第30話 熊井家訪問①

「うわー。大きい。ここが海人君の実家か―。海人君ってお坊ちゃまだったんだ」


 海斗の生家、熊井家の庭を見渡し、由真が恥ずかし気もなく大声で感想を言い始めた。


 昔ながらの日本家屋。と、行っても青山家みたいな市民感満載の家ではない。

 どちらかと言うと今時の和モダン。

 立派な門をくぐると、まだ歩くのかとげんなりするくらい小道が続いている。しかも、周りは竹藪に囲まれ、ここが住宅街だと忘れるほど広い。

 本来は車で走り抜けるのに、由真が歩きたいとはしゃいだせいで、私達は徒歩で本邸へと向かっている。


 車ですぐな距離も、歩くと十分かかると言う一般市民にはありえない感覚。

 しかも、由真があれこれと気になるようで、立ち止まっては空嗣に質問をする。そのせいで門を抜けて、かれこれ三十分が経過していた。

 池の鯉から始まり鹿威しの独特の音を聞く。江戸時代から置かれている灯籠に茶室見学。しまいには本邸に行く前に離れを案内すると言い始めた空嗣を止めて、やっとで本邸の玄関が見えて来たとこで、すでに菫は疲れ切っていた。


「由真ちゃんは面白いな。日本の家はまだ小さいよ。おススメはハワイの別荘だから今度連れて行ってあげるよ」

「本当! 超、楽しみ」


 空嗣の言葉に、由真がはしゃぎながら無邪気に笑っている。

 その光景を見て、二人の後ろを歩く菫は胃に手を当てていた。緊張からかキリキリと痛むようだ。それと心なしか顔色が悪い。

 そんな憂鬱満載な菫を気にもせず二人は始終楽し気だ。


 青木家を出る直前に、菫は海人にメッセージを入れたが、仕事中のため未だに既読がつかない。海人と相談しないまま来てしまって本当に良かったのかと菫は考え込んでいた。

 余計なことをしてしまったのではないかと。

 もしこれで、海人と由紀子さんとの仲が更に悪化したら責任を感じてしまう。


「さて着いたよ。どうぞ」


 空嗣が重厚な玄関のドアを開けると、そこにはお手伝いさんと思われる女性が立っていた。


「お帰りなさいませ。奥様がお待ちです」


 そう淡々と答える女性に、菫は覚えがあった。

 数えるくらいしか会ったことはないが、六十代と思われる白いエプロンを身に付けたその人は、菫にも柔和な笑みを向けてくれる。


「お帰りなさいませ、菫さん」

「ご無沙汰しております。透子さん」


 見知った顔に菫の緊張も少しだけ解れた。

 彼女も空嗣と同じで菫には優しかった一人だ。

 だが、由紀子に雇われている身としては、菫を直接助けることは出来ず、遠巻きで見ていることが多かった。不安げに菫を見つめていた印象が強い。

 それでも、一族が集まる盆や正月などのイベント事では、親戚一同からの嫌味の嵐に、菫をさりげなくフォローしてくれたのが、この透子だった。


「お元気そうで安心致しました。海人さんと離婚したと聞いた時は本当に驚きました。でも、元に戻って本当に良かった」


 そう言って涙ぐむ透子を見て、菫は気づく。

 どうやら、思っていた以上に透子から心配されていたらしい。


「海人さんは言わないでしょうけど、菫さんと別れた後、半年ほど使い物にならないくらい落ち込んでいられましたから」

「えっ……?」


 初めて聞くその話に、さりげなく聞いていた由真も声を上げた。


「だよね。私も隣に住んでいたから知ってる。仕事とマンションの往復しかしなくてさ。パパとママも心配して食事に誘っていたもん。まるでゾンビみたいだった」


 由真が腕を組んで頷いている。


「そうだった。あの時はさすがに僕も海人の様子を見に行ったよ。でも、つれなくすぐに追い返されて困ったね」


 空嗣までも当時を思い出したようで、苦笑しながら菫を見た。


「奥様も心配して何度も実家へ帰るように促しても、海人さんは固くなに拒否して……。でも、菫さんと一緒なら安心ですね」


 まるで菩薩のような笑みを浮かべる透子さんに菫は居たたまれなかった。

 なぜか、透子の中では、もう海人と菫は復縁することになっているらしい。



「――玄関先で何を話し込んでいるの? みっともないから早く上がりなさい」


 その時、私達の会話に割り込むように鋭い声がかかる。

 広い玄関の先には、由紀子が着物姿で立っていた。

 普段から洋装よりも和装を愛する由紀子は家でも着物だ。その上品な立ち姿に厳しさが混じり、見つめられると菫は委縮してしまう。

 由紀子に会う度に小言を言われ、圧迫感を覚え、何も話せず言い返せない。今日だって覚悟をして来たのに、すでに雰囲気に呑み込まれて手に汗が滲む。

 鋭い視線は、頑ななまでに菫を拒んでいるように感じて息苦しく耐えられなかった。


 菫自身が思っている以上に身体が先に悲鳴を上げて足が動く。

 耐えられなかった。


「ご、ごめんなさい。やっぱり帰ります」

 慌てて踵を返しドアに手をかける。

「菫ちゃん!」

「菫さん」


 由真の声と一緒に由紀子の声も聞こえたが、動揺している菫は反応出来ない。

 早くここから逃げ出したいと、ドアを押し開こうとすると、重厚なドアは重力など感じないように軽く動く。

 開かれたドアの先には、一人の男性。

 どうやら、その男性も家の中に入ろうとしていたらしく、菫とタイミングが重なったらしい。前のめりになって転びそうな所をその男性に体を支えられて助けられる。



