家族になりたかった。ただ、それだけかも知れない

在原小与

第1話 日常の崩壊

 一人暮らしを初めて早、十年。


 お風呂とトイレが一緒のユニットバス。一K十畳のアパート。狭いながらも、これが、青山菫の城だった。


 大学を卒業し、働き始めてからずっと同じ部屋。二年事に更新の通知が来る度、他の物件を探そうか迷った時期もあった。

 でも、何をするのも邪魔くさいと思ってしまう菫は、探すのも面倒で、さらに引っ越し費用や初期費用もかかる。

 何よりも仕事が忙しかった。

 そう思うと狭くても住めば都。そんな言葉を思い出し、ずるずると居ついてしまった。


 ズボラで一人が大好きの独身三十二歳。周りの友人達は結婚して子供が生まれると遊んでくれない。

 新しい環境になると、自然と付き合いはなくなる。現在、交友関係は無いに等しかった。

 そんな菫も、ある理由で強制的に実家へと帰ることになった。


「……ここで、もう少し過ごしたかった」


 肩よりも少し長い黒髪を一つに結び、家具も荷物もなくなった部屋を菫は見渡す。

 手には雑巾と、足元には濁った水が入ったバケツ。

 最後の奉仕とばかりに、フローリングに跪き掃除を始めた。

 床のひっかき傷は、何かを落とした時に付いたようだが、それも今となっては覚えていない。


 新築で入ったこの物件も、随分と味がでてきた。

 築年数と共に、菫も年をとりおばさんと呼ばれる年齢だ。


「あーあ。昔の予定だと、三十二歳で子供二人産んでいて、幸せな家庭を築いているはずだったのに……。まさかの独身で実家に帰還か。何で、この年で実家に戻ることになるのよ。これも全部、あのクソ親父のせいだ」


 ぶつぶつと悪態をつき、菫はごしごしと床に八つ当たりをしながら雑巾を動かす。

 二度と実家に帰る気はなかった菫に転機が訪れたのは、二週間前。

 ――父親が脳卒中で突然死んだことから始まった。


「さてと、あとは管理会社にお任せして……帰るか」


 もう一度、部屋全体を確認すると、菫は雑巾を洗うことなくゴミ袋に入れてバケツを洗う。鍵を閉めると、管理会社に言われた通りドアについている郵便受けに鍵を放り投げた。

 退去の立ち合いが出来ないため、後は管理会社に丸投げした。この後、すぐに電車に乗り込み実家へ帰還する菫に、時間は待ってくれない。


 「退去には一カ月前に連絡を」と言う管理会社の規約を守れず、住まないのに、これから先の一カ月分の家賃を払うはめになった。

 これも全部父親のせいだが、父親の死だけが問題ではなかった。問題はもっと大きい。それを思うと、菫は憂鬱で仕方がなかった。


 スマホを取り出し時間を確認する。時刻は夕方の六時を指している。

 思ったよりも、ゆっくりしすぎたと菫は早足で歩き出した。そのままアパートのゴミ捨て場にゴミを捨て駅へと向かった。

 菫が今まで住んでいたアパートは閑静な住宅地。駅からは少し遠いが、自然豊かな場所が気に入ってその場所を選んだ。


 だが、実家がある場所はビル群に囲まれた人口密集地。

 五年前から土地の価値が一気に上がると開発が急ピッチで進んだ。今は、企業や商業施設が立ち並び辟易するほど人でいっぱいだ。

 そんな場所へ住処を移すだけでも、菫は嫌で嫌で仕方がない。

 手に持っているのは小さな鞄。財布とスマホ、それに実家の鍵だけが入っている。荷物は先に実家へと送ってしまった。


 憂鬱すぎて、この先のことを考えると、自然とため息が出る。

 菫が帰りたくない実家に戻る理由。

 それは、父親の子供だと名乗る女子中学生と一緒に住むことになったからだ。


「あーあ。JCと一緒に住むなんて最悪すぎる。何で、どっちの母親も死んだのよー」


 周りに人がいないことを確認すると、歩きながら悪態をつく。

 両方の母親は死亡して相談する相手はいない。もちろん、その妹と名乗る中学生と菫のDNA鑑定を行った。

 そして、間違いがあったら困ると、父親の遺体から毛髪を切りそれも回した。その結果、間違いなく「妹である」と記載された鑑定結果を受け取ったのは、つい先日のこと。  


 それを親戚一同に知らせると、皆が、自分に火の子が振りかからないようにと逃げてしまい、頼れる人は誰もいない。



 そんな日のことを思い浮かべ、菫は暗くなってきた空を見上げた。

 少し陽が落ちて、太陽が沈んでいるのが見える。

 何度も溜め息を吐き、電車を乗り継ぎ向かった先は、ビルや高層マンションに囲まれた公園。その先の住宅地に菫が育った生家があった。


 途中で、夕食を買わなければならないと思い出し、スーパーに寄って野菜やお肉を買い込んだ。調味料は先に送ってあるから問題ない。

 少しのはずが、菫の両手にスーパーの袋が二つぶら下がった。

 重い袋を持ち実家の前に立つ。


 昔ながらの純、日本家屋。


 近所を見渡すと、菫がいた時の記憶とは少し変わっていた。

 家を建て直したのか、モダンなおしゃれな家が多く小奇麗だ。菫の生家だけが、周りから浮いたように昭和初期。


 家の周りは平垣で囲まれ無駄に広い庭がある。

 庭には栗の木や紫陽花が植えられているが、手入れをしていないせいか、雑草だらけで他の花はわからない。玄関は綺麗に掃除されているが、庭だけ見ると廃屋だ。


 今では珍しい縁側も、腐っていても不思議でないほどの荒みようだろう。

 なぜここまで荒れ果てているのかと言うと、父親は五年前から他の女……妹達と一緒に別の場所で暮らしていた。

 建物の管理だけはしていたようだが、庭を見る限り期待は出来ない。

 一応、二階建ての家屋は、じめじめした雰囲気で幽霊が出そうなほど陰気だ。

玄関まで来ると引き戸に手をかける。


 すると、入りたくない気持ちが大きくなった。

 十年前に家を出て以来、帰って来たのは十回ない。それほど、父親と菫の関係は悪かった。電話もメールもお互いなく、元気かどうかさえ聞かない。

 父親から電話がきたと思ったら母親の法事の知らせのみ。その法事さえ、菫は参加しなかった。


 父親の死は、唯一連絡をとっていた、父親の妹にあたる叔母から聞いた。

 酷い娘だと、身勝手で自分勝手な娘だと親戚は言うだろう。だが、菫は父親を許せなかった。

 浮気を繰り返し、母親を泣かし生活費すら渡さなかった父を、菫は死んでも許さない。

 父さえしっかりしていれば、母は死ななかった。



 当時のやるせない気持ちに蓋をして、古くなった引き戸を引いた。

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