第23話 離婚の原因②

 菫の告白に亜沙美は息を呑み、海人は目を丸くした。由紀子の顔は青ざめ、今にも倒れそうだ。


 あの日は菫が生きてきた中で、忘れられない最悪な一日ナンバーワンだと言っても過言ではない。

 海斗と夜にマンションで会う約束をしていた三月十四日の金曜日、ホワイトデー。

 菫はこの日、何が何でも定時に帰ろうと、周りが引くくらい朝から真剣に仕事をこなしていた。

 だが、こんな時に悪魔は舞い降りる。


 時計を見つめ片づけを始めた定時間際に、システムにバグが見つかった。

 菫を含め、課の全員で処理に当たって、全てが終わったのは午後十一時。

 十八時過ぎに「遅れる」と海人に連絡を入れたが、なぜか既読にならない。

 普段からスマホを気にしない菫とは違い、仕事の時間以外、海人はマメに返信してくれる。なのに、返事が一向になかった。

 何かあったのかと胸騒ぎを覚え、すぐに海人のマンションへと向かう。

 息を切らしマンションに着くと、玄関に見なれない若い女物の靴が置かれていた。


 それは海人の母の物でも、菫の物でもない。こんな夜遅くに客が来るとも聞いていない。海人は常日頃から菫との約束を優先してくれる。

 そんな海人が、菫に内緒で人を呼ぶはずもなかった。

 頭に過るのは「浮気」の二文字。

 海人に限ってと、菫はその可能性を振り払おうとするが、結婚したのに一緒に住んでいないことへの罪悪感を覚えていた。


 海人に寂しさや不安を覚えさせていた事実も捨てきれない。それに、三歳の年の差。職場に可愛い好みの女性がいたらと思うと、菫の心は痛み出す。

 嫌な予感を抱えながら、真っ暗な室内を手探りで進む。

 海人の声も、テレビの音も何も聞こえない。

 その静けさが更に怖くて、リビングの扉を恐る恐る開ける。

 最初に目に入ったのは、テーブルに置かれたオレンジや黄色の色鮮やかな花束。しかし、海人の姿がなく物音一つしない。


 海人は何処にいるのかと、菫は寝室へ向かうことにした。

 だが、歩き出した途端、嗅ぎ覚えのある甘い香水が鼻腔に届き身体が強張る。

 それは、もちろん海人が好んで付ける香りではない。女性が好きそうな、甘く気高いアンバーの香りは、数年前に流行った有名ブランドの品。

 菫は海人の周りで、この香りを纏う女性を一人知っていた。


 海人の両親に挨拶に行った時に、家族のように海斗の家でお茶を飲んでいた女性を。海人も、海人の家族も当たり前のように、その女性を受け入れていて、菫は居心地が悪かったことを思い出す。

