第26話 雨降って地固まる③

「本当はね、あんまり聞きたくないの」


 困ったように、繋いでいた手を離そうとする菫だが、海人は決して離そうとしない。菫が、また何も言わずに遠くに行ってしまいそうで怖かったから。

 だから、繋いでいる手に力が籠った。


「……菫ちゃんの気持ちも分かるよ。でも、このままじゃ、僕達は前に進めない。迷惑なら、すぐに出て行くから、もう復縁も求めないから話を聞いて」


 あまりにも真剣な海人の様子に、菫は無言のまま俯いた。


「あの、ホワイトデーの日、菫ちゃんが来るのを待っていたんだ。菫ちゃんが喜びそうなケーキや料理を用意して。だけど、中々、帰って来なくて、そんな時に亜沙美が訪ねて来たんだ」


海人は語り出した。


――あの日、何があったかを。




 亜沙美がいきなり現れたのは、時計の針が十八時を指そうとしていた頃。

 インターホンが鳴り、菫かと思い急いでドアを開けた海人の目の前には、はにかんだ様子の亜沙美が立っていた。

 ゆるふわな巻き髪と完璧な化粧を施し、少し首を傾げるのは亜沙美のいつもの癖。どうすれば、可愛く見せることが出来るかは、本人が一番良く知っている。

 そんな亜沙美の両手には、オレンジと黄色が鮮やかな、ビタミンカラーの花束と有名な菓子店の紙袋。


「こんばんは。いきなりごめんね、海人。これ、おじ様とおば様に頼まれたの。菫さんへのホワイトデーのお返しだって」


 にこにこと、そう言って、手に持っていた花束を亜沙美は海人へと渡す。


「ああ、ありがとう。ところで……なんで亜沙美がわざわざ来たの? 別に今日じゃなくても良かったんだけど?」


 幼馴染と言うこともあり、お互いの性格を二人は知り尽くしている。そのため、海人も職場のように上辺を取り繕う必要はなかった。

 そのせいか、言い方はきつく、そっけない。


「やだ、海人。怒らないで。私はこの近くで待ち合わせなの。彼がホワイトデーのディナーを予約してくれているのよ」


 海人が菫と結婚したあと、一カ月後に、両親の勧められるままに亜沙美は結婚した。将来有望な医者と。


「じゃあ、さっさと行けよ。旦那が待っているだろ」

「うん。そうだけど、ねぇ、海人。菫さんまだ帰っていないの?」

「まだ、十八時を回った所だから、もうすぐじゃない。ねぇ、もう良い? 父さん達には電話しとくから。それじゃあ、わざわざありがとう」


 亜沙美は話し好きで、暇さえあれば、くだらない話を永遠と続けることを海人は知っている。それが嫌で、さっさとドアを閉めようとした瞬間、亜沙美が声を上げた。


「……なに?」

「お手洗い……貸してくれないかなあ」


 頬を染め、恥じらうように俯く亜沙美に、海人は呆れたようにため息を吐く。しかし、ここで無下に断るのも躊躇した。

 便意は人間の摂理だ。さすがに、ここから五分ほど歩いた所にあるコンビニで貸して貰えとは言えない。

トイレを貸すくらい問題ないと判断した海人は、亜沙美を中へと招き入れる。


「ありがとう」


 亜沙美は靴を脱ぐと、綺麗に揃えてトイレへと向かった。

 海斗はその間にリビングへ行き、ローテーブルへと花束と紙袋を置く。すぐにスマホを取り出すと、実家へと電話をかけ始めた。

 海人の母、由紀子は、お礼の電話をすぐに入れないと、後でグチグチ言う嫌な癖がある。それでなくとも、菫との結婚に反対をしていた由紀子の風当たりは強い。

菫が困らないようにと海人の配慮だ。


 花束と菓子の礼を由紀子に言っていると、由紀子が菓子の入った紙袋を見ろとしきりに言い始めた。

 不思議に思い紙袋を覗くと、そこには何やら見慣れない袋が入っていた。それは、赤い糸で編まれていて、金粉で模様が描かれている。

 由紀子の説明を聞くと、どうやらそれは中国茶のようで、お湯を淹れると花が咲く工芸茶だと説明された。


「あ、おば様と電話中? 私と変わって。お茶の淹れ方でしょう」


 リビングに現れた亜沙美は、海人から無理やりスマホを奪い取ると由紀子と話を始める。その様子を苛々しながら海人が待っていると、亜沙美が満面の笑みで電話を切った。


「……なんで勝手に切るの?」


 苛立たしげに眉を潜める海人とは違い、亜沙美はふわりと微笑む。


「おば様から工芸茶の淹れ方を海人に教えるように言われたわ。菫さんが今、中国茶に嵌っているんですって?」


 確かに亜沙美の言う通り、菫は中華ドラマの影響からかお茶に興味を抱いていた。

 中国茶を扱っているカフェに行ったり、専門の店に買いに行ったりと、楽しそうにしているのを海人も知っている。


「飲み方なら、この説明書に書いてあるけど?」


 お茶が入っている袋を開けると、中国語だが淹れ方が書いてある。目で文字を追っていくと、日本でも馴染みのある漢字なら、何となく意味が理解出来た。


「だめよ。菫さんに美味しいお茶を飲んで貰いたいでしょ?」


 確かに亜沙美の言うことも一理ある。

 いつも疲れている菫を喜ばせたい。その一心で、海人は亜沙美からお茶の淹れ方を教わった。

 その後、試飲したお茶の中身に、睡眠薬が入っていることなど気づかずに。






「……それ、結構引くんだけど。睡眠薬入れられたの?」


