第18話 菫と由真と紫陽花と

「……腰痛い」


 しゃがみ込んでいた体勢から立ち上がり、菫は身体を伸ばす。

 いきなり立ち上がったせいか立ち眩みを感じた。治まるのを待ってから空を見上げると、爽やかな青空。


 仕事を辞めてから空を見る機会が増えた。

 職場と家の往復で毎日が終わっていた菫にとって、こんなにも静かで穏やかな時間が幸せだった。その半面、本当に一年間のんびりしていて良いのだろうか? と不安にもなる。


 六月二十二日、土曜日。


 予定通り庭の手入れを始めた。

 まずは草を刈ろうと、朝の七時から鎌を持って頑張っていたが、二時間経っても終わる気配がない。

 なぜなら、庭が広すぎるからだ。

 無駄に広い敷地面積に、無駄にある木々達。これも剪定しなければならないが、知識がない菫はどうしたら良いのかわからない。

 素人なりに伸びすぎた枝を切ってみる。最初は気を使って切っていたが、時間が経つにつれて適当になり、気が付けば、足元に枝が散乱していた。


「――ねぇ、私、疲れたから、もう止める」


 栗の木の枝を切り落としていたら、菫から少し離れた紫陽花の近くで、由真が飽きたのか口を尖らせる。


「良いわよ。ありがとう」


 由真が本気で庭の手入れを手伝ってくれるとは、菫は思っていなかった。

 そんな由真が庭に現れたのは八時過ぎ。

 学校も休みなのに、普通に起きて来ると無言で菫の手伝いを始めた。

 しかも、なぜか紫陽花の近くばかり綺麗にしている。おかげでそこだけ綺麗になった。由真も紫陽花が好きなのかと結論づけたが、さすがに、もう嫌らしい。


「ねえ、そう言えば海人君は? まだ寝てるの?」


 昨日はあんなにも菫と普通に話していたのに、前のように刺々しい口調で問いかけてくる。どうやら、海人がいる時だけ由真は警戒を解くらしい。

 信じた人間にしか心を開かない由真の姿は、まるで毛を逆立てた猫のようで、菫は苦笑した。


「ああ、海人は実家。何か用事あるみたいよ」


 朝一番に急いで実家に帰った海人は、憂鬱そうに「行きたくない」と子供のように菫に駄々をこねていた。

 実家に帰るのが、余程、嫌らしい。


「何で帰ったの?」

「さあ? 理由は聞かなかったけど」


 由真は菫と二人で居るのが耐えられないらしく、そわそわと落ち着きがない。それなら、さっさと家に入れば良いのに、なぜかこの場に留まっている。


「……ねぇ、何で私を引き取ったの?」


 いきなりの由真の一言に菫は狼狽えた。

 一緒に暮らすことについて、由真と菫が二人で話し合う場は今までなく、全て弁護士任せだった。顔を合わせて話し合うのは、これが初めて。

 それに、由真にどう説明すれば良いのか、菫の気持ちも固まっていないのが本音で、由真を見つめたまま言葉が出てこない。

 他人がいたら、適当に理由をつけて納得させれば良いと言うかも知れない。でも、菫はそれをしたくなかった。


 ――嘘をつきたくなかったから。


「ねぇ、何で?」


 もう一度問いかけられ、菫は視線を彷徨わせたあと、覚悟を決めて口を開いた。


「――昔の私を見ているようだったから」

「……どう言う意味?」


 不機嫌な由真の顔が更に歪む。


「言葉通りよ。通夜の時、一人で親族席に座っているあなたを見た時、昔の自分を見ているようだった。それに、親戚一同が、あなたを誰が引き取るか押し付け合っていたでしょう? それが、また私の神経を逆なでした」


 結が死んだ時、菫は一人だった。

 誰もいなくて、寂しくて、不安で、誰かに頼りたくてしかたがなかった。こんな時くらい雅彦が傍に居てくれたらと、何度も「早く来て」と心の中で叫び泣くのを我慢した。あの日の自分を、菫は由真に重ねた。


