第14話 ライバル出現?

 六月二十日、木曜日。


「……三人分って重い。こんなことなら、海人が帰って来るまで待つんだった」


 菫は、午前中に家の掃除や洗濯を終わらせると、午後から所用を済ませるために外出していた。

 その帰り道、食料品を買い込み時計を見ると、もうすでに時計の針は夕方の十八時を指している。


 早く帰らなくてはと焦るが、両手に持っている重い荷物が恨めしい。

 しかも、辺りは陽が落ちてきたせいで、ほの暗い。

 気合を入れようと上を見ると、梅雨に入ったせいか、頭上に広がる空はご機嫌斜め。暖炉の灰のようなくすんだ雲が幾重にも重なり隙間がない。

 今にも雨が降って来そうな梅雨独特のジメジメ感に顔を顰めた。


「……今日は何作ろうかな。あ、由真がカレーって言ってたっけ。……カレーか」


 実は、菫はカレーライスがあまり好きではなかった。カレーライスと言われるだけで憂鬱な気分になる。

 だが、疑似家族を始めてから初の由真からのリクエスト。菫は嫌だとは言えなかった。

 雨が降る前に帰ろうと小走りになる。だが、急げば急ぐほど、両手にある食材達が邪魔をする。

 三人で暮らし始めて、もうすぐ一週間になろうとしていた。その間、生活する上での小さなトラブルは起こったが、前のように由真と菫が言い争うような事態はなかった。


 それには海人の存在が大きい。

 いい具合に菫と由真の緩和剤となり、家の中を朗らかな空気にしてくれる。

 そして何よりも菫が驚いたのは、海人が家事を率先してやってくれること。

 一緒に住んでいなかったとはいえ、週末を二人で過ごしていた頃には、海人は食事も掃除も一切の家事をしたことがなかった。


 休みの日はいつも、遅くに起きて来て、当たり前のように菫の用意した料理を食べる。その後、出かけたりダラダラしたりと自由に過ごしていた印象しかない。

 なのに、今は、別人のように動いていた。

 前は平日でも遅刻ギリギリの七時に起きていたのに、今は菫と同じように六時台に着替えを終えて起きてくる。

 その後、食事の用意を手伝い始めたり玄関の掃除をしたりと、朝から精力的に活動していた。

 その朝活めいた行動は、今だけなのか、海人が変わったのか菫には判断がつかない。聞こうと思っていても何となく聞けずに終わっていた。


「あ、お姉さん。紫陽花どうだった? 花持ち良かった?」


 疲れたから小走りを止めて歩いていたら、花屋の前で鉢物の手入れをしていたイケメンに声をかけられる。

 あの時のイケメンは相変わらず冷たい印象だが、笑顔になると親しみを感じる。この笑顔に何人のマダム達が虜になっているのかと思い、菫は苦笑した。


「こんにちは。今も元気ですよ。水揚げも上手くいきました。今日は両手いっぱいなので、また今度見に来ますね」

「そんなこと気にしなくて良いよ。紫陽花が枯れたら、また見に来て下さい」


 にこやかに答えてくれるイケメンは見ているだけで癒される。

 実は、家でのゴタゴタで、菫は紫陽花の存在を今日の朝まで忘れていた。

 だが、朝、ふと気づいたのだ。


 居間にある本棚の上。

 そこに、ガラスの花瓶に入れられたままの素敵な紫陽花の存在を。水も無色透明で紫陽花も元気な様子。

 どうやら、忘れていた菫に代わり、海人か由真のどちらかが水を変えてくれているらしい。


「そうだ。紫陽花について聞きたいんですけど」

「はいはい、なんでしょう?」


 菫は庭の紫陽花を思い出した。

 今日は花を買う予定はない。しかも、この店で花を買ったのは一回きり。なのに 自分の家の花のことを聞くのは、ちょっと図々しいかと思いながらも菫は口を開いた。


「あのう、自宅の庭に大きな紫陽花があるんですけど、葉っぱだけが大きくなって花芽がついてないんです。どうすれば良いですかね?」

