第11話 別れなかった理由

 それから夕方まで、ゆっくりと時間が過ぎた。


 縁側で、海人とゆっくり過ごす時間は、とても穏やかで心地よい。まだ気持ちが沈んでいる菫の気持ちを汲んでか、海人は菫に何も聞かない。

 本当は、なぜ仕事を辞めたのか、なぜ、あの時離婚を選んだのか、色々聞きたいはずなのに、菫の傍に寄り添うことを選んだようだ。

 そのおかげか、菫は少し元気が出た。


「海人……。私、由真に会うのは嫌だから部屋に戻る。もう五時だから海人も帰って。明日は仕事行かないと……」


 食事の支度をする元気はまだ出ない菫に代わり、海人が作ってくれた。

 たくさん作ったせいか、まだ無くならないおでん。これなら作れると張り切って海人が揚げた鳥のからあげ。それにトマトがてんこもりのサラダ。

 海人は、菫が起きて来る前にスーパーへ買い物に行ったと言う。そこで、トマトが安かったらしく、色々な種類を見ていたら全部欲しくなったとか。

 食材費を払おうとしたら、海人ににこやかに断られた。


「菫ちゃん。由真ちゃんと話し合った方が良いよ。逃げていても何も解決しない。それに、嫌なことは早く終わらせた方がストレスも溜まらないよ。また、倒れたらどうするの? 僕の心配はいらないから。明日は仕事に行くからそんな顔しないで」


