第7話 紫陽花の追憶
「重い……。もう少し考えて買うんだった」
後悔しても、もう遅い。菫は、両手にぶら下がった荷物を眺めてげんなりする。
お昼を食べてから、張り切って買い出しに向かった。
不足している日用品に、由真にリクエストされたおでんの材料。それに、食料三日分。
こんなに量を買うのは、海人と結婚していた時以来だと、また、いらないことを思い出す。
結婚生活は基本的に別々に暮らしていたが、週末は海人のマンションで過ごすことが多かった。
今、思えば、隣に由真達が住んでいたんだと不思議な気分になる。偶然出会わなくて良かったと心の底から神様に感謝した。
雅彦に出くわしていたら、結婚のことも話さなければならない。親に内緒で結婚する娘など、自分くらいだろうと菫は思う。
「あれ、ここ、お店なんだ。しかも、花屋さん。……紫陽花だ」
青木家からスーパーまでは徒歩十五分。花屋は、その道すがらに存在していた。まるで住宅街に隠れるようにひっそりと。
見た目は純和風。同じ和風でも古いだけの青木家とは違い、今風のおしゃれな和風モダンだ。
看板と軒先に飾られている花がないと、ぱっと見花屋とはわからない。それほど、一般的な花屋のように花を飾っていない。
店先のバケツに入っているのは、色とりどりの紫陽花。その中には、見たこともない赤茶色や、青紫のアンティーク調の物もあり、菫の目を釘づけにする。
「――いらっしゃいませ。紫陽花おススメですよ。今の時期のものですから、持ちも良いですし季節先取りです」
じっと見つめていたら、スタッフらしき二十代と思われる若い男性が出て来た。
花屋さんは女性のイメージ。そう想像していた菫は、その若い青年を見て目を見張る。
日本人以外の血も入っているのか、日本人離れした顔立ちと淡い色彩。茶色い髪は猫みたいに柔らかそうで、瞳も黒に少し光彩が入って見えた。
言わずとも長身で手足も長い。そこらへんにいる若者とは違い、洗礼された無機質なイケメンに、思わず見惚れてしまう。
「……イケメンですね」
思わず声に出していた。
絵に描いたようなイケメン。いや、人間かどうかさえ疑うレベルかも知れない。
菫は単純にそう思い、人生で初めて人を足元から頭までじろじろと不躾に見てしまう。
「……ありがとう。って、言えば良いのかな? どう反応して良いのか困るんだけど」
初対面からいきなりイケメンと言われた若者は、かなり引いていたが、そこは販売業。持ち前の経験からかすぐに立て直した。
笑顔まで爽やかで、おば様受けするタイプは接客業向けだ。
「あ、ごめんなさい。……この紫陽花がとても綺麗で気になっちゃって。家で活けても水は下がりませんか?」
紫陽花は水揚げが難しい。
ただ切るだけでは、明日には花がくったりとして水が下がってしまう。買って次の日にお化け状態になっていたら残念過ぎる。でも、欲しい……と心の中で葛藤が始まる。
「お姉さん、お花に詳しいんだね。良かったら、紫陽花の水揚げの仕方教えるよ? 意外と簡単だから」
「本当?」
そうイケメンに言われると心が動く。しかも、綺麗な顔でとっつきにくいのかと思っていたら、意外とフレンドリーだ。
一本八百円と花にしては良い値段だが、その青紫の紫陽花が菫の心を離さない。迷った末、引っ越し祝いだと自分に言い聞かせて、菫は決断した。
「じゃあ、この青紫色のでお願いします。とても綺麗」
「ありがとうございます。それ、俺のおススメ。中に入って。切り方教えるから」
イケメンは、菫が選んだ大ぶりの紫陽花を手に持つと、店の中へと入って行った。
そこは外観と同じで中もモダンな造り。室内の大きさから見て店舗部分は狭い。奥の作業スペースを広く取っているのだろう。
見たことのある花もあるが、名前もわからない変わった花が多い印象だ。
「お姉さんは初めて見るけど、この辺の人?」
支払いをしていると、イケメンが菫を見る。
商売柄、この辺りのご近所事情は把握しているらしい。話を聞けば、イケメンもこの辺りに住んでいると言う。
「うん。昨日、越して来たの。この近所よ。今は、この辺りを探索中」
「そうなんだ。この辺、お店も多くなったから歩くだけでも楽しいよ。あ、買い物袋はそこの椅子に置いて」
どうやら、このイケメンは気配りが出来るらしく、両手に抱えているスーパーの袋を置かせてくれるようだ。
「ありがとう」
「どういたしまして。で、水揚げの仕方なんだけど、花切り鋏持ってる? まず、刃先を広げて茎を薄く削ぐんだ。薄くね。それを茎の三分の一までやったら根元を切って終わり」
イケメンは別の紫陽花で実演してくれた。簡単に教えてくれるが、素人には難しく見える。紫陽花は、ただ切るだけでは水が上がりにくいらしい。
「う、うん。やってみるね」
「難しかったら、また明日にでも来て。水を吸い上げる繊維を壊したらダメなんだ。紫陽花は繊細だから。綺麗な内に逆さに吊るすと、ドライフラワーになって綺麗だよ」
友達感覚で接客してくるイケメンに菫は苦笑する。
「お姉さんは紫陽花好きなの?」
「うん。……母が紫陽花好きで良く家に飾っていたから」
庭の紫陽花が咲くと、母は雨の中でも嬉しそうに切りに行った。それを骨董品のような花瓶に活けている姿を思い出した。
だが、なぜ紫陽花が好きなのか、その理由は聞けずじまいだ。
「そうなんだ。でも、良かった。紫陽花でこの値段でしょ? 買ってくれる人が中々いないから助かったよ。あ、勿論、今日、市場で仕入れた新鮮な花だから安心して」
「……売れないのに置いているの? 利益出ないでしょ?」
菫は苦笑いを浮かべた。
店の採算は取れているのか、他人事ながら心配になる。
「ああ、大丈夫だよ。この店、趣味みたいなものだから」
「この花屋さんはあなたのお店なの?」
この立派な建物が趣味。そう聞いて店内に視線をやるが、他のスタッフの姿は見えない。
まだ、二十代前半に見えるのに、店を構える資金力と実力。それに、人脈がないと出来ないだろう。
菫が感心していると、イケメンは首を横に振った。
「まさか。他にオーナーいるよ。普段は店にもいるんだけど、今日はたまたま不在。お姉さん、買わなくても良いから、またお花見に来て。見ての通りお客さんが来なくて暇なんだ。いつも、閑古鳥が鳴いてるよ。だから、お店の名前も『閑古鳥』って言うんだ」
その店名に、笑って良いのかどうすれば良いのかわからず、菫は曖昧に笑って店を出た。
空を見上げると、あんなにも爽やかな陽気だったのに雲が厚くなっている。
「降りそう」
雨が降ってくる前にと、菫は走り出す。
そして、ふと、あの花屋さんに、庭の紫陽花を相談すれば良かったと、菫は少し残念に思った。
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