第8話 間違った答え
「そろそろ帰って来るかな」
時計を見ると、夕方の六時を指している。由真に帰宅時間を聞き忘れた菫は落ちつかない。由真のリクエストのおでんは、もう出来上がっている。
味が染み込む絶妙な時間を考え、文明の力である圧力鍋を使った。おかげで満足のいく出来栄えに菫は満足げだ。
そわそわと居間でテレビを見ていると、ちゃぶ台に置かれた青紫色の紫陽花が目に入る。
それは古めかしいこげ茶色のちゃぶ台の上に置くと、とてもレトロで可愛い。思わず写真を撮ってしまうほど。
買い物から帰ると、庭へ出て紫陽花を調べた。葉っぱだけが大きくなって花芽が上がっていない。栄養が足りないのだろう。紫陽花の時期が終わったら切り込みをしようと菫は予定をたてる。
また、あの満開の美しい紫陽花に出会うために。
それからテレビを見たり、本を読んだりして過ごすが、由真が一向に帰って来ない。
「もしかして、部活でもしているのかな」
由真のことを何にも知らない菫は、心配になりスマホを手に取った。由真のスマホに電話をかけてみるが、呼び出し音が鳴るばかりで一切応答がない。
菫は居間で立ち上がり、うろうろしながら時計を見つめた。
時刻は八時三十分を過ぎる頃。
「……どうしよう。何かあったのかな?」
由真の交友関係も、学校が終わったら何をしているのかも昨日、話すことは出来なかった。それが今は悔やまれる。
まだ、未成年の十四歳。なのに、お金のことで由真を追い詰め、海人がいたせいで苛ついた。そのせいで、大人としての対応が出来なかった。
菫は昨日と今日の朝の出来事を思い出し、自分の対応の悪さを反省した。
半分は血が繋がった妹だ。
雅彦は憎いが妹は関係ない。そう、頭では理解していたが、由真と話す度に、目元が大嫌いな雅彦に似ていることに気づく。
そう思ってしまうと、仕草も話し方もだぶって見えて仕方がない。
夜は、穏やかに話そうと決意していたのに、このままでは話どころではなかった。
もしかして、この家が嫌になって本当に家出でもしたのかと不安が渦巻く。
時刻は八時三十分を過ぎる頃。
さすがに不安になり、学校へ連絡してみようと思ったその時、玄関の扉が開き、賑やかな声が聞こえた。
慌てて玄関へと行くと、楽しそうな由真と、にこやかに話している海人の姿が目に入る。海人の手にはケーキの箱。
海斗はにこやかに、菫に「こんばんは」と挨拶をするがそれどころではなかった。
「連絡もしないで何してたの? どうして熊井さんと一緒にいるの?」
「……あなたには関係ないじゃない」
悪びれもせずに由真は菫を見ると、不機嫌そうに言い捨てた。
つんつんしているその態度に、苛立ちが募る。
リクエストされたおでんを作り、夜は一緒に食べようと待っていた。
女の子だから甘い物は好きだろうと、プリンも作って。なのに、由真は心の底から菫を嫌っているように見える。
――大嫌いだと。出て行けと。そう由真の黒い瞳が語っているように思えた。
その瞳が、職場の同僚達を思い出す。
最初は仲の良かった同期の些細なミス。
それが、菫の知らぬ間に話がねじれて周囲に伝わり人間関係が悪化した。
言い訳を一切せず、その内、皆が真実をわかってくれるだろうと流れに任せていたら、事態はどうしようもない状況になっていた。
仕事をあれこれ押し付けられ毎日残業。責任を取らされて泣きそうになった、あの日が蘇る。
――誰も助けてくれなかった。
そんな過去が蘇ってくると、菫が必死で我慢していた想いが一気に溢れ出す。
それを何とか我慢するようにと、菫は目を瞑り、必死で「大丈夫」だと言い聞かせる。胸元の服を握り締め、冷静になろうと呼吸を繰り返した。
「えっ? 由真ちゃん。菫さんは体調不良だって言っていたよね?」
二人の会話で事情を察した海人が、困惑するように話に入ってきた。
「えっ? もう、治ったんだよ。それとも、体調不良も嘘だったんじゃない? この人、海人君のこと嫌いそうだもん。会いたくないって言っていたから」
由真が何を言っているのか、動揺している今の菫にはわからなかった。二人の会話を、聞いている内に、何とか理解する。
どうやら由真は、海人に嘘をついたらしい。
――嫌な記憶が更に溢れ出す。
由真の甘ったるい拗ねた話し方も、海人に「私を信じて」と訴えかける瞳も、あの日が蘇る。
誰にも頼れず相談出来なくて、一人では、もう、どうしようもなくて助けて欲しかった、あの頃を。
「由真ちゃん。お姉さんだよ。君と一緒に暮らしてくれる、大切なお姉さんだよ」
「だって、海人君。私は一人暮らしでもやっていけるんだよ。それを、この人が邪魔をするの。この人と一緒にいると息苦しいから嫌だ。私、この人嫌いだもん。パパも嫌いだって言ってた。困った娘だって!」
由真の暴言に、海人の顔つきが厳しくなる。
だが、由真は止まらない。
さらに何かを言っているが、菫はそれどころではなかった。
もう、内容は頭には入ってこない。
でも、遠くの方で聞こえたその言葉は残酷で、わずかな、ほんの少しだけ残っていた雅彦への愛情も砕け散った。
本当に嫌いだったから、菫と結を捨てたのだと。わずかな希望を持って待っていた結は、愛されていなかったのだと現実を叩きつけられた。
もちろん、結の娘である菫の存在も……いらなかったのだと。
菫が家を出て行く時、先に雅彦を捨てたと思っていた。なのに、本当は、最初から菫が捨てられていたのだと、初めて気づいた。
そんな由真の主張を聞くことに、菫はもう疲れてしまった。
どうして、一緒に住むことにしたのだろうかと。
どうして、ここまで言われて何も言い返さないのだろうかと。
どうして、妹とご飯を食べるのが、あんなに楽しみだったのだろうかと。
どうして、歩み寄ってくれないんだと。
どうして、こんなにも人に嫌われてしまうのかと。
誰かと一緒に暮らしたかっただけなのにと。
たった一つ、――家族が欲しかっただけなのにと。
「……海人、もう良いから。由真、好きにしなさい。生活費は渡すから一人で暮らして。私は二度と何もしないし口も出さない」
全てを放棄しようと決意した菫は疲れ切っていた。
まだ一緒に住み始めて二日目なのに、無理だと、心が持たないと、現実を見ないことにした。
「菫さん? どうしたの? ねえ、菫さん!」
ぐったりと全てを諦めた表情。その見たことのない菫の姿に、海人がようやく異変に気づく。
由真は何が起きたのかわからない様子で、困惑した様子で海人と菫を見ていた。
「……海人は早く家に帰って。奥さんが待っているんでしょ?」
「えっ? 菫さん、待って!」
もう何も考えられない菫は二人を残して自分の部屋へと向かう。
海斗と由真が何かを叫んでいるが菫の頭には届かない。
そして、部屋へと戻ると、鍵をかける。
のろのろと着替えを済ませるとミノムシのように丸くなりベッドへと横たわる。
早く寝ようと、早く夢の中へ逃避しようと、菫は泣きながら目を瞑った。
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