第3話 昔の旦那

「……さっさと出て行ってよね。赤の他人は」

「嫌だな、菫ちゃん。僕達夫婦だったから、まったくの他人じゃないよ?」


 由真がいなくなると、途端に海人の言葉使いが崩れた。

 熊井海人は、菫よりも三つ年下の二十九歳。童顔のせいか、いつも、まだ二十代前半に見られると、結婚していた当時は拗ねていた。その若々しさは今も変わらない。


「紙の上でも、もう他人よ」


 海人から距離を取り、菫は丸いちゃぶ台を挟み向かい合った。

 手を振り払う時、ふと見えた海人の左手に結婚指輪が嵌っているのを確認する。

 その指輪を見たら、もう未練なんてなくなったはずの心が、わずかに動揺した。離婚して一年。まだ一年なのに、やっぱり他の女と結婚したのだと。

 何気に心がじくじくと痛み出す。だが、今はそれを気にしている場合ではないと、菫は口を開いた。


「それで? 由真と一緒に住んでくれるなら、あなたのマンションにしてよね。この家、売りに出すから」

「売るの? 確かに地価も上がって良い値段で売れると思うけど勿体ないよ。菫ちゃんと由真ちゃんが一緒に住むべきだよ。たまに僕も様子を見に寄るね。女性二人だけだと防犯面も心配だし、それに男手が必要なこともあるでしょう? 一軒家に庭付きだと夏の花火大会は特等席になるね」


 にこにこと笑顔を崩さない海人と菫の会話はかみ合わない。

 なぜ海人が、この家に遊びに来ることを前提にしているのかも不明だ。自分の家庭はどうするのかと、菫は呆れてしまう。


「ねえ、ちゃんと話を聞いてた?」

「うん。聞いているよ。菫ちゃんは優しいから由真ちゃんと一緒に住むことにしたんでしょ? 菫ちゃんのお母さんを過労死に追い込んだ憎い妹なのにね」


 海斗の言葉に、昔、家庭の事情を一回だけ話したことを思い出した。しかも、泣きながら……。


「今すぐに出て行け」

「怒らないでよ。菫ちゃんのこと褒めているんだから。親戚中をたらい回しにされて、可哀想だから由真ちゃん引き取ったんでしょ? 由真ちゃん、菫ちゃんには言わないだろうけど、菫ちゃんと一緒に住むって聞かされた時、安心したって言ってたよ」


 意外な由真の一面に、菫は驚いてしまう。

 あの始終生意気な妹が、そんなことを言うとは思えなかった。


「嘘よ。あの子がそんなこと言う訳がないわ。……他に引き取るって言った人が嫌だっただけよ」


 本当は、菫の他にもう一人、由真を引き取ろうと申し出た人がいた。由真の母方の遠い親戚で、由真自身も初めて会う四十代の男だった。

 その男は独り身で、女の子一人くらい養えると言っていたが、あきらかに由真を見る目が気持ち悪い。それを由真も感じ取ったのか、縋る様に菫を見た瞳は忘れない。

 由真を引き取る気はなかったが、さすがに、あんな気持ちの悪い男の元へはやれないと腹をくくり、菫が引き取ることになった経緯がある。


「本当だよ。菫ちゃんと最初から一緒に住みたかったんじゃないかな? ずぼらでインドアだけど誰もが知ってる一流企業で働いていて収入もある。一人で何でも出来る菫ちゃんに憧れていたんだよ」

