第21話 菫と海人③

「……あのさ、何でそれで付き合うことになるの? 軽くない? だって、会って数時間だよね。しかも、話したのそれだけでしょ。……ありえないんだけど」


 海人との過去話を静かに聞いていた由真が、眉間に皺を寄せて菫を見る。

 思春期のせいか、軽い恋愛がお気に召さないらしい。

妹の軽蔑した眼差しに、菫は気まずげだ。


「違うから。その時は断ったの。お互いの素性も仕事も知らないのに、そんな危ない橋渡れないわよ。それに、私も初めて会った人と付き合わなきゃいけないほど、切羽詰まってないから」


 いくら、昔からの友達が結婚したからと言っても、誰とでも軽く付き合うほど、菫は器用ではない。

 大学を卒業してからほとんどが仕事中心。出会いはあったが、付き合っても長く続かないことが大半で、その内面倒になった。

 一人が長いと、まず出会って話をしてデートまで持っていくまでが大変。一人で過ごしていた時間が無くなり自由が拘束される。

しかも、年を取ると、若い頃のような勢いがまずない。


 当たり障りのない会話と、王道のデートプラン。普通にご飯を食べている時点で、もう帰りたいと思ってしまうダメパターン。

 自分は結婚には向かないと菫は諦め、多くを望まないでおこうと考えていた。なのに、そんな菫の前に現れたのが海人だった。


「断ったのに、どうやって結婚までいったの?」


 由真の疑問は最もだ。

 二人の接点はバーベキューのみ。連絡先も交換せず、それが無くなれば日常で会うことなどない。

 それに、菫は疑問だった。

 なぜ菫よりも若い海人が、わざわざ年上の菫を選ぶのかが。

 特に美人でもなく顔は平凡。何気に童顔で年齢よりは若く見えると言われても、三十も過ぎれば社交辞令だ。

 海人に付き合って欲しいと言われた時、罰ゲームでもしているのかと思ったほど。


 あの日初めて会って、しかも出会いは最悪。良い印象はまるでない。

 一目惚れなんて言葉を軽々しく使われると、どうも嘘臭いとも思ってしまう。三十を迎えた女は疑り深くなるものだ。


「だから、小説みたいなテンプレートだったのよ。その後……なぜか会ったの。公園で奇跡的に」


 菫は由真に伝えようか物凄く迷ったあげく、細部の事情は省いて伝えることにした。

 仕事が上手くいかなくて、会社を早退して公園で泣きながらパンを齧っていたら、海人に出会った。

 そんな話を、由真に知られるのは恥ずかしかった。


「公園で? 偶然? 嘘だ……」


 胡散臭いと思う由真の気持ちは、菫が一番良くわかる。なぜなら、菫本人が一番驚いたからだ。

 あの日は、全てが最悪だった。

 残暑も終わり、秋の訪れを感じる昼下がり。心の中はぐちゃぐちゃで、濁っていて真っ黒だった。

 そんな心が、海人に会って鮮やかに色づき始めたのだから。





「――偶然ですね。珈琲飲めます? そこの自販機で買ったばかりですから温まりますよ」


 そう言って、海人は泣きながらパンを齧っている菫の隣へと腰を下ろした。

 銀杏も色づき、吹きつける風は寒さを誘う。

 そんな中、人目を忍ぶように、公園の片隅にあるベンチに二人は座っていた。

 ビルの狭間にある公園は、湖があってボートにも乗れる。広い芝生は、週末には家族連れで賑わう人気のスポットだ。

 だが、今は平日の午後。

 良い大人は仕事で学生は学校。しかも、雨が降りそうな曇り空と肌寒さ。人気はまばらだった。

 そんな中、なぜ、海人が菫の隣に座っているのか、菫はわからない。


「どうぞ」


 しかも、事情が飲み込めない菫に代わり、海人は缶珈琲のプルトップをご丁寧に開けて菫に渡した。

 心が弱っている菫は、渡された珈琲を素直に受け取る。


「良かったらハンカチもどうぞ。返さなくても大丈夫です。安物ですから。それと、僕がここにいるのは偶然です。あなたを付けていた訳でもありません。そこの市役所に勤めています。午前中から外出していたのが一段落して戻る途中だったんですよ」


