第17話 思い出のカレーライス③
「……それで、どうなったの?」
海人と由真がカレーライスを食べ終わっても、菫の皿からカレーが減ることはなかった。どうやら、話をしている内に食べる気が失せたらしく、スプーンさえ握っていない。
話の先が気になるらしい海人は、急かすように菫を見た。
「その後はね……。無言になる私に、真帆さんが無理やりカレーライスの作り方を教えたの。雰囲気の悪さに耐えかねたんじゃない?」
捻くれたように口を一切聞かない菫と、菫の態度が気に入らない雅彦。一触即発、その二人の間に挟まれ、困ったように苦笑する真帆は、大変だっただろうと想像出来る。
だから、少しでも場を和ませようとカレーを作り始めたのだ。
「……その時に作ったカレーは食べた?」
お腹がいっぱいになったらしい由真は、水を一口飲んで菫を伺う。
「……不本意だけど食べた。食べ盛りの高校生が、夜にご飯を食べないなんてありえないから」
作り終った後、しばらくは絶対に食べないと自分に誓った菫だが、お昼にお弁当を食べたきりのお腹は、美味しそうなカレーの誘惑に勝てなかった。
「結さんには、なんて連絡したの?」
言いにくそうに海人が口を開く。
誰もが真っ先にそう思うだろう。
大雪の日に夫と娘が帰って来ない。慣れない雪で、一人、家で待つ結もまた、不安だったに違いない。
まさか、雅彦の愛人の家に、娘である菫も泊まることになったとは想像出来ない。
「……近くのビジネスホテルに泊まるからって連絡した。その日から三日間、学校は休みになったから、学校の心配はしなくても良かったから」
学校が休み自体は嬉しかった。だが、そのツケは後になって回ってきた。授業日数が微妙に足らなくて、放課後と春休みが一日減って補講という形で回された。
「それで、次の日はどうしたの?」
「真帆さんや、あの人は学生の私と違って仕事があるから行ったよ。私は、あの人に家まで送られて、そのあと、ふて寝したけどね」
学生と違い、大人は仕事がある。
いつまで降り続くかわからない雪のために、休み続けていたら社会が回らない。
テレビで、そんな大人達の様子を見ていた菫は悶々と考えていた。
雅彦と真帆のことを結に言おうか、言うまいか。迷ったあげく、菫は、波風を立てないように「言わない」を選択する。
だが、その数週間後、夜中に両親の言い争う声が聞こえて、こっそりと二人の様子を伺いに行った菫は、雅彦に愛人がいることが結にバレたことを知った。
「だから、カレーは嫌いなのよ。あの日を思い出すから……真帆さんとあの人が仲良くカレーライスを食べている姿を見せられて最悪だったから」
大きくため息を吐くと、菫はカレーを睨みつける。
「……カレーに罪はないのに。可哀想に」
海斗が苦笑していると、由真がぼそりと口を開いた。
「どうして、すぐに結さんに告げ口しなかったの?」
「……母さんは、あの人を好きだったから言えなかった。本当に愛していたから。あの人が人生の全てで、真帆さんの所から帰って来る度に、ご飯作って、お風呂沸かして、かいがいしく世話をして……嬉しそうなのよ。そんな尽す母さんが、あの人には重荷だったのかも知れないけどね」
実際、重かったのだろう。雅彦からしたら――ずっと夜遅くまで待っている結が。
だから、サバサバとした、自分の力でかっこよく生きている真帆に惹かれたのだと菫は思っていた。
「……まあ、被害をこうむるのは子供なんだけどね。母さんが一人で泣いている姿を見るのはきつかったわ」
夜に声を殺して泣いている結を、菫は何回も見た。その度に、慰めることも励ますことも出来ない自分が情けなくて、そして歯がゆかった。
「言わなかったの? 結さんに、パパと別れた方が良いって」
由真が、伺うように菫を見る。
