。

 一瞬、幻覚かと菫は目を疑った。

 平日で仕事もあるはずなのに、スーツ姿でもないラフな服装。まるで自分の家のように寛いでいる海人は、菫の姿を見ると安堵した様子で微笑む。


「ご飯食べるでしょ? 一緒に食べよう。菫ちゃんが起きるの待っていたんだ。あ、座って。僕が用意するから」


 菫が返事をする前に、海人がご機嫌な様子で台所へと行ってしまった。

 状況がまったく理解出来ない菫は、海人の姿を目で追うことしか出来ない。彼がここにいる理由が不明だからだ。


「菫ちゃん、座って。ご飯食べた後で目を冷やそう。けっこう酷いよ」


 海斗は、鍋敷きと、運んで来た鍋をちゃぶ台の上に置くと、すぐさま台所へと行ってしまった。

 言われて菫は思い出す。

 泣き疲れて寝てしまい、目が腫れて大変なことを。見られたのが元夫とはいえ恥ずかしくなった。

 だけど、お腹は空いて、何のやる気もなくて、言われたまま大人しく座布団の上に座る。


 海人が持って来た鍋の中身を覗くと、昨日頑張って作ったおでん。ふわりと湯気が立ち上り、味が染みて美味しそうだ。

 そして、海人が次々と運んで来た料理に困惑する。

 朝食の定番、ご飯に納豆。菫の大好きな海老の入った茶碗蒸しに大根と人参のなます。鰆の西京漬け。

 おでんとご飯だけでも菫は十分だ。だが、ちゃぶ台いっぱいに並べられた料理は、見ているだけで幸せな気持ちになる。


「……海人が作ったの?」

「うん。まだ、このくらいしか作れないけど、菫ちゃんが良く食べていた料理は作れるようになった」


 照れたように笑う海人は、どこか嬉しそうだ。

 結婚していた当時、海人は簡単なものしか出来なかった。

 料理と言えば、目玉焼きやソーセージを炒めるくらい。それが、今は茶碗蒸しまで作れると言う。

 その海人の進歩に菫は驚きを隠せない。

 だけど、海人の左手の薬指を見て納得する。

 料理は、新しい奥さんにでも習ったのだろうと。奥さんのために努力した手料理を、食べるのが菫で、ちょっと申し訳なく思った。


「食べよう。いただきます」


 菫が戸惑っていると、海人がおでんを取り分け始める。

 それも、菫が好きな具ばかり。どうして、離婚して一年も経つのに覚えているのか不思議だった。


「……いただいます」


 菫は大好きな卵から口に運ぶ。

 ――美味しかった。味の染みた大根も。微妙に苦手なこんにゃくも。海人が大好きな練り物もいっぱい入っている。

 嫌なことがあった次の日でもお腹は空く。その時、美味しい食事を誰かと一緒に食べられる幸せを菫は感じていた。

 しばらくは、二人で黙々と箸を動かす。

 昔はおしゃべりしながら食べていたが、今は無言。

 でも、気まずさはなく、とても心地よい空間。そのゆったりした空気に、菫は心の平穏を取り戻していた。


「……由真は学校ちゃんと行った?」


 海人の作ってくれた茶碗蒸しを食べると、とても優しい味がする。ちゃんと出汁からとったらしく、とても美味しい。


「うん。朝から不機嫌だったけど、ご飯はちゃんと食べさせたから安心して。それと、今日は六時までには帰ってくるよ。約束したから。茶碗蒸し美味しい?」


 海斗は由真の話よりも、菫の口に合うかどうか、そっちの方が心配らしい。


「うん。美味しい……ありがとう」


 心配そうに、感想を待っている海人に笑いかけると、海人ははにかむような笑みを見せる。こんな素直な所が好きだったな。と、菫は昔を思い出す。

 でも、今は他人だ。線引きはちゃんとしなければならない。


「あのさ、海人。昨日は家に帰ったよね? 奥さんに申し訳ないから、もう私達に構うのは止めて。由真にも良く言い聞かせるから。自分の家庭を優先して欲しいの。今日は仕事休んだんでしょ? ごめんね」


 自分が海人の奥さんの立場なら、事情があるにせよ元妻の元へ通う夫は許せない。しかも、仕事も休んで女の家にいるなんて、嫉妬で逆上してもおかしくない状況だ。

 そんな修羅場になりたくないと、菫は顔を顰めた。


「菫ちゃん。昨日、言えなかったんだけどさ。菫ちゃんは誤解しているよ。僕、再婚してないから。それと、この指輪忘れたの?」


 呆れたように菫を見た海人は、自分の指輪を外して菫へと渡す。それを戸惑いながら手にすると、菫はじっくりと観察して言葉を失くした。

 その指輪に見覚えがあった。

 同じ指輪を菫も薬指に嵌めていたから。

 菫が好きなブランドでオーダーメイドした結婚指輪は、内側には二人が結婚した日付と名前が彫られている。


「……どうして?」


 もう、一年経つ。それなのに、どうして海人は指輪をしたままなのか菫はわからなかった。


「簡単だよ。僕は菫ちゃんを嫌いになっていないから。本当は別れたくなかったのに。僕は、まだ菫ちゃんを好きだし復縁したいと思っているよ」


 予想していなかった海人からの告白に、菫は何も言えない。

 だけど、復縁は考えられなかった。

 また、裏切られるから。また、苦しい思いをするのは嫌だから。だから、それは出来ない。


「……ごめん。無理」


 箸を置いて菫が俯くと、海人が「そっか」と小さく呟いた。


「うん。この話はゆっくりでいいや。それよりも、これからのことなんだけどさ」


 さらりと話題を変える海人に、菫はあからさまに安堵したような表情を見せた。

 その菫の姿を見た海人が、心底へこんでいることを、菫は気が付かない。


「菫ちゃん、由真ちゃんとの同居どうするの?」

「……やっぱり、別々に暮らそうと思ってる。引き受けた時は、大丈夫かと思っていたんだけど。由真に、あんなに嫌われているなら別々で暮らした方がお互いのためだし、この家も売ろうと思っているの。そしたらお金も手元に残るし、由真も好きな大学に行けるから」


 あんなに「出て行け」と散々言っていたのに、今日は素直に海人と話が出来る。事情が複雑な分、他人に話せる内容ではない。

 菫や由真の両親達の話も理解している海人に話を聞いて貰えるのは、とてもありがたかった。


「別の所に住むなら僕と一緒に住めば良いよ。菫ちゃん、今、無職でしょ?」


 とんでもないことを言い出した海人に菫は苦笑する。


「それは無理」


 きっぱりと断ると、海人はまたしても残念そうに目尻を下げた。


「……今の菫ちゃんと僕なら上手くいくと思う。あの時と違って」

「……海人。それは諦めて。私にその気はないから。それに、昔も上手くいかなかったんだから、今も上手くいかないよ」


 何度も菫が拒否すると、海人は悲しそうに笑った。


「わかった。今は二人で住むのは止めとく。じゃあ、ご飯食べたら一緒に縁側でお茶しよう。昨日、菫ちゃんが好きだったケーキ買って来たんだ。僕は、菫ちゃんの手作りのプリンを食べるから」


 海斗に言われて菫は思い出した。

 冷蔵庫に眠ったままになっているプリンの存在を。

 そして、自分が大好きだったケーキを買ってきてくれた海人に、菫は心の奥がじんわりと温かくなる。


 こんなにも冷たくしているのに、変わらず優しい海人に菫は感謝した。

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