35:安室蒼夜の告白
土曜日の大学構内は、人が少ない。開講されているのは、教職などの資格の授業や社会人向けの講義ぐらいなので、大多数の学生は授業がないからだ。
サークル活動で来る人はいるけど、一限の時間帯である午前九時台には、そういう学生すらまだほとんどいなかった。
閑散としたホールを通り抜けてエレベーターに乗り、五階の和室の前に立つ。
扉は開いていた。玄関に靴が一組しかないのを確認すると、ほっとして私も靴を脱いで上がり込む。
いつかと同じように、奥の板の間の部屋からは、聞き覚えのある朗々とした謡の声が響いていた。
前回は状況が状況だったのでこそこそしていたけど、今回は約束があったので、気安い気持ちでそっと襖を開けたのだが。
中を確認して、途端に硬直した。
そこにいるのが、思っていたのと別の人なんじゃないかと思ったからだった。
板の間には、黒の紋付きの着物に黒と白の縦縞の袴を着た青年が、扇を広げて舞っている。能面こそつけていなかったが、あの日と同じだ。
あの日と同じ人物のはずだった。
だけど、能面以外に一点。
一目ではっきり分かる、相違点があった。
「霞に紛れて。失せにけり」
仕舞いを終えて、彼の顔がこちらを向く。
一瞬どきりとしたけど。しかし紛れもなく彼は、私が今日この場所で待ち合わせをしていた張本人だった。
けれども。
「蒼兄、どうしたの!? 髪、染めたの!?」
安室蒼夜の髪は、真っ黒になっていた。
「おはよう、しぃ」
にこやかに蒼兄は笑顔を浮かべる。
本人だとはっきりするや否や、私は素早く板の間に滑り込み、まじまじと蒼兄を眺めた。
えっ待って。
髪質までなんか違うんですけど。
犬みたいなモサッとした毛から、サラッサラなぬばたまの黒髪になってるんですけど。
なんぞこれ……。
成長したイケショタ……。
袴がよくお似合いですね……。
あとで制服とかも着ない……?
「どうかな?」
無言でガン見していた私に痺れを切らしたのか、蒼兄の方から尋ねてきた。
おおっと危うく涎が出るところだったけど、ここは落ち着いて淑女らしくクールに受け答えしなくては。
「いいと思う俄然いいと思う断然いいと思う茶髪も茶髪の良さがあるけど蒼兄の現在おかれた状況すなわち能研で袴を着用するということが多々あるという事実を鑑みるとどう考えても黒髪の方がいいと思う」
うん、とっても似合ってると思うよ!
やっぱり袴を着るなら黒髪の方がいいね。
着物にも映えてるよ!
「ねえ蒼兄写真、写真撮らせて、ねえ。
お願いだから写真、後生だから写真」
「しぃ。勘違いじゃなければソレ、本音と建前が裏返ってない?」
間違えた。
欲望ダダ漏れだった。
淑女どこいった。
でもいいや、蒼兄だし。バレてるし。
淑女など、はなから存在しない。
「でも。それならよかった。きっと、あいつも喜ぶ」
狂喜している私をよそに、蒼兄は独り言のように、ぽつりと言った。
その言葉に引っかかったけど。それを尋ねる間なく、蒼兄は話題を変える。
「朝早くに呼び出して悪かったね。せっかくの休みなのに。
しぃには、これまでのことを話しておこうと思って」
「大丈夫だよ。私も、話したいと思ってたし」
どのみち、今日は午後から国際法研究会の前期総会がある。来るのが少し早くなっただけだ。
サークルの時じゃ、人目もあるからゆっくり話せないだろうしね。
「変わろうと。思ったんだ」
蒼兄は私から目をそらし、窓の方へ視線をやった。つられて私もそちらを眺める。
開け放した障子の向こうには、澄んだ青空が見える。ここ数日はぐずついた天気が多かったけど、そろそろ梅雨が明けるのかもしれない。
久々の、快晴だった。
「しぃちゃんを。大事な人を守れない、気弱な自分はいらない。
そう思って。俺は、徹底的に自分を変えようと思った。見た目も中身もまるで別人にね」
そう告げた蒼兄の横顔は。
なんだか、無性に懐かしかった。
髪って、人の印象にかなり大きく左右すると、思う。
だから今の蒼兄は。どうしても、昔の彼を想起させた。
幼い私の大好きだった、蒼兄のことを。
「前に、俺は『近くで見守れればよかった』って言ったね。あれは嘘だ。
本当は。……迎えに来たって、言いにくるつもりだったんだ」
私に向き直り、蒼兄はまた苦笑いする。
「だけど、とてもそんなこと言える状況じゃあなかった。結局、名乗り出ることができずにいるまま、時間が過ぎていったんだ。
しぃちゃんが吸血鬼の被血者になったと知って、黙っていられなくなったけどね。そこを藍に利用されたわけだけど」
蒼兄の言葉に、胸が痛くなる。
蒼兄だけじゃなく。若林くんも、緋人くんも、環も、藍ちゃんも、みんなが何かしらの形で傷ついてしまった。
お互いに、敵対して傷つけあってしまったけれど。
つきつめれば……きっと、誰も、悪くないのだ。
加害者と呼ぶべき人は、既にこの世にいない。
ただその因果に絡んだ人たちと。
大事な人を奪われた悲しみを抱えた人が、いるだけだった。
その立場さえ違ったのならば。
同期として何のわだかまりもなく、仲良く手を取り合うことだって、できたはずなのに。
そんな風に、思いを巡らせていると。
「なぁんて、ね」
静まりかえった板の間に。
間の抜けた蒼兄の声が、響いた。
「まあ。嘘だけどね」
「へあっ!?」
一瞬、何を言われたのか分からず。
間をおいてから、奇声を発した。
嘘なの!?
えっどういうこと!?
どこからどこまでが嘘なの!?
酸欠の魚みたいに口をぱくぱくさせていると、「概ねは本当だよ。概要についてはね」と、涼しい顔で蒼兄は答える。
「変わろうと思ったのは、俺じゃないから」
蒼兄は畳んだ扇で、私の頬を、ぺし、と軽くつついた。
「しぃは素直で信じやすいなぁ。そこが美徳ではあるけど、もう少し警戒して疑わないといけないよ。世の中には。しぃが思ってる以上に、狼が沢山いるんだから」
蒼兄はおもむろに扇を広げると。
自分の口元を、そっと隠した。
「俺は嘘吐きなんだよ、しぃ。もしかすると、藍以上にね」
そう言って。
蒼兄は、どこか寂しげな影を顔に浮かべる。
「しぃの知ってる『
次の瞬間。
さあっと髪がなびいたかと思うと。
蒼兄の髪色は、見慣れた茶髪のぼさぼさ頭に戻っていた。
「アオヤは。もう長いこと、ずっと……ずっと、戻ってこないんだ」
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