「……言った。二人で頑張ろうって。だけどね、それを言ったあと、母さんは頑張り出したんだ。仕事を掛け持ちして私の前では弱音を吐かなくなったの」
その姿が必死で何も言えなくなった。
そして、その後……結は死んだ。
――雅彦が帰って来ると、最後まで信じて。
「ママはいつも幸せそうだった。パパが一緒にいてくれたから……。私も幸せだった」
「そう……良かったわね」
一つの家庭が幸せで、もう一つの家庭が不幸だった。ただ、それだけのこと。
カレーライスのせいで嫌な思い出が蘇り、そして、由真が落ち込んだ。海人も居心地が悪そうで、菫もどうしたら良いのかわからない。
ここで由真を慰めると結を裏切ったことになりそうで、妹に何と声をかけて良いのかわからなかった。
そんな姉妹を前に、海人が皿を片づけようと動き出す。
「菫ちゃんは、もう食べないの?」
「うん、いらないや。それと、私はもうカレーライス食べないから、食べたくなったら二人で作るか、どこかの店に食べに行って」
「……それは大丈夫だけど。反対に、菫ちゃんの好きな思い出の食べ物って何? 良く食べていた茶碗蒸し?」
皿を台所まで運んだ海人が、居間に戻って来ると、そう菫に聞いてきた。
「好きな料理? ……ごめん。特にないかな。私、食べ物にそこまで興味がないから。お腹が満たされればカップラーメンでも玉子かけご飯でも、お茶づけでも好きだから」
「……僕と別れたあと、いつも、そんな食生活だったの? それとも……僕と会う時だけまともな食事だったとか?」
なぜか、海人の目が据わった。だが、何がダメなのか、菫にはわからない。
確かに、海人は育ちの良さからインスタントや冷食、ファーストフードは極力口にしない。味が合わないと、本人が嫌がるからだ。
「……たまに食べていただけ」
海人と目を合わせづらくて、菫は目を逸らす。
その仕草が嘘だと知っている海人は苦笑いを浮かべるだけで、特にそれ以上は強く言わなかった。
「ところで、週末はどうする? 三人でどこかに出かけようか? 由真ちゃんどこか行きたい?」
いきなり話題が変わったと思ったら、どうやら海人は家族ごっこがしたいらしい。由真に「動物園」「水族館」「遊園地」子供が行きたそうな場所を上げている。
そんな二人を見ながら、菫は口を開いた。
「二人で行って来て。私は庭の手入れをしたいから」
「なんで! せっかくだから出かけようよ。三人で出かけたり話し合ったりしていたら、新しい発見も出来て距離が縮まるよ」
菫のやる気のない返事に、海人は熱く語り出す。その勢いに圧倒されながらも、菫は首を横に振った。
「無理。私は庭の手入れをしたいの。いつまでも、あのままじゃ可哀想だから」
結が大切に手入れしていた場所を、菫は早く蘇らせたかった。あの美しい紫陽花を、また早くみたいから。
「私も……手伝う。庭の手入れ」
「えっ?」
由真のまさかの一言に、菫は驚いて由真をじろじろと見てしまった。
まだ若い由真が、大好きな海人の誘いを断って地味な庭いじり。どこか身体の調子が悪いのか、それとも頭でも打ったのかと菫は心配になる。
「あ、それも良いね。じゃあ、三人で庭を片づけよっか?」
なぜか、あんなにも「出かけたい」と叫んでいた海人が笑顔で由真を後押しした。
「……面白くないわよ。それに、泥だらけになるし虫は出るし、それに焼けるわよ? 美肌でなくて良いの?」
もうすでに化粧をしている由真を見ていると、肌にも気を使っているのだろう。なのに、陽に当たるとシミが出来る可能性が将来高くなる。それでも良いのかと菫は念を押す。
「……やりたい」
「そう。なら、良いけど」
当日に、由真の気持ちが変わる可能性も考えて、菫は適当に頷いておいた。二人の会話を隣で聞いていた海人が嬉しそうにしているのを横目で見ながら。
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