第29話 訪れた人物②
「お宅に? でも、まだ、その結婚は……」
海人との結婚に戸惑っている菫は頷くことに躊躇した。
そして、何より熊井家には菫を嫌っている由紀子がいる。そう思うだけで、行く気は起きなかった。
「菫ちゃんは、まだ海人との復縁を迷っているみたいだね。それに、熊井家に顔を出すのもためらっている。由紀子は最初から菫ちゃんに冷たく当たっていたから。海人もあれから一度も実家に帰って来なくて。由紀子が落ち込んでしまって見ていられないんだ。海人は連絡も拒否しているから、どうしようもなくて」
申し訳なさそうな空嗣に、菫は黙り込む。
菫が海人と結婚している間も、由紀子は菫を毛嫌いしていた。その態度を隠す訳でもなく目に見える形で示していた。
その度に菫は傷つき、そして海人と空嗣は菫を庇う。それが由紀子を更に怒らせてしまい悪循環が生まれていた。
「あの、申し訳ないのですがお断りしたいです。あまり良い思い出がないので……」
曖昧にしておくよりは、きっぱりと断った方が良いだろうと菫は空嗣を見る。
すると、空嗣は菫の答えがわかっていたかのように頷いた。
「ごめんね、無理を言って。実は、今、由紀子が家に引きこもっていてね……。外に一歩も出なくて、連れ出そうとしても頑なに動かない。僕も困って……あ、今の話は忘れて」
気にしなくて良いと空嗣は言うが、菫は反対に気になってしょうがなかった。
菫が知っている由紀子は、社交的で習い事もして優雅な生活をおくっていた。自宅に友達を招くのも好きで、週末は必ず客が来ていた。
それが今は一転引きこもり。
それを聞くと菫は心配になる。
「やっぱり海人と私のことで……」
「菫ちゃんは気にしないで良いよ。その内立ち直るだろうし。それと、亜沙美ちゃんのことだけど、もう熊井家には出入りしないから安心して。亜沙美ちゃんは海外に行ったから」
「えっ……」
海人と菫が離婚した原因、その亜沙美が日本にいない。
まさかの展開に菫は驚いた。
「亜沙美ちゃんは離婚協議中だった旦那さんの元へ行ったよ。聞いているかな? 発展途上国で医療をやりたいと言った男の話」
空嗣の説明に頷く菫だが、亜沙美の行動が信じられなかった。
なぜなら亜沙美は心底嫌がっていた。地位や名誉も捨て、言葉も習慣も違う辺鄙な国へ行くことを。
「意外ですね。都会が大好きな亜沙美さんが行くとは思いませんでした」
「うん。僕もそう思うよ。亜沙美ちゃんは常に誰かに囲まれた、キラキラ女子を目指していたから。旦那さんが迎えに来たらしいけど、詳しい事情までは亜沙美ちゃんの両親も教えてくれなくてね」
その説明に菫は曖昧な表情を浮かべた。
「ふーん。そのせいで由紀子さんが落ち込んでいるんだ。菫ちゃんの悪口を言う相手がいなくなったから」
大人の会話に入らず、黙って話しを聞いていた由真が口を開いた。
「由真!」
菫もその通りだと思ったが、何も空嗣の前で言わなくても良いと窘める。
「由真ちゃんの言う通りだよ。張り合いが無くなったんだ。いつも亜沙美ちゃんが賛同してくれて何もかも肯定してくれていたから。さすがに、家庭の事情を他人には言えないからね」
「でも、海人君にはお兄さんとお姉さんがいたよね? その二人には愚痴らないの?」
由真はここぞとばかりに追及した。
「ああ、あの二人は仕事を理由にして真面目に聞かないから。それも寂しかったんだろうね。私も……同じだよ。家に帰る度に愚痴や他人の悪口を聞かされたら誰だって疲れるだろう? だから、皆、由紀子の話を聞かなくなった」
それが失敗だったよ。と落ち込む空嗣は疲れ切っている。どうやら、由紀子の症状は深刻なのかも知れないと菫は迷い始めた。
この前の騒動のせいで、由紀子がこのまま立ち直れなかったらと罪悪感が沸く。
でも、熊井家に、由紀子に会う自信がない。
それほどまでに、菫にとって由紀子は苦手な人物だった。
「ふーん。じゃあ、私も行くから菫ちゃんも行こうよ。心配なんでしょ? 顔に気になりますって書いてあるよ」
由真がとんでもないことを言い始めた。
「どうして、そこで由真が行くのよ。……私はちょっと」
戸惑う菫に由真は子供特有の、よくわからない力説を始める。
「だって、このままだと菫ちゃん引きずるでしょ? それに海人君も私達には言わないけど気にしてるよ。なら、嫌なことは終わらせてすっきりさせよう。こう言うのは早い内が良いってパパが言ってた」
「あの人……どの口が言うのよ。それを」
菫が間髪入れずにつっこんだ。
早い内が良いのなら、とっとと菫の母である結と話し合って離婚すれば良かったのだ。弁護士を立てて法廷で争うことになったとしても。
それをしなかったのは、菫と由真の父、雅彦のずるい部分だ。
「菫ちゃん、落ちついて。由真ちゃんもありがとう。その気持ちだけで十分だよ。行きたくない人を無理やり連れて行く訳にはいかないから」
「でもさ、このままだと仲直り出来なくなるよ。時間が経つと会いにくくなるじゃん。不登校の人みたいにさあ」
どうして、ここで不登校が出てくるか良くわからなかったが、菫は確かにその通りだと思った。
時間が経てば経つほど、お互い連絡を取るのに勇気が必要で早々にためらい諦めてしまう。そうなると修復はどんどん難しくなる。
マザコンの海人も、これ以上の関係の悪化は望んでいないだろう。そう菫は結論づけた。それに、今まで我慢していた菫にも原因があった。
海斗の母親だからと、曖昧に言葉を濁して逃げていた責任もある。
そんな関係を清算すれば良い。なるべく早い内に。
「わかった。由紀子さんに会いに行きます」
「本当? 菫ちゃん。とても助かるよ!」
空嗣は喜び由真にお礼を言い始めた。そんな空嗣の反応に由真は得意げだ。
「でも、嫌になったらすぐに帰りますよ?」
「それは問題ないよ。好きな時に帰って。フォローは僕がちゃんとするから。本当にありがとうね、菫ちゃん。それに由真ちゃんも。じゃあ、今から行こう」
「……今から? 今日ですか?」
「うん。善は急げって言うから。僕は由紀子に菫ちゃん達を連れて行くって連絡するから」
なぜか少し涙ぐむ空嗣は、菫が止める暇もなくスマホを操作して電話をかけ始めた。
その素早い動きに呆気にとられながらも、菫は由真に促されるまま、熊井家に向かうために用意を始めた。
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