 海斗は優しい。その優しさが申し訳なくて菫は辛かった。

 離婚したいと言ったのは自分からなのに、本当に甘えても良いのか逡巡する。

 そうした会話を繰り返す内に玄関の開く音が聞こえた。


「ただいま」も何もなく、静かに靴を脱ぐ音と廊下を歩く足音だけが耳に届く。まるで自分が帰って来たことを知らせるような、その大きな足音は雅彦を思わせた。

 ――由真が帰宅した。

 思っていたよりも早い帰宅に、菫は考え込む。

 ここで逃げるように部屋へ戻るのはやはりダメだろうかと、悶々と考えていたら、海人が言い忘れていたと菫にあることを伝える。


「菫ちゃん。由真ちゃんに僕達が結婚していたこと伝えたから、よろしくね」

「……えっ?」


 今、何を言ったのか、もう一度海人に確認しようとしたら、障子戸が勢い良く開いた。

 そこには、相変わらず、眉間に皺を寄せて不機嫌な顔をしている由真が立っていた。


「おかえり、由真ちゃん。学校はどうだった? 問題ない?」


 海斗が菫に代わって由真に話しかける。


「……普通」

「そう。それなら良かった。ご飯はいつ食べる?」

「……お腹空いてるから今、食べる」


 そう言うと、由真は鞄を壁際に置き海人と菫の間に座り込む。

 それと入れ替わるように、海斗がかいがいしく食事の用意をすべく台所へと行ってしまった。


 菫も手伝おうと立ち上がったが、そこは海人に「座っていて」と笑顔で断られてしまったら、どうしようもない。

 途端に居間は沈黙と気まずい雰囲気に包まれた。

 由真は菫を一切見ないし、菫も由真に話かけない。

 すると、由真が耐えきれなくなったのか、ちゃぶ台に置いていたテレビのリモコンを手にした。電源を入れると、無駄に明るいアナウンサーの声が部屋中に流れた。


 菫も由真も、お互いに話しかけることもなくテレビへと集中する。

 どうやら一人暮らしの特集をやっているらしく、今、この場でのタイムリーな話題に菫は興味津々に耳を傾けた。

 そんな菫の様子を、由真が後ろから伺っているとも知らずに。


「――ああ、一人暮らしか。四月から一人暮らしを始めた学生さんや新社会人は慣れてきた頃だね。菫ちゃんは一人暮らし始めた頃どうだった? 寂しくなかった?」


 海斗がおでんの入った鍋を温め直し運んで来た。

 それをちゃぶ台に置くと、海人も二人と同じくテレビを見る。


「別に何も。母さんは死んだ後だったし、あの人は家にいなかったから、実質一人暮らしみたいなものだったもの。寂しくはなかったかな」


 菫は十年前のことを思い返す。

 就職したら、この家から出て一人で暮らすのが目標だった。

 誰にも頼らずお金にも困らないようにと、世間的にも有名で、福利厚生がしっかりしている会社を選んだ。

 そのための努力は怠らなかった。なのに、今はその会社も辞めて、何の因果か、またこの家にいる。

 その過程を思い出す度に、菫は、人生はわからないものだと苦笑した。


「……十九歳だっけ? 結さんが亡くなったの」


 海斗が箸や茶碗を並べ終えると、三人での初めての食事が始まった。

 もっと明るい話題があるはずなのに、なぜか海人は菫の死んだ母の名前を口にする。

 菫にとっては、あまり触れたくない話。

 しかも由真もいる。

 まだ中学生の由真には聞かせたくない内容。だけど別々に暮らすなら、ある程度の事情は話しておいて良いだろうと、菫は腹をくくった。


「うん、過労でね。生活費や、私はいらないって言ったのに学費も稼ぐからって。奨学金借りたから大丈夫だって何度も説得したんだけど……」


 奨学金は、将来自分で返す借金だ。

 菫は無利子で貸してくれる機関を探し、そこから借りた。それを地道に十年かけて返すことにして、残りあと二年だ。いくら無利子で貸してくれると言っても、就職して五年は給料も少ない。


 一人暮らしをしている菫は生活費だけでもいっぱいいっぱいで、奨学金も少額ずつしか支払えなかった。

 親が学費を全額負担してくれている同級生を見て、何度、菫は羨ましく思ったことか。

 母に負担をかけたくない菫は、学校とバイトに明け暮れ、母と会わない日が続いた。そして、不幸は突然襲いかかる。


「母さん、仕事を二つ掛け持ちしていてね。昼間は事務。夜はファミレスでバイト。夜、連絡が来たわ。ファミレスの店長から。……母が倒れたって」


 時刻は二十三時だった。

 菫もバイトから帰って来て、家で一息ついている時。今、海人と由真がいるこの居間で菫は、あの電話を一人で受けたのだ。

 あの時の衝撃を菫は忘れない。


「急いで病院に行ったけど間に合わなかった。まさか、過労で死ぬなんて誰も思わないじゃない? 誰も、私も気が付かなかった。体調が悪かったなんて」


 結らしい。医者から説明を聞いた時、菫は最初にそう思った。

 他人に迷惑をかけるのが嫌で、娘にも内緒にして、体調が悪くても我慢して、そして一人で死んでしまった。

 菫の重い話にも、由真は何も言わず、黙々とご飯を食べている。やはり、中学生にはまだわからないのか、それとも他人事なのか反応がない。


「雅彦さんは? その時病院に来なかったの?」


 海斗が雅彦の名前を出すと、由真が初めて菫を見た。


「ああ、あの人が来たのは葬式が始まる十分前よ。それに、あの人。葬式の時、親族席に座らないのよ。おかげで私が喪主を務めることになったわ」

「……マジで? でも、結さんと雅彦さんは離婚してなかったよね?」


 菫は初めて葬儀の様子を他人に話す。

 海斗の疑問は最だった。

 両親は離婚していなかった。なのに、夫にあたる人物が喪主をしない。家庭が複雑だと、近所や親族、世間に伝えているようなもの。

 だけど、葬儀は家族葬。慎ましく終わり結の親族も少なかった。勿論、雅彦の親族も。その人の少なさが結の寂しさを物語っているようで、菫は結を一人にした雅彦を心の底から憎んだ。


「――パパ言ってた。結さんが離婚に応じてくれないって。だからママと結婚出来ないんだって私に話してくれたわ」


 いきなり会話に割って来たのは由真で口調が刺々しい。

 しかも、一切、事情を知らないと思っていた由真は、ある程聞かされているようだ。

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