「ああ、良くありますよ。何年も手入れしてない感じでしょ? 一度、思い切って切り戻しして下さい。紫陽花は生命力が強いからバサバサ切っても復活しますよ」


 イケメンは菫の質問にも嫌な顔一つせずに教えてくれた。

 剪定の時期は梅雨が終わった七月初旬が最適。花から二節下の脇芽の上で切る。肥料のおススメはこれなど色々教えてくれる。

 菫がいまいち理解していないとわかると、店の前のベンチを勧められた。

 そこに荷物を置いて座ると、イケメンも菫の隣に腰を下ろす。実際に紫陽花を見ながら剪定する場所を説明してくれる丁寧さ。

 さすがは販売業。とても接客が上手くてわかりやすい。


「なるほど。ありがとう、理解出来たわ。イケメン君はとても説明が上手ね」


 ついまた「イケメン」と発言すると、イケメンが苦笑した。


「お姉さん、俺のことは彗って読んで。村上彗ね。ついでに歳は二十三歳。そのイケメンって呼ばれ方……好きじゃないから」


 いきなり自己紹介を始めたイケメンは彗君と言うらしい。どうやら、顔が綺麗な人は、、綺麗な人なりの悩みがあるらしい。


「あ、ごめんね。彗君ね。私は青山菫」

「菫さんか。良い名前だね。花の名前が付いている人は、繊細で優しい人が多いから好きだよ」


 褒めてくれる彗に、菫は内心驚いた。

 何の嫌味もない、素直な純粋な言葉を聞くのは久しぶりで、途端にくすぐったくなる。社交辞令の可能性も高いが、菫は朗らかに笑った。


「ありがとう。優しいかは不明だけど、名前を褒めて貰えるのは嬉しい。母が付けてくれた名前だから」


 植物や花が大好きな母は、娘が生まれたら「菫」にすると父に宣言していたそうだ。姓名判断では、はっきり言って良くないが、母が大好きな花の名前。

 それが、今となっては宝物だ。


「――菫ちゃん」


 彗君と話をしていると、聞いたことのある声が割り込んでくる。

 視線を向けると、仕事帰りの海人の姿。だが、その表情は強張っていると言うよりは少し怖い。

 ちょっと怒っているような海人の様子に、菫は思い当たる節が全くなく困惑した。


「海人。どうしたの?」

「……ただいま」


 それだけ言うと、海人は黙って菫に近づき彗君を見た。その瞳は、まるで獲物を狩る狼のように攻撃的だ。


「ああ、お花屋さんの彗君。今、庭の紫陽花について聞いていたの。素人の私じゃわからなかったから。明日、天気が良かったら剪定しようと思って」


 話も済んで雑談も一息ついた所。海人が来たから帰ろうと菫が立ち上がる。すると、彗も一緒に立ち上がり、おもむろに海人に向かって頭を下げる。


「村上と申します。菫さんの旦那様?」


 無邪気に海人を見る彗に、菫は慌てて訂正を入れた。


「違うよ。身内じゃないから。知人……かな。じゃあ、もう帰るね。ありがとう、彗君」

「うん。また、いつでも来て」


 菫が会釈してベンチに置いてある荷物を持とうとすると、海人が先に、その荷物を奪うように手にした。

 驚いて海人を見ると、なぜかふて腐れている様子で顔が怖い。市役所では老若男女問わず優しく人気と言われている面影もない。


「……海人?」

「行こう、菫ちゃん」


 どうしたのかと聞く前に海人が歩き出す。

 もう一度、彗に会釈をして菫も海人を追い駆けるように歩き出した。


「……海人? どうかしたの? 仕事で嫌なことでもあったの?」


 海斗が不機嫌な理由が菫にはわからなかった。

 菫の問いかけにも海人は答えず前を無言で歩く。

 こうなった海人はしばらく口を聞いてくれないことを菫は思い出した。

 普段は穏やかな海人だが、一つ嫌なことがあると周りから距離を取る。他人と自分との間に見えない壁をつくり拒絶する。


