第9話 海斗の逆襲
居間には微妙な空気が流れていた。
菫が嬉しそうに飾った紫陽花が置いてあるちゃぶ台を挟み、海人と由真が無言で向かい合って座っている。
あの後、海人が菫の部屋の前で声をかけるが、当たり前のように返事はない。しかも、鍵をかけたらしくドアが開かない。
海人が、あんなに不安定な菫を見るのは二度目だった。
一度目は離婚が決まる一カ月前。
菫がいきなり「離婚したい」と言い出した、あの時。仕事が忙しくて会えないと言われ、ようやく会えたのは二週間後。
菫は酷くやつれていて、一瞬、病気かと疑うほど酷い状態だった。
身体も細くなり、目を真っ赤にして「別れたい」と涙を流す菫を海人は忘れない。
あの時とまったく同じ表情だった。
感情の起伏が激しく、途端に無気力になる。
次の日の仕事は休んだ方が良いと、海人は何度も菫を説得したが、菫は応じなかった。そして、ストレス性の貧血で菫は職場で倒れた。
また菫が無理をして倒れるのではないかと、海人は気が気でない。
「……と君。海人君」
青紫の紫陽花を見つめていると、海人は由真から名前を呼ばれた。
「うん。……なに?」
「……あのさ。あの人どうしたのかな。体調が悪いように見えたけど。いきなり怒るなんて大人気ないよね」
いつも元気で、自分の主張が激しい由真が、珍しく気弱そうに海人を伺う。
少しは自分が悪かったと反省をしているのかと思ったが、海人が黙り込んでいたから気まずかっただけらしい。
海人が穏やかに答えると、まったく悪びれもせず口を尖らした。すべての非は菫にあると言うように。
「由真ちゃん。菫さんに嘘をついたね? それに、僕にも。説明して」
「えっ……。それは、う、嘘じゃないよ。あの人が、海人君に会いたくなくて来なかっただけだって。私のせいじゃないもん」
この期に及んで由真は全てを菫のせいにした。
これには海人も呆れ果てて、溜め息を吐くことしか出来ない。
まだ素直に謝るだけでも可愛げがあるのに、人のせいにする由真に、海人は苛立ち始めた。
「菫さん、ご飯作って待っていたみたいだけど?」
居間に入ると、いい匂いが漂い惹かれるように台所へ向かった。すると、そこには鍋いっぱいに、美味しそうなおでんが作られていた。しかも、冷蔵庫にはプリンまで。
菫が由真のために作っていたのが想像出来る。
それなのに由真は嘘をついた。
午前中に由真から連絡を貰った海人は、快くご飯を一緒に食べることを引き受けた。由真の言う「夜にご飯食べよう。三人で」と言う誘いを疑うことなく。
菫も来るものだと思っていた海人は、待ち合わせの場所で、これまた「お姉ちゃんが体調悪いから今日は無理」そう言った由真の嘘も信じて。
食事が終わり由真を家まで送る途中、菫が甘い物が好きだったことを思い出した。
結婚していた当時、菫が「美味しい」と絶賛していた有名なケーキ店。わざわざ、その店へと行き、菫の好きなチョコレートケーキを手土産に青山家に戻った。
菫に喜んで欲しくて。なのに、それさえも渡せず、今は冷蔵庫に入って出番を静かに待っている状態。
「由真ちゃん。ちょっと酷くない? 菫さんに対する態度。菫さん、由真ちゃんと一緒にご飯食べようと思ってずっと待っていたんだよ。あんなに一生懸命料理してさ」
菫の今にも倒れそうな顔色の悪さから、海人は心配で口調が強くなる。
「何で海人君があの人を庇うの? 私も一人になって、不安で……たまらないのに。何で、海人君は私にそんなことを言うの? 酷いよ」
めそめそと泣き出した由真に、海人は苛立ちを募らせる。
確かに、十四歳が両親を亡くしたら、これからが不安でたまらないだろう。でも、由真には菫や海人がいた。助けてくれる人間が傍にいる。
だが、菫には誰もいなかった。
由真より菫の方が残酷だ。間接的とは言え、母親を父親の浮気が原因で亡くしているのだから。
「……菫さんも亡くなっているよ。十九歳でお母様を亡くしている。雅彦さんは葬式の時しか帰って来なくて頼れなかった。それから菫さんは、一人でこの家で生活していたんだよ。一生懸命バイトして、奨学金借りて大学行って、一人だけで生きていた。それを由真ちゃんは知っているの?」
「……えっ?」
どうやら由真は聞いたことがなかったらしい。両親に大切に、何不自由なく育てられた由真は何の疑問も持たなかった。
どうして、両親の苗字が違うのか。
どうして、二人は由真が寝た後に言い争っていたのか。
どうして、手帳に挟んである写真を寂しそうに見ている時があるのか。
由真は追及しなかった。
「菫さんの元にいなかった由真ちゃんのパパさ。……母親が死んで泣いている菫さんを一人にして、君達親子の元に戻ったんだよ。それを聞いてさ、由真ちゃんはどう思う?」
「えっ……」
言葉に詰まった由真は、どう答えて良いのかわからない様子で視線を漂わせる。
初めて聞く真実に、由真も動揺を見せた。
「……もう少し、菫さんと話し合った方が良さそうだね。だって、菫さんのお母様、君達のせいで死んだんだから。憎い妹を引き取った菫さんを、僕は褒めてあげたいよ。何て素敵な、心の優しいお姉さんなんだってね。大人の対応だねって……褒めてあげたいよ。僕なら切り捨てる」
海斗が言いすぎたと後悔した時、もうすでに遅かった。
由真が海人に恐怖を感じたようで、本気で泣き出したのだ。何度も「自分は知らない」「悪くない」と繰り返しながら。
「あ、ごめんね、由真ちゃん。少しきつく言いすぎた。ごめん」
「海人君、酷い。あの人の味方なんだ。……由真のこと守ってくれるって言ったのに。パパは海人君に全部任せてあるって言ってたのに」
悲劇のヒロインぶる女は嫌いだ。即座に海人はそう思った。
十四なら十四らしく振る舞えば可愛げがある。いつから子供らしさが消えたのか、いつから、こんな……女を見せるようになったのか。
海斗は由真が鬱陶しい。そう感じ始めた。
「由真ちゃん。確かに君のパパ、雅彦さんから頼まれたよ。でもね、それはご近所さんの範囲でだけだ。勘違いしないで欲しい。僕は、どっちの味方かと聞かれたら、即座に菫さんと答えるよ」
にっこりと仕事上の笑顔を張り付けた海人の言葉に、由真は目を白黒させる。
「えっ? 何で? なんで、あの人」
「聞いてない? 菫さんと僕、一年前まで夫婦だったんだ。結婚していたから」
「……嘘」
嘘泣きだったのかと思うほど、由真の涙はすぐに止まった。
代わりに真実を教えられ、唖然としたように固まっている。
「嘘じゃないよ。それに、僕は菫さんとの復縁を望んでいる」
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