第31話 熊井家訪問②
「本当だ! このケーキ美味しい」
空嗣に勧められるままケーキを頬張る由真は幸せそうだ。
由真がいるおかげで、重い空気の中、菫も何とか平常心を保っていた。
何畳あるのかわからないリビングに吹き抜けの天井。壁一面の掃き出し窓の向こうには、西洋風の田園風景が広がっている。
夏に咲く薔薇でアーチを作り、所狭しとハーブが植えてある。小川に水車小屋が見える時点でここは本当に日本かと疑いたくなるほど。
「ここのお家、竹藪があるのに水車があるの? ちぐはぐだね」
由真の疑問は、菫が初めて熊井家に訪れた時と同じだった。
菫はそれをあえて言葉には出さなかったが、素直な由真はすぐに口に出す。
「ああ、正門から母屋は昔からあるから竹藪で、こっちのリビングは三年前に増築して西洋風にしたんだよ。由紀子は園芸が趣味でね。綺麗だろ?」
「うん。凄く素敵。アニメ映画みたいで想像が膨らむ」
空嗣の言葉に由真は顔を輝かせた。
由真は夏休みの間に見たアニメ映画を気に入ったらしく、その風景と、この庭がそっくりだと話し始めた。
そんな無邪気な由真とは違い、菫は美味しそうなケーキも喉を通らないくらい緊張は増していた。
なぜなら、テーブルを挟んだ菫の目の前に由紀子が座っているせいだ。菫の隣には由真。由紀子の隣には空嗣が。
颯は一旦リビングに入ったが、電話がかかってくると、すぐにまた出て行った。
そのせいで、今は四人。
空嗣と由真とは違い、菫と由紀子の空気は濁っているかのように重い。
透子がお茶を運んでからも、二人共、飲み物は口にはするが会話が一切なかった。話すのは専ら空嗣と由真のみ。
このままではいけないと思いつつも、菫は声にならない。喉の奥に何かが詰まっているように言葉が出てこないのだ。
「……海人は元気かしら」
そんな沈黙を破るように、由紀子が口を開いた。
途端に、空嗣と由真も静かになり二人を見つめる。
「はい。問題ありません」
いきなり話かけられ、焦った菫は自分でも良くわからない受け答えをしてしまい、顔が強張った。この会話では、まるで上司と部下だと菫は落ち込んだ。
ただ一言「元気です」と、そう言えば良かったのに。
そんな菫の焦りも見通すように、由紀子は頷いた。
「……そう」
全く会話が続かず、気まずい沈黙が落ちる。
由真も空嗣も顔を見合わせ困り顔だ。
もう和解も無理なのかと誰もが思ったその時、いきなりドアが開いた。
「なに、このお通夜みたいな空気。……皆、大丈夫?」
入って来たのは颯で、後ろから女性の姿も見える。
軽くパーマがかかった黒髪に、清楚な空色のワンピース。白いカーディガンを羽織っている女性は、見るからに優しそうだ。
そんな女性は、場の雰囲気を察しても笑顔を崩さない。
「ようこそ、颯の父です。菜摘さんですね?」
空嗣が立ち上がり二人を迎え入れる。
それに習い由紀子も、菫達も立ち上がった。
「はい。葛城菜摘です。よろしくお願いします」
礼儀正しく爽やかに挨拶する菜摘の笑顔が眩しかった。
それを見ていると、菫は初めて熊井家に訪れた日を思い出す。
緊張した菫を海人と空嗣がフォローしてくれたが、由紀子の態度は冷たく顔が強張ってしまったことを。
「初めまして、颯の母です。よく来て下さいました。さあ、座って下さいな」
菜摘が家に来ることを聞いていなかった由紀子は、内心何を思っているのか不明だが、表情を崩さず颯達に座るように促す。
「あ、あの。私達はこれで失礼します」
大事な挨拶の時に、自分達がいると場の雰囲気が悪くなるかも知れないと、菫は気を使って帰ろうとした。
だが、それを颯が止める。
「いや、菫さん達もいて」
そう言うと、菫達に菜摘の紹介を始めた。
そうなると、菫も由真も帰るタイミングを逃し、また言われるまま元の席へと腰を下ろす。
全員が座ると、当たり前のように由紀子の質問が始まった。
歳、家柄、家族構成、学歴、両親の仕事に菜摘自身の仕事。交友関係に飼っているペットの名前まで。
まるで身辺調査をしているような質問の嵐は菫自身も経験したもの。
それに嫌な顔一つせずに笑顔で答える菜摘を菫は尊敬した。
菫の隣で二個目のケーキを頬張っている由真は、ここまで聞くのか。と軽く引いている。
唯一、由紀子の表情がわずかに揺らいだのは、菜摘の歳が三十九歳とわかった瞬間。三十二歳の颯とは七歳の年の差があった。
「……まあ、ご両親ともご立派ね」
菜摘の家系は教職や政治家、弁護士が多いらしい。父親は大学教授。母親は弁護士。兄は海外の大学で研究をしているらしい。
そして祖父は地方議員。非の打ちどころのないエリート一家だ。
ここまで聞いて、菫はそっと目の前のケーキに手を伸ばす。
空嗣の計らいか、菫の好きなアップルパイだ。生クリームをつけて食べると酸味と甘みが絶妙で擦れた心に染み渡る。
そんな青木家の姉妹は邪魔にならないようにと、物言わぬ空気に徹した。
家柄も由紀子が好きな昔ながらの名家だと判明し、お通夜だった空気が変化していく。
「……金持ちの家には金持ちが嫁に来るのか。菫ちゃんは一般家庭なのに、どうして海人君と……不思議だ」
由真の小さな呟きは菫にしか届かない。
姉に向かって失礼なことを言っている。海人が選んだのだからしょうがない。と、菫はアップルパイにフォークを突き刺す。
しかも、菜摘自身の職業は医者。脳外科医らしい。
看護師を目指している由真は、それを聞くとぴくりと反応を示したが、大人しくケーキを食べている。
どうやら場の空気を読んだようだ。
少しは大人になった由真に、菫は心の中で喜んだ。
「そう、素晴らしいご家庭ね。私も菜摘さんが嫁いで下さるなんて、とても嬉しいわ。賑やかになりそうね。でも、歳を考えると子供が早く授かると良いわね」
そう言うと、由紀子はチラリと菫を伺う。
その表情は、菫が一番苦手とするものだった。
家柄も普通で顔も普通。何の特技もない菫を侮蔑し下げずむ視線に、菫は何度も泣きそうになった。
海人とまた復縁すると、これから一生、菜摘と比べられる。
そんな日々が、菫には耐えられそうにない。
やっぱり、海人との復縁を諦めようと決めた時、菜摘が恥ずかしそうに口を開く。
「ありがとうございます。お義母様にそう言って頂けると、とても嬉しいです。それと、私、実は再婚なんです。実は七年前に離婚しまして」
「……えっ?」
思ってもみなかった話に、由紀子は勿論、菫も声を出しそうになったが何とか耐えた。
初々しい雰囲気の菜摘を見ていたら、勝手に初婚だと勘違いしていた。
「じゃあ、颯とは再婚……」
「はい」
にこやかに答える菜摘に、由紀子は何も言わない。
「あ、じゃあ、菫ちゃんと海人君と同じだ。ね、菫ちゃん!」
怖い物知らずの由真がここぞとばかりに声を張り上げた。
「颯から聞いています。菫さんこれからよろしくね。今度、私達の家にも遊びに来て。結婚しても仕事を続けるから病院の近くに家を買ったの。由真ちゃんもぜひね」
「行きたい! 今度、三人で行く」
無邪気な由真は菫にも同意を得ずに、勝手に菜摘から約束をとり付けていく。だが、菫は目の前にいる由紀子が怖かった。
例えるなら般若。そんな言葉がぴったりなほど由紀子は怒っている。
「……颯。私達と同居はしないの? そう言う約束だったでしょ? 息子と同居するのを楽しみにしていたのよ」
厳しい怒りを抑えた声色に、途端に由真も菜摘も静かになった。
問いかけられた颯はと言うと、動揺する様子もない。
「そんな約束していないだろ? 父さんも別に一緒に住まなくても良いって言っていたけど? それ、亜沙美ちゃんと夢見た母さんの妄想だから」
空気が凍った。
「颯、それは言いすぎだよ」
菜摘がフォローを入れるが、もう遅い。
「本当のことだろ? 亜沙美ちゃんにそそのかされたせいで、海人には嫌われて菫ちゃんには怖がられる。自業自得だよ」
「颯さん」
ストレートに言いすぎだと、慌てて菫も颯を止める。
だが、いきなり由紀子が立ち上がり何も言わずに部屋を出て行った。
「由紀子! ああ、皆は適当にやっていて」
空嗣が苦笑しながら由紀子を追って部屋を出る。
残されたのは、気まずい菫と、困ったような表情の菜摘。それと少し怒っている颯に、なぜか楽しそうな由真だった。
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