 料理や掃除も出来るようになったけど、そこは変わらないようだ。

 菫は少しずつ歩くペースを落とし海人から距離を取った。

 結婚していた時は気を使ったが、今は赤の他人だ。菫が機嫌をとる必要はない。気が済むまで怒っていれば良いし勝手にすれば良い。

 そう思った菫は、海人に声をかける。


「海人、私、神社に寄って行くから先に帰って。あ、今夜は由真のリクエストのカレーだからよろしく」


 このまま海人と帰っても空気が重いのはあきらかだ。それならば少しでも時間を潰して、家で顔を合わせなければ良いと菫は考えた。

 神社の方角へと歩き出そうとした菫を止めたのは、慌てた海人の声。


「待って。どこへ行くの? 一緒に帰ろう」


 少しだけ離れていた距離は、海人が近づいて来たことによって、また縮んだ。菫の目の前に来た海人は今にも泣き出しそうなほど狼狽えている。


「……神社にお参りに行くだけだから。それに、海人……機嫌悪そうだから、ちょっと困るなって」


 言いづらかったけど、昔は言えなかった一言が今だと言えた。

 海人が悪い人ではないのは知っている。どちらかと言えば、とても良い人だ。でも、菫はまだ離婚の原因となった、あの一件を忘れていない。

 だからこそ、もう、海人には振り回されないと心に決めていた。

 他人に流されず、そのまま放置せずに、自分の想いを口に出して伝えようと。

 人の心はよめない。なら、出来るだけ伝えて理解して貰う努力をしようと、菫は疑似家族を期にそう決意した。

 菫がそう言うと、海人は息を呑んだあと、菫に向かって頭を下げる。


「……ごめん、菫ちゃん。……菫ちゃんが、あのイケメン君と仲良く話している姿に嫉妬したんだ。気を付けるから……一緒に帰って下さい」

「えっ……?」


 昔は機嫌が悪くなると、海人から謝ることは絶対になかった。菫が年上だと言うこともあり、菫が数時間後に謝罪し二人の関係は修復する。それが常だった。

 なのに、海人から謝る。その行為が新鮮で、またしても菫は困惑した。


「……彗君は、ただの花屋さんだよ。確かにイケメンだけど好きだとか言う感情は全然ないよ?」

「でも、菫ちゃん。イケメンと話している時、楽しそうだった。菫ちゃん、若い子好きだし。それに、イケメンのこと名前で呼んでいるし」


 まさかの「若い子好き」の発言に、菫は笑うことしか出来ない。


「なんで笑うの? 酷くない? 僕と最初に会った時、僕は二十四だったから……菫ちゃんは若者が良いんだと思っただけだよ」


 不貞腐れる海人は子犬のように可愛い。

 だが、その内容は菫にとっては聞き捨てならないものだった。


「……いや、私は若い子が特に好きな訳じゃないから」

「なら、どんな人が今、好みなの? それに、どうして僕と結婚してくれたの? 教えて。……離婚を決意した理由も全部。僕達、お互いに勘違いしていると思うんだ。逃げないで話し合おうよ」


 海斗の真剣な瞳に、菫はもう逃げられないと思った。でも、傷は全部癒えてない。だから、まだ向き合えない。


「……少しずつなら話せるけど、全部は今、無理。そこまで私はまだ元気じゃない」

「わかった。なら、話せる範囲で教えて。だから……今日は一緒に帰ろう。由真ちゃんのリクエストのカレー一緒に作って三人で食べよう。僕も反省して気をつけるから」


 確かに、彗君と会った時の不機嫌さは消えたように思える。反対に、今はしょんぼりと自信なさげだ。

 その姿を見ていると昔を思い出す。海人を好きになったあの時の想いが沸き起こる。


「――わかった」


 少しだけ迷ってから、菫は海人と肩を並べて家路へと歩き出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る