第16話 思い出のカレーライス②

「どうして高校で? 由真ちゃんのママって先生だっけ?」


 海人が不思議そうな顔で由真に確認する。

 確かに、学校で会ったと言えば教師のイメージだろう。だが、そうではない。十七歳だった菫には、とても信じられない出会いだった。


「……違うけど。ママは美容師さん。病気になってからはお仕事辞めたけど。昔から美容師だったって聞いてる」


 そう答える由真も「何でそんな場所で」と怪訝な表情だ。


「……真帆さんと会ったのは冬……。その日は、テレビで大騒ぎするほどの寒波で、私が初めて体験するほどの大雪だった」


 菫はカレーライスを見つめながら語り出した。

 罪悪感と、忘れられない……あの日の出会いを。

 二人が出会ったのは菫が十七歳の冬。


 その日は、朝から珍しく雪が降っていた。雪が降ることも珍しい地域で、積もることもまずない。

 テレビでは連日大雪だと予想されていたが、朝は道路にうっすらと雪が積もる程度で、通勤や通学には支障がなかった。

 バスも電車も多少の延滞は見られたが、交通が麻痺するほどではない。

 菫もその日は、いつも通り電車に乗った。慣れない雪道を慎重に歩き、肌に刺さるような冷たさに身震いしながらも学校へ向かった。


 授業が始まった一限目はまだ大丈夫だった。だが、問題はその後。

 時間が経つにつれ、空から舞い落ちてくる白い塊は次第に大きくなる。見ている分には問題ないその結晶は、地面へ落ちると、見る見る内に積み重なっていく。

 あっと言う間に道路が白い絨毯になり、電車も止まり始めたのがお昼の十二時前。天気予報では、その後も降り続くと注意を促していた。


 その騒ぎに、学校は午後の授業を打ちきり、生徒達に帰宅するようにと指示を始めた。だが、電車も止まりバスもいつ来るのかわからない。

 そんな中、菫は母の結に電話をした。

 すると、いつも仕事で忙しい雅彦が、珍しく車で迎えに来てくれると言う。


「へー優しいね、雅彦さん。」


 長い昔話に相槌を打つ海人から見ると、その時の雅彦は良い父親像なのだろう。

 雪で帰宅が難しくなった娘を、悪路のなか自ら迎えに行く。……それだけなら良かった。だが、問題はこの後だ。


「パパは仕事休みだったの? 平日でしょう。あ、わかった。パパは会社を早退して迎えに行ったんだ?」


 由真が鋭い指摘を入れてくる。由真の疑問は最もだ。


「……うん」


 由真の言う通り雅彦はその日、早退している。

 早退と言っても、多くの企業が業務を中断して帰宅しなければならないほどの大雪。雅彦の会社もその一つだった。

 雅彦は会社から一時間かけて歩いて帰宅した。

そして、すぐに自家用車で菫の高校を目指す。だが、悪路や渋滞にはまり、菫の元へと着いたのは暗くなった夕方十七時。


 友達と一緒に待っていた菫にとっては、雅彦を待っている時間も、楽しいおしゃべりの時間と化していたため苦痛ではなかった。

 菫の他にも、親が迎えに来る生徒がまだ大量に残っていたからだ。だが、問題はそのあとに起こる。


 雅彦から携帯に連絡がくると、菫は学校の駐車場へと向かった。

 車はすぐに見つけることが出来た。慣れない雪道を、時間をかけて迎えに来てくれた雅彦に、菫は嬉しくなる。

 多忙を極める雅彦は、いつも菫が起きる時間帯には家を出て夜も残業。休日出勤は当たり前。一週間に三日会えたらマシな方。


 奇跡的に会えた日も会話はほとんどなく、何を話したか覚えていないほど。それほど、菫と雅彦の関係は気薄だった。

 この日も、二日ぶりに雅彦と会う菫は、家路までの車の中で、久しぶりに何を話そうかと頭を悩ませていた。だが、その足取りは軽い。

 絶対に迎えに来てくれないと思っていた雅彦が来てくれたのだ。それだけでも十分だった。


 ……大雪が心配で、迎えに来てくれたと思っていたから。

 だが、車に近づくにつれ助手席に知らない女の人が座っているのが見えると、菫の足が止まる。


 菫の母、結はどちらかと言うと、年齢の割に童顔で可愛い印象。おっとりしている性格は尽す女そのもので、菫が母を間違える訳がない。

 だが、助手席に座って雅彦と親し気に話す女性は、ショートカットで活動的な美人。少し吊り上がった猫のような印象的な瞳は、目力が強く自信で溢れている。

