第2話 現れた男

 菫が一歩踏み出せば、懐かしい匂いがした。

 その家その家で匂いが違うように、青山家では木の匂いと、母親が生前好きだった芳香剤の香りだ。


 もう二度と、足を踏み入れることはないと思っていた生家。なのに、こうして立っている。人生はわからない。

 電気の点いている廊下の奥を見ると、居間の障子戸から光が漏れていた。そこにいるのは、母親が違う妹。そう思うと菫の気は重い。

 難しい年頃の思春期。そんな妹とこれから生活しなければならない。立ち眩みがするほど対応に困る自分を菫は想像した。


 ずっとここで、こうしている訳にはいかないとスーパーの袋を廊下に置く。

パンプスを脱ごうとした時、菫はあることに気づき眉間に皺を寄せた。

 玄関に置かれている靴……。

それは妹の物と思われるローファーと、どう見ても男物の黒い革靴が並んでいた。しかも、何気に高そうだ。

 菫の父も長年会社員として働いていたから、革靴があっても不思議ではない。だが、目の前にある靴は、どう見ても父親の趣味とは違って若々しい。


「誰を連れ込んで来たのよ……」


 最初に浮かんだのは、弁護士か親戚の誰か。

 だが弁護士との話し合いは、もう終わっている。それに、両家の親戚誰もが、妹を引き取れないと口々に言い、菫に「姉妹だから」と言う理由だけで押し付けたのだ。


 今さら一緒には来ないだろう。

 菫に何の断りもなく、半分血が繋がっただけの中学生が、勝手に家に他人を連れ込んだことに苛立った。

 菫は乱暴にパンプスを脱ぎ捨てると、どかどかと足音を立て、楽しそうな声がする障子戸を一気に開けた。


「……勝手に誰を連れ込んでいるのよ。男を連れ込むなら、今すぐ出て行け」


 菫は怒りをなるべく抑え、低い声で言い捨てる。

 すると、穏やかに談笑していた部屋の空気が凍った。

 外観と同じく、家の中も和風の造り。

 十畳の畳の部屋には、昔ながらの丸いちゃぶ台と、母親が嫁入り道具として持って来た桐の箪笥が置かれたまま。


 そのちゃぶ台を囲み、これから一緒に暮らす妹の由真と、スーツ姿の男を視界に入れた途端、菫の表情が強張った。

 そこには、若いのか年なのか、何歳だかわからない童顔の男性が、せんべいを手に持ったまま固まっている。

 その表情は、驚きを通り越して茫然としていた。


「なによ。その言い方! 海人君に失礼じゃない。謝ってよ」


 由真が立ち上がり菫に怒りをぶつけるが、菫はそれどころではない。

 なぜなら、目の前の男、熊井海人は……一年前に菫が離婚した夫だからだ。

 海斗の反応も菫に良く似て動揺しているように見える。

 そう言えば、昔はいつも余裕があって、元夫の驚いた姿を見たことがなかったな。と、菫は修羅場と化しそうな状況なのに、そんなことを考えていた。


 海人の反応を見る限り、この家の持ち主が菫だと知らなかったように見える。

 動揺が走り、緊張で菫は手が震えた。

 だが、それを由真に悟られないように、初めてあった他人のように海人に接する。


「……どなたですか? 勝手に人の家に上がって……警察呼びますよ。すぐに出て行って下さい」


 喚いている由真を無視して海斗を睨んだ。

 声を押し殺し、頭の中で「冷静に」と何度も唱える菫に、海人も我に返る。


「あ、申し訳ありません。こういう者です」


 立ち上がり、顔に仕事用の笑顔を張りつけると、菫に向かって名刺を差し出した。


 ――霧矢崎市教育委員会、学校教育課。熊井海人。


 名刺を貰わなくても、菫は目の前にいる海斗が誰だか知っていた。

 だが、貰った名刺を見ると部署は移動したようだ。前は市民課の総合窓口にいたのに、今は教育課になっている。

 海斗も何も言わない所を見ると、由真には菫と結婚していたことを内緒にすることに決めたようだ。


「……市役所の教育課がわざわざ何のご用?」


 虐待でも育児放棄でもない家庭の事情に、市役所が絡むなんて聞いたことがない。由真の件は全て弁護士を挟んで解決済みだ。

 何の用だと菫は挑戦的に海斗を見る。


「誤解しないで下さい。これは仕事とは無関係です。由真ちゃんから、どうしても一緒に今日、来て欲しいと頼まれまして」


 頭を掻いて困った表情を浮かべる海人は、心底申し訳なさそうだ。

だが、この優しそうな温和な外見に騙されてはいけない。にこにこと人受けの良い海斗の、この他人行儀なエセ笑顔が菫は嫌いだった。

 人と一線を引き、自分の胸の内を一切他人に見せない用心深い男。

細身で何気に長身。母性本能をくすぐる可愛さ。穏やかで人当たりが良い。これが、周りの熊井海人の評価だ。


 この人畜無害そうな男は、知らぬ間に他人の心を囚える。

 菫は、一緒に住む内に、この男がわからなくなった。自分にも、他人にも厳しいこの男が……好きだったのに、大嫌いになった。


「頼まれた? 説明して」


 菫の苛立ちは収まらないまま、ふて腐れたように頬を膨らます妹を見る。

 妹の由真は、髪をお団子に一つに纏めて唇が異様に紅い。じっくりと観察すると、薄く化粧をしているらしい。

 中学二年生の十四歳。まだ子供だと思っていたのに、海人を見つめる瞳は女そのもの。菫が睨むと、由真は海人の腕にしがみつく。


「だ、だって。私、一人だといじめられると思ったから。怖かったから海人君にお願いしたの! 私だって、あんたなんかと一緒に暮らしたくないわよ。仕方なく来てやったんだから」