「――あ、仕事だけど辞めたの。だから、今は無職よ」


 菫の爆弾発言に、海人は目を見開いた。


「なんで? 気に入っていたよね? あの仕事! だから、僕との結婚生活よりも仕事を優先してたでしょ?」


 確かに、海人と結婚した当時は菫も天職だと思っていた。

 だけど、働き出してから十年経つと、人間関係や責任が重くのしかかる。

毎日、栄養ドリンクを飲む生活に、いつまで続くのか先が見えず耐えられなくなった。朝の電車通勤も苦痛で、何度心療内科に行こうか悩んだことか。

 菫は疲れ切り、何度も「死にたい」と思う自分が怖くなり退職したのだ。


「……疲れたのよ。心底疲れたの」


 そう言うと、居間から続く奥にある台所へと向かう。

 そこは六畳ほどの広さ。古めかしいシンクに、茶色の四角いダイニングテーブルが置かれている。傍にある冷蔵庫をあけると、水と少しばかりの食料が入っていた。


「ねえ、この水や食べ物は由真の?」

「えっ? あ、ああ。そうだと思う」

「水を貰うわ。あとで同じの買って入れておくから」


 菫が買って来た袋の中にも水はあったが、玄関まで取りに行くのが面倒だった。ペットボトルの蓋を開けると、口をつける。

 シンクによりかかり、水を半分ほど飲み干した。思っていたよりも喉が乾いていたのだと菫は水を眺める。


「ねえ、何で仕事辞めたの? これからどうするの?」


 菫を追い駆けるように、海人も台所へと足を踏み入れた。

 どうやら、海人は菫の決断に何かあったのかと心配してくれているらしい。


「海人には関係ないよね? もう、赤の他人なんだから。そろそろ帰って貰っても良い? もう八時だし。それに、まだ荷物を片づけてないから、今日、寝る場所確保したいの。由真のことは、由真が自分で出て行かない限り一緒に住むわよ。一応、血の繋がった姉だから」

「菫ちゃん」

「その名前で呼ぶのも止めて。もう、他人だから。それよりも、ここが私の実家だって、本当にわからなかったの?」

「うん。だって、この家に表札なかったし、由真ちゃんは青山さんじゃなくて如月さんだったから。それに、菫ちゃんと結婚した時、両親も死んで、親戚とも付き合いが希薄で天涯孤独って言っていたよね? だから、今日、菫ちゃんと会って驚いた」


 海斗が嘘を言っているようには見えなかった。

 確かに、由真は母方の姓のままだ。父は由真を認知はしたが、由真の母親とは籍を入れていないらしい。

 それに、海人との結婚の時は、両親共に死んだことにしたんだったと、菫は当時を思い出した。


「何回も言うけど熊井さんには関係ないの。お帰りはあちらよ」


 名前ではなく、苗字で呼ぶことによって、もう無関係だから家庭の事情に首を突っ込むな。と遠回しに伝える。

 勘が良い海人なら菫の気持ちに気づくだろう。だが、そうはいかなかった。


「……わかった。今日は帰るよ。また様子を見に来るね。由真ちゃんに挨拶してから帰るね」

「今日は? もう、二度と来ないで」


 頑なに海人を拒否する菫の姿を見て、海人が悲し気に目尻を下げる。その姿は、捨てられた子犬のようだ。


「菫ちゃんも身体に気を付けて。目の下にクマがあるよ……悩んでいるんでしょう? いつも、一人で頑張るから労わってね」


 最後の最後に菫にかけられた言葉は優しい気遣い。

 菫は、思わず表情が崩れそうになるが、ぐっと我慢して無言を貫いた。

 これからの人生、由真を育て嫁に出すのが菫の義務になる。そのため、自分の幸せはあきらめると誓っていたから、ここで弱音は吐けない。

 それも、元旦那に不安な心を見せるわけにはいかなかった。

 菫が黙ったままでいると、海人は部屋を出て行く。二階へと上がる足音が聞こえた。


 しばらくすると階段を軋ませ二人分の足音が玄関へと向かって行く。

 菫は海人を見送らず、手に持ったままの水を更に口にする。

静まり返っている家に、海人が由真に何かを言っている声が聞こえる。だが、内容までは菫の元へと届かない。


 面倒見が良いのは相変わらずで、隣に住んでいただけの中学生にここまでするのかと、海人の人柄を菫は思い出した。



「……ねえ。ご飯どうするの?」

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