 戸惑う菫に気が付いた雅彦が、フロントガラス越しに手を振った。


 そして、突っ立って驚いている菫に向かって、窓を開けると「早く乗れ」と言ってくる。

 この時の菫の心境は複雑だった。

 裏切りと戸惑い。

その二つの感情で揺れているのは、菫自身が良くわかっていた。

 女性の姿を見て、どうして雅彦が、菫をわざわざ迎えに来てくれたのか悟った。自分の今までの甘えた嬉しさが崩れ落ちた瞬間だった。


 ――本当は、わかっていた。

 雅彦が家にいない理由も、結が菫に見つからないように密かに泣いている姿も。それが、雅彦の浮気が原因なことにも……気が付いている。

 雅彦が――結を裏切っていることを菫は薄々知っていた。

 菫と浮気相手を会わせたと言うことは、雅彦は、もう結と離婚を考えているのかも知れない。

 動揺しすぎて動かない菫に、痺れを切らした雅彦がもう一度声をかける。


「菫、早く乗れ!」


 言われるがままに車の後部座席、運転席の後ろに乗り込んだ。

 雅彦は、助手席に座る女性と、菫の緊張感に気が付いているのか、いないのかわからないが、怖いほど機嫌が良い。

 しかも、雅彦が女性を菫に紹介をしないまま車は動き出した。

 本心では紹介されても困るが、車の中は異様な雰囲気で菫は居たたまれない。車内は、女性と雅彦がにこやかに会話して、たまに雅彦が菫に会話を振る程度。

 なぜか菫が部外者のような雰囲気に、身体を小さくして外を見つめた。

 このことを結に伝えれば良いのか、菫には判断がつかない。


「……また渋滞か。このままだと家にいつ帰れるかわからないな」


 雅彦が少し苛つきながらハンドルを握り舌打ちする。

 菫も前方を見ると、風に煽られて雪が舞い視界が悪い。陽が落ちると、車のヘッドライトと街灯が頼りだ。だが、ホワイトアウトになれていない雅彦は運転に悪戦苦闘しているようだ。

 菫にとって拷問のような空間は、学校を出てからまだ三十分しか経っていない。このままでは二時間、もしくは三時間、果ては車の中で朝を迎えるかも知れない。

 雅彦もそれを悟ったのか、助手席の女性に、とんでもないことを言い出した。


「真帆、お前の家はこの近くだから、今日、泊めて貰って良いか? 菫も一緒に」

「えっ……」


 何を言い出すんだと雅彦を責めようとした菫を、助手席の女性、真帆はチラリと見たあと頷いた。


「良いわよ。この天気じゃ仕方ないわよね」

「えっ、なら、一人で泊まれば良いじゃない。私は歩いて帰る」


 鞄を掴み、菫は車を降りようとするが、ロックがかかっているせいで降りられない。


「菫。せっかく泊めてくれるんだから我儘言うな」


 雅彦の苛立った声が、菫の感情に火をつけた。


「……何で父親の愛人の家に泊まらなきゃいけないのよ。さっさとロック外してよ! 信じられない。汚い! もう、口も聞きたくない」


 菫の蔑む視線と、怒ったような口調に、さすがの雅彦もバツが悪そうに黙り込んだ。


「早くロック解除してよ!」


 ガチャガチャとドアを開けようとする菫に、真帆が声をかける。


「あ、あのね。菫ちゃん」

「名前で呼ばないでよ! あんたなんかに呼ばれる筋合いない」

「あ、ごめんね。あのね、怒る気持ちは凄くわかるんだけど、今、外に出たら確実に死ぬと思うの。だから、嫌でも我慢してくれないかな……。このままだと、三人共危険な気がするんだ」


 真帆に言われ窓の外を見た。外は、状況がまったくわからないほどの吹雪だ。雪しか見えない。

 確かに、このまま一人で歩き出しても、家に帰れる可能性は低い。それよりも、雪に埋もれるか、事故に合う確率の方が高そうだ。


「……菫。結には俺から説明するから、今だけ我慢してくれないか? すまない」


 少ししょんぼりした雅彦の声は落ち込んでいるようだった。

 実の娘に「汚い」「口も聞きたくない」と言われたら、さすがの雅彦も応えた様子で、さっきまでの饒舌で機嫌が良かった雅彦とは大違いだ。


「お願い、菫ちゃん。菫ちゃんに何かあったら、お母さんも悲しむから」


 真帆は申し訳なさそうに目尻を下げる。

 その後も、何度も「帰る」と聞かない菫を無理やり真帆の自宅へと連れ帰り、一夜を過ごす羽目になった。

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