「大人達は好き勝手言うし、優しい言葉はかけてくれるのに、本気で手を差し伸べてくれる善人はいない。皆が、腹の探り合いで、自分に火の粉がかからないように距離を置く。……残酷だと思わなかった?」

「……何を言っているのかわからない」


 菫の言葉を理解したくないのか、本気でわからないのか、由真は顔を顰めたまま俯いた。ふと視界に入った由真の手は固く握られていて震えている。

 何かを耐えるように。


「あなたを見ていたら、一緒に住むのも悪くないかなって……思ったの」


 本音を言えば、菫も引き取りたくなかった。

 何と言っても憎い雅彦とその愛人の子供だ。菫にとっては結を死へと追い詰めた死神のようにも見えて、無視しようと思った。

 だが、叔母に説得されて仕方なく出向いた雅彦の通夜で、一人、小さくなって泣くのを我慢している由真を見て、菫は気づく。


 ――不安でたまらなかった自分と一緒だと。


 その姿を見て心を決めた。

 あの時、菫が一番かけて欲しかった言葉を由真にあげようと。


『傍にいるから大丈夫。だから、一緒に住もう』


 そう直接伝えたかった菫だが、お互いの親族同士で揉めてしまい、由真に伝えることは出来なかった。

 菫は葬儀が終わると、弁護士に由真がどうなるのか聞いたあと、決断した。

 ――自分が引き取ろうと。


「……なによ、それ。意味わかんない」

「別に今、わからなくても良いんじゃない? 年を重ねたら見えてくることもあるから」


 それがわかったのは、菫も三十歳を過ぎた今だ。

社会に出て人に揉まれ、理不尽な扱いや、酷い言葉をかけられる日々に何度泣いたかわからない。

 悔しくて、悔しくて、何故こんなことを言われるのかわからなくて、人を恨んだこともある。


 でも、今、思えば、どうして意地を張らずに、もう少し肩の力を抜いて譲り合うことが出来なかったのかと反省することも出来た。

 他人のアドバイスを素直に受け取れず、些細なことに反論し反発した青臭い自分を笑ってしまうほどに。


「まあ、ここを出て行くかは夏休みが終わるまでじっくり考えたら? まだ時間はあるんだし。社会人になるまでは、大学の学費くらい出すわよ。それと、生活も贅沢は無理だけど、困らないくらいは援助するから」


 眉間に皺を寄せたまま何も言わない由真に菫は苦笑いを浮かべた。

 菫もそんなにお金に余裕はない。

 なにせ今は無職。なのに、働きに出る気ないし婚活する気もない。将来は一人で老後をおくる覚悟を決めていた。

 老後の資金も貯めなくてはならない。


「……私のこと嫌いじゃないの?」

「そんなの嫌いに決まっているじゃない。あなた達のせいで母さんは死んだ。その事実は変わらない。それに、手を差し伸べてあげたのに、初めて会った時から敵意向き出しで懐く気配はない。そんな人と一緒に住みたくないし、好きになる要素ないでしょ?」


 ストレートに繰り出される菫の言葉に、由真は今にも泣きそうな表情を浮かべた。

 ここまで面と向かって『嫌い』だと宣言されるとは思わなかったのだろう。

 それと同時に、菫が今、言っている言葉は、由真が菫に向かって吐き捨てた言葉と、何ら変わりはないと気づいてしまった。

 ――由真が今、傷ついているように、菫も傷ついたのだと理解した。

 謝りたいのに、謝れない由真に代わるように菫が続ける。


「でも、今日は手伝ってくれてありがとうね。助かったわ。好感度が一上がったわよ」

「……なによ、それ」


 冗談のように笑う菫に、どうしたら良いのかわからなかった由真の表情が少し和らぐ。


「中に入ったら? 少し顔が赤いわよ。この天気だから熱中症になっても困るし、涼しい室内に戻って良いわよ」


 そう言うと、口を開きかけた由真に背を向けて、菫が枝切りを再会した。

 小さく呟いた、由真の「ごめんなさい」を聞けないまま、由真は菫に背を向けて歩き出した。

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