 海斗の昔話に菫は顔を引き攣らせた。

 自分も結婚しているのに、犯罪まがいなことまでして、亜沙美は海人が欲しかったのかと。


「面目ない。そのあと、全く記憶が無いんだ。どうやら、亜沙美が支えて寝室に行ったらしいんだけど……やってないから。僕が好きなのは菫ちゃんだけだよ」


 そこは絶対に間違いないと海人は主張する。

 こんなに、知恵熱と言う名のストレスで体調を崩しているのに、そこだけは譲れないと、海人は何度も同じ話を繰り返した。


「亜沙美は菫ちゃんが帰って来て騒ぐのを待っていたんだって」

「……で、待っている内に亜沙美さんも寝てしまったと」


 確かに、あの時、亜沙美もぐっすりと眠っていた。とても幸せそうに海人に抱き付いて。

 思い出しただけでも、ムカムカしてきた菫は小さく息を吐く。


「……もう良いよ。わかったから。だから、この話はこれで終わりにしよう」

「でも! 菫ちゃんに信じて貰えないのが一番辛い」


 信じていない訳じゃない。

 海人と初めて会ってから一緒に居て、その人と成りを菫は見て来た。

 他人には少し腹黒い所もあるけど、菫に対しては誠実で真面目だった。だから、本当は頭の片隅でわかっていた。


 ――海人は雅彦と違って不誠実なことはしないと。亜沙美とのことは絶対に裏があると。


 何よりも、いつも気を張って力の抜けない菫を甘やかしてくれた。

 その時間が菫にとっては心地よく、そして、居場所だったのだから。

 結果的に、いくつも嫌なことが重なって逃げただけだ。

 全てを手放したくなって、現実から菫は逃げた。話し合いもまともにしないで、一方的に離婚届を叩きつけて、海人の気持ちも考えずに。


「私って……最低だね。傷つくのが怖くて逃げたの。また、捨てられて一人になるくらいなら……自分から捨てようと思ったの。弱くてごめんね……」


 雅彦から捨てられ、結も先に逝ってしまった。

 ここで、また海人から離婚を切り出されたらと想像した時、菫は耐えられなかった。


「僕は菫ちゃんが今でも好きだよ。だから、泣かないで」


 海斗に頬を撫でられ、菫は自分が泣いていることに気が付いた。

 昔はこんなにも簡単に泣かなかった。なのに、どうしてか、海人がいると素直に泣ける。その事実に、菫は気づく。

 ――まだ、自分も海人が好きなんだと。


「ごめんね……。ありがとう」


 震える声で謝罪と感謝の言葉を繰り返す菫に、海人は「大丈夫だよ」と何度も笑い、菫の頭を撫でる。


「これで誤解は少しでも解けた? 亜沙美は俺の実家に出入り禁止にしといたから安心して。母さんも、父さんや兄さん達から怒られて反省しているから。しばらくは大人しいよ」


 あの由紀子が反省する姿なんて菫は想像出来なかった。だが、海人がそう言うなら問題ないのだと頷いた。


「……ありがとう。色々と。由真のことも。あの子と一緒に暮らすことにしたの」

「うん。そうなると僕は予想していたよ。だって、菫ちゃんは自分では気が付いていないかも知れないけど優しいから。菫ちゃんの傍にいると、僕も安心するから結婚したいって思ったんだ」


 海斗は、いつも菫を褒めてくれる。子供の頃に与えられなかった全てを与えてくれた。だから、菫も海人を選んだのだ。


「でも、菫ちゃんは、もう由真ちゃんや雅彦さんを恨んでないの? 複雑でしょ? 血の繋がった妹が出て来て」


 熱にうなされながら、菫を伺う海人は心底心配している。菫がまた無理をしていないかと。


「あの人は恨んだままだよ。でも、由真は自分に似ていたから」


 葬式で泣くのを我慢していた姿も。

 素直になれない性格も。

 寂しがり屋なところも。


「もし、自分が二十代だったら許せないと思う。絶対に一緒に住まないし、憎くてお金もあげてない。でもね、三十歳を超えると……違う面が見えてくるの。上手く説明出来ないし複雑なんだけど……私が由真の立場だと、きついなって思って」


 全ての根源は菫と由真の父、雅彦だ。由真に罪はない。そう思えたのも、あの言葉があったから。

 菫は以前、同僚達とある会話をした時、一人が発した言葉で考えさせられた。


『父親の葬式に母親が違う兄妹が現れたらどうするか?』


 この問いに、半数以上は「認めない」「嫌だ」「遺産相続も拒否する」「話し合いたくない」と口々に唱える。

 だけど、一人だけ違ったのだ。


『私は気にしない。だって、父親が浮気をしていたのを知っているから。隠し子の一人や二人現れても納得する。皆で話し合って遺産分けて終わり。大変だったねって言う』


 その同僚の一言で、世の中には色々な考えがあるのだと菫は身に染みた。そして、菫の価値観も変化した。それが由真を引き取るきっかけにもなった。


「そっか。……年を取ると価値観も変わるからね」


 しみじみと呟く海人は昔を思い出しているのか、遠い目をしている。


「海人、もう休んで」

「……傍に居てくれる?」

「うん」


 そう言って菫が笑うと、海人が嬉しそうに、安心したように目を閉じた。繋いだ手は決して離さずに。

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