 菫の言いたいことがわかったのか、海人は自分がここにいる説明を始めた。

しかも、両手が塞がっている菫の膝に、ハンカチを置かれるとどうしようもない。

 普段なら絶対に受け取らないが、その時ばかりは人の優しさが心に染みた。

 だが、口を開くと嗚咽が漏れそうで、大泣きしてしまいそうで「ありがとう」すら言えない始末。

 そんな菫の気持ちを察しているのか、海人が語り出した。


「僕、市役所で窓口業務を担当しているんですよ。勤めるまでは、公務員は安定している職業だから楽出来るかと思っていたのに、実際は大変で何度も辞めたくなりましたよ」


 にこにこと人懐っこい笑みを浮かべている海人は、どうやら菫を慰めようとしてくれているらしい。

 自分が前にどれだけ失敗して怒られたか。先輩達にどれだけ迷惑をかけたかを延々と話し出した。

 その話を聞きながら、菫は味のしないパンを胃に流し込む。

 菫がなぜ泣いているのか、なぜ一人でここにいるのか海人は何も聞かない。その優しさに、菫は何度も感謝した。

 三十分ほど経つと、さすがの菫も落ちついてきて、今の状況が恥ずかしくなる。しかも、海人はまだ勤務中。逃げるように早退した菫とは違う。


「あ、あの。私はもう大丈夫だから仕事に戻って下さい。……ごめんなさい。迷惑かけて。ハンカチは洗って返します」


 洗って返すと口にはしたが、新しいハンカチを買って返そうと菫は決めていた。さすがに、自分の涙で濡れたハンカチを返すのは憚られる。


「気にしないで下さい。そこまで良い品ではありませんから」


 海人はそう言っているが、さりげなくハンカチを確認すると、有名ブランドのロゴが見えた。

 物腰の柔らかさと、仕立ての良いスーツと靴。それにハンカチ。つぶさに海人の持ち物を確認すると、育ちの良さが伺える。若い公務員が買える品には見えない。

 バーベキューの時は気が付かなかったが、どうやら彼は、住む世界が菫と違うように思えた。


「でも、さすがに悪いので……」


 海人には何でもなくても、菫にとっては借りを作るようで落ちつかない。

 母を亡くして以来、人の優しさに触れる機会が減り、頼り方を忘れてしまった。優しくされると、居心地が悪くてしょうがない。


「じゃあ、時間がある時にお茶でもしませんか?」

「……お茶ですか?」

「はい。食事だと断られそうなので、軽いお茶で。僕、甘い物が好きなんですよ。付き合ってくれると嬉しいです」


 無邪気な海人の笑顔に、菫はいつの間にか頷いていた。

 彼の傍にもう少し居たいと思ってしまうほどに。

 




「それで付き合うことになったんだ?」

「……まあね」

「弱っている所を狙った海人君はハンターみたい」


 さすがに、この先を由真に詳しく言うのは憚られ言葉を濁した。姉妹で恋バナをするとは夢にも思わず、菫は赤くなる顔を隠すように団扇で仰ぐ。

 そんな菫の様子を気づいているのか、いないのか、由真はお茶を飲み干した。


「それで、何で離婚したの? 聞いている限り海人君のベタ惚れじゃない。確か、海人君の浮気って言っていたよね? それも聞きたい」


 前に話した会話を由真は覚えていたらしく、菫と海人の離婚原因を追究し始める。

 由真には言いたくなかったが、ここで話を中断しても、しつこく聞いて来るだろう。菫は迷いながらも話し始めた。


「……離婚原因は、海人の幼馴染。この子が凄く可愛くて女の子! って感じなのよ」


 海人と同じ年の幼馴染は医者の娘だった。

 家は隣同士で家族ぐるみの付き合いだと、菫は義母から耳にタコが出来るくらい聞かされた。

 ふわふわな髪の毛は生まれつきで、パーマをかけなくても、ゆるくうねっている。大きな黒い瞳は猫のように愛くるしく、人に愛されるためだけに生まれてきたような可憐さ。

 性格も良く、彼女の周りには常に人がいる。

 菫も何度か会ったことがあった。

 その度に、これが同じ人間かと、自分と比べて空しくなるほどに。


「そんなに可愛いんだ。海人君と同じ年なら、今は二十九歳か。会ってみたいな。それで、その人と海人君の浮気現場を見たの? 乗り込んだ?」


 ドラマの見過ぎなのか、修羅場を想像しているらしい。無邪気な由真の言葉が、菫には痛かった。

 あの日の出来事が昨日のことのように蘇るからだ。


「――それは」


 菫が口を開こうとした時、インターホンがなった。

 由真と菫が顔を見合わせる。

 誰かが来る予定も、宅急便を頼んだ覚えもない。


「誰だろう?」


 セールスか近所の人だろうかと、菫が立ち上がり居間を出る。

 この古い家にはインターホンのような現代的な代物はない。玄関まで行って確認しないと誰だかわからない。

 菫が訝し気に玄関の扉に手をかけようとした瞬間、勢いよく引き戸が開けられた。


「……びっくりした。海人? どうしたの?」


 目の前にいたのは海人で、なぜか顔が死んでいる。

 朝、電話で呼び出され、実家に帰ったはずの海人が、なぜ、こんなにも絶望的な顔つきをしているのか、菫にはわからなかった。


「どうしたの、海人?」

「ごめん。菫ちゃん。……押し切られた」


 小声で菫に謝った声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。大げさすぎる海人の態度に、誰かが死んだのかと菫が訝しがっていると、ふわりと香が漂う。

 それは嗅ぎ覚えがある香りで、甘い高貴な白木蓮。


「――お久しぶりね、菫さん」


 海斗が菫の問いに答える代わりに、後ろから声が聞こえた。

 その声を聞き、菫は背筋が伸びる覚えがして身体が固まる。そして、その主を確認すると、息を呑む。

 そこには、もう二度と会うことはないと思っていた、海人の母、由紀子の姿が見えた。


「お義母様……」

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