 息をするのも辛くなるほどの嫌な予感に、海人の寝室の前で菫は迷った。


――本当に、この扉を開けて良いのかどうかを。


 だが、このまま帰ってしまうと、一生気にして、二人の関係が破綻することは目に見えている。

 真実から目を逸らしてはいけないと、菫は意を決し扉を開けた。

 暗闇の中、月の光に照らされて映し出されたのは、ベッドに寝ている二つの影。

 一つは、菫の夫である海人のもの。そして、もう一つの影にも菫は身に覚えがある。


 それに気が付いた時、菫は絶望した。

 嫌な予感が当たったのだと。自分が仕事ばかりに集中して、夫婦生活を疎かにした結果だと。

 震える身体を叱咤し、溢れる涙を拭うと嗚咽をこらえて寝室へと入る。

 海人は気持ち良さそうに寝ていて、女は海人の背中に抱き付いていた。服は二人共着ているようだが、これは間違いなく不倫だ。


 普通なら、ここで悲鳴を上げるか怒って怒鳴り出すだろう。

 だが、菫はスマホを取り出して写真を取った。

 二人の顔が見えるように位置を変えて何回も。

 超微音カメラのおかげか、シャッター音が響かない。おかげで二人共目を覚ますことなく撮影が終わった。

 悔しさと切なさが入り混じり、菫は海人を起こすことなく、その場を去った。

そして、全てを捨てる決意をする。


 言葉で伝えるのが恥ずかしかった想いも一緒に。

 大好きだった海人も、ずっと一緒にいたかった海人も、家族でありたかった海人も、捨てることにした。

 そして、一人で生きようと決めた。




「――これが、その時の証拠よ」


 菫は、語り終えるとスマホを取り出す。

 海斗が離婚を拒否した時のために、証拠として残しておいた画像。だが、それを、この場で晒すことになるとは、菫は夢にも思わなかった。

 さすがに、十四歳の由真には刺激的すぎると判断し、由真には「絶対に見たらダメ」と頑なに拒否する。


「……何だよ、これ。どうして。フェイク画像じゃなくて? 本物……」


 誰よりも先に立ち上がりスマホに手を伸ばした海人は、画像を見た瞬間、愕然としたように立ち尽くした。

 その様子に由紀子も立ち上がり海人の手元を覗き込む。


「……亜沙美ちゃん。あなた、何したの? 私は、バレンタインのお返しをあなたにお願いしただけよ」


 由紀子は座ったままの亜沙美に視線を送るが、亜沙美に動じた様子はない。


「それは、海人さんに……誘われて、つい……出来心で、ごめんなさい」


 震える声で話し出した亜沙美は、瞳いっぱいに涙を溜めていて、海人に誘われたからと、菫の話を肯定した。


「嘘だ! あの日はホワイトデーで菫ちゃんを待っていて、そしたら亜沙美が現れた。母さんから頼まれたって言って、花束とお菓子を持って。そして、亜沙美は帰ったのに何で、こんな……」


 どうやら、あの日、テーブルの上にあった花束は、バレンタインデーに海人の父、菫の義父に送ったチョコレートのお返しらしい。

 どうして、それを亜沙美が持って来たのかは、由紀子の策略だと菫は予想した。

 どうしても気に入らない嫁への嫌がらせだと。


「菫ちゃん。これ、僕は身に覚えがない。信じて……」


 縋る様に菫を見つめる海人を信じたい気持ちはあるが、決定的な証拠があるせいか、菫の返事はない。


「亜沙美がマンションの鍵を持っている理由を教えて。……母さん、答えて。あのマンションの合い鍵は、俺と菫ちゃんが一つずつ。それと、何かあった時のために実家に一つ預けていたよな? まさか、その鍵を亜沙美に渡していたのか?」


 泣くばかりで埒があかない亜沙美に代わり、海人の怒りの矛先は由紀子へと向かう。

 由紀子は何か言おうと口を開きかけるが、言葉が出ないようで口を噤む。


「……もう一度聞く。あの鍵は母さんが亜沙美に渡したの? それと、亜沙美は不法侵入していたの? 答えてくれないなら警察行くけど?」


 海斗の「警察」と言う響きに、由紀子と亜沙美はびくりと身体を揺らし、聞いていた菫は焦り出す。

 もう終わったことだと、区切りをつけた菫は大事にしたくない。それに、もう、あの日を思い出したくなかった。


「あの、海人……警察はやりすぎだよ」


 菫が落ち着くようにと促すが、海人は菫を見て切なそうに目尻を下げた。


「俺はこのまま、うやむやになるのは嫌だ。だって、この二人が関わっていなければ、菫ちゃんと絶対に離婚していなかったよ。どうして、僕に言ってくれなかったの? 言ってくれていたら、こんな誤解すぐに解けたのに」


 苦しそうに俯く海人を見ていると、菫は何とも言えない気持ちになる。

 確かにあの時、二人を起こしていたら、別の道もあったのかも知れない。

でも、あの時、気持ちが疲れていた菫は、簡単に信じず疑心暗鬼になり、いずれは今と同じ「離婚」を選択していただろう。

 一度「嫌い」だと認識したら、離れようとする菫の性格上、それは間違いなかった。

 何も言えない菫に代わり、口を開いたのは由真だった。


「ああ――もう、煩い! 菫ちゃん以外の三人で話してよ! ここじゃなくて別の場所でね。今すぐ出て行かないなら、私が警察呼ぶわよ。変な人達が私を拉致しようとしているって」

「由真!」


 なんてことを言うのかと菫が焦り出す。


「だって、さっきから、ぐちゃぐちゃ煩いから。それに、今日はせっかくの休日なのに、なんで邪魔されなきゃいけないの? 海人君、このゴタゴタを何とかしないと、この家に入れないから。それと、菫ちゃんとも、もう会わせない」


 なぜか、この場を仕切る由真に、菫からは笑みが零れた。

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