 そう言うと、海人の後ろへと由真が隠れた。


「由真ちゃん。もう少し話合いしないと。そんな言い方は失礼だよ。せっかく一緒に暮らしてくれるのに」


 菫よりも早く、海人が由真を宥め始めた。


「だって、どうせこの人、この土地が欲しいだけなのよ。私と暮らさないと遺産が手に入らないって親戚の人が言っていたもの。だって、パパは私に遺産を残したけど、この人には何も残さなかったって聞いた」


 もうすでに、この生意気な妹を捨てたくなった。

 遺産の件は弁護士に全部任せてあった。親戚が何を由真に吹き込んだのかは知らないが、菫にも遺言状と共に遺産は残されている。

 だが、今は遺産なんかどうでも良かった。そのくらい、海人の出現は菫にとって不測の事態だった。

 過去のごちゃごちゃが一気に蘇る。

 怒りを抑えて海人の後ろにいる由真に声をかけた。


「そう。なら、あなたの母親の親戚に連絡とりなさいよ。弁護士にもね。『ここから出て行きたいって』それで話は終わりよ。熊井さんも早く出て行って。事情も知らないのに口を出すなら警察と弁護士呼ぶわ」


 海斗の顔を見たくない菫は、そう言うとスマホを取り出した。


「ちょっと待ってよ。どこに電話するの!」


 由真が慌てたように私を見る。


「弁護士の武井先生よ。私の所が嫌なんでしょ?」

「そ、そんなことしたら、この家が手に入らないわよ」


 どうやら由真は本当に、菫がこの家を欲しいから、由真と渋々暮らすことにしたと思っているようだ。


「本当に何も知らないのね。いらないわよ、この家はね……こんな家。固定資産税や他の税金もかかるから無くなっても気にしないわ」


「ちょっと止めてよ!」


 通話ボタンを押そうとした時、いきなり由真が菫の服をつかみスマホを乱暴に奪う。


「痛いわね……。私と一緒に暮らしたくないんでしょ?」

「それは……」


 スマホを持ったまま、また海人の後ろに隠れた由真が黙り込んだ。


「あのさ、もう少し落ちついて話し合ったら? 由真ちゃんはまだ未成年の中学生なんだし。由真ちゃんも、もう少し素直になろう。曲がりもなにも、一応、お姉さんなんだから」


 職業柄、こんな場面の対応に慣れているのか、海人が二人の仲裁を始める。


「熊井さんは帰って貰えますか? 家族の問題なんで」


 他人は口を出すなと匂わせるが、海人は気にしていない様子。市役所の窓口対応で培われた営業用の笑顔を見せた。


「僕、由真ちゃんの兄貴的な存在なんで放置出来ないです」

「兄貴的?」


 由真に菫と海人が結婚していたことは知らされていないはず。一体、何のことだと訝し気に聞く菫に、海人は話を続けた。


「由真ちゃんのパパ。雅彦さんが、由真ちゃんのママと一緒に住んでいたマンションの隣の部屋に住んでいるんです。僕」


 それを聞いた菫は、海人と結婚していた当時のマンションを思い出す。

 そのマンションは海人の持ち物だった。親にマンションを買って貰った海人は、学生の頃からそこに一人で住んで居た。

 菫は海人と付き合っている頃から、そのマンションへと足しげく通い、結婚後、そこで新婚生活を始める予定だった。


 だが、菫の仕事が繁盛記で忙しくなり、入籍後も、菫はしばらく会社から近く狭いアパートで暮らし、二人はすれ違いの生活を送ることになる。

その後、問題が発覚し関係修復を試みたが、一度も一緒に住むこともなく離婚。

 おかげで菫はずっと狭いアパート暮らしだ。

何の因果か、父親と由真、そして、由真の母もそのマンションに住んでいたらしい。しかも、まさかの海人の隣室。

 菫はその偶然を呪い、そして、一回も会わなかった奇跡に感謝した。


「そうよ! パパもママも海人君のことを信頼していたわ。だから一緒に来て貰ったの」


 由真は海人に絶対的な信頼をおいているらしい。

 それが、昔の自分を見ているようで、菫は嫌悪感が増す。


「……だから、何? なら、あなたが由真と暮らせば良いじゃない。これで話は終わりよ。スマホ返して」


 菫の奇想天外な発言に、二人は何を言われたのかわからないようで、唖然とした顔つきで菫を見た。

 二人に近づき、由真からスマホを奪い返そうとする。だが、その腕を海人が掴んだ。


「……セクハラで訴えるわよ? 離しなさいよ」

「少し二人で話したいんだけど良いかな? 菫さん」


 昔のように名前で呼ばれ不快感を露わにする。海人を睨みつけるが、そんな菫の反応など予想内だと海人がにこやかに笑った。


「由真ちゃん。お姉さんと話したいから、少しの間、二階に行ってくれるかな? 大丈夫だよ。由真ちゃんはどこにもやらないから」


 掴んだままの手を離さずに、由真を見る海人に菫は不快感を隠せない。


「で、でも……」


 由真が逡巡するように海斗と菫を見比べた。


「大丈夫だよ。僕が嘘を付いたことないよね?」

「うん。わかった……」

「ちょっと、由真!」


 海人の言うことを大人しく聞く由真に菫は苛立ちが募る。

 だが、ここで我を失うと、海人のペースに嵌ってしまうことを、菫は過去の経験から学習していた。

 冷静に。と、自分を励ます。由真が部屋から出て行くと、乱暴に掴まれていた手を振りほどく。

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