2章:奥村緋人は漆黒の貴公子である
07笑顔の貴公子
「そんなわけで、若林くんは割と最高に性癖でした!!!」
「へえ……」
彼の秘密を知って、一週間。
私は若林くんの尊さについて、環へこんこんと語り終えたところだった。
四時限目が終わったばかりの構内は、人の往来が激しい。だがホールに置いてあるテーブル席で話