「えっ……菫さん? また何かしたの? 母さん」


 海人の兄である熊井颯くまいはやては、呆れた様子で中にいる由紀子を見た。

 どうやら涙目で顔色が悪い菫を見て、また由紀子が何かやらかしたと思ったらしい。


「ち、違うわよ。何もしていません」


 由紀子の苛立った声に、颯は慣れた様子で言い返す。


「もう嫁いびり止めなよ。そんなことばかりしていたら誰も寄りつかなくなるよ。俺も彼女を連れて来れない」

「……嫁いびり。颯、親に向かって失礼よ!」

「本当のことだろ。菫さんに会う度に嫌味や小言を言って、海人のマザコンにも問題はあるけど、もう子離れしなよ。菫さんも気にしないで良いよ」


 菫の様子を気遣う颯に菫は目を見張った。

 前はこんなにもフレンドリーではなく、颯と会話したのも数えるほど。

 一度も染めたことのない黒髪に眼鏡をかけ、海人よりも少しだけ背が高い。いつも仏頂面で喜怒哀楽が乏しい。趣味が仕事の颯は菫と会うと挨拶はするが、こんな風に庇ってくれることはなかった。

 ロボットのように人間味を感じなかった颯に目を見張る。


「……颯さんはご結婚なされたのですか?」


 こんな時に、とんちんかんな質問をした菫に、颯は首を振った。


「いや。まだだよ。でも、俺も結婚したい人がいるんだ。でも、母さん見てたら連れて来るのが不安でさ。菫さんを見ていたから。……ごめんね。色々と助けてやれなくて。今、思うと俺も酷かったよな」


 颯が菫に向かって謝罪の言葉を口にする。

 その様子を見て更に菫が困惑した。

 菫の知っている颯とはまるで別人だったからだ。

 人に興味が無かった颯をここまで変えたのは、結婚したいと思う女性の存在だと思うと、恋の力は凄いと菫は感心する。


「颯、結婚って。私、何も聞いていないわよ? お相手はどういう方なの?」


 またしても割り込んで来たのは由紀子で、さっきまでの凛とした姿はなくなり菫に負けず劣らず顔色が悪い。

 どうやら颯から何も聞かされていないようだ。

 落ちついている空嗣を伺うと、素知らぬ顔で話題を変えようとする。その態度を見ていると、どうやら颯の相手を知っているだ。


「皆、ここでは話しにくいからリビングへ移動しよう。透子さん、お茶の用意をしてくれ。菫ちゃんも嫌だろうけど上がってくれる? 本当に無理なようなら僕が責任を持って家まで送るから……ごめんね」


 申し訳なさそうに、空嗣が菫に話しかける。

 そんな空嗣の言葉に菫が迷っていると、颯も菫に小声で囁いた。


「菫さん、ごめん。これから荒れそうだから一緒にいて貰えないかな。実は俺の彼女も呼んでいるんだ。絶対に母さんが怒る自信があるから菫さんが居てくれる方が助かる」


 そう颯にまで言われると、菫も無理に帰れない。

 恐る恐る由紀子を見ると、神妙な顔つきで菫を見ていた。それがまた怖くて足が後ろへと動く。

 すると、なぜか私の目の前に由真が立ちはだかった。


「ほら、行くよ、菫ちゃん。ここで話が終わったら、もう、この家に来る必要なくなるから今だけの辛抱だよ」


 由真のその素直な一撃に、颯と空嗣が声を上げて笑う。

 透子も顔を逸らし何かを耐えるように俯いている。由紀子の手前、笑うことは出来ないようで必死に耐えているようだ。


「……行きますよ」


 全ての言葉を飲み込むように、由紀子が歩き出す。


「さあ、どうぞ。颯、お菓子は買って来てくれたか?」

「ああ、言われた通り並んだよ」


 そう言うと、颯は持っていた立派な紫紺の紙袋を空嗣に見せた。

 金で書かれたロゴを読むと、近くにある老舗の有名ホテルのもの。最近、テレビで紹介されたせいか、今は並ばないと買えない。


「それそれ。それが美味しいんだ。由真ちゃん、今の僕のマイブームのケーキだよ。凄く美味しいから」

「わぁ。それ、凄く楽しみ」


 そう由真が言うと、空嗣に促されるままスリッパを履き中へと入って行く。

 どうやら菫達のために、空嗣が颯に買って来るように言ったらしい。ちなみに菫達は手ぶらだ。

 何かお菓子でも持って行こうとした菫に、空嗣が「いらない」と頑なに止めた。やっぱり、手土産を持って来るべきだったと菫は後悔したが、もう遅い。


「菫さんも入って。大丈夫だよ。母さん、あれでも意外と落ち込んで反省しているから。海人は今日、平日だから仕事か。連絡入れた?」

「はい。でも既読にならないから仕事中で気づいていないと思います」

「そっか。なら、仕事が終わったらすっ飛んで来そうだな。あいつも怒ると厄介だから。菫さんと別れた時はゾンビみたいだったけど……ありがとうね、また海人と暮らしてくれて」


 颯もまた菫と海人は復縁すると思っているらしい。


「あ、あの……。私、まだ海人と復縁するとは……決めてなくて」


 小声で伝えると、颯は神妙に菫を見る。


「そう。でも、復縁しなくても海人は一生、菫さんから離れないと思うよ。あいつ、執着激しいから。離婚した時、あっさり別れたから母さんと海人のせいだと思ってた。ほら、あいつマザコンだったから」


 颯は海人のマザコン具合を把握していたらしい。


「行こう、菫さん。どうぞ」



 一瞬、躊躇した後、由真も行ってしまったのだから帰れないと悟った菫は、大人しく颯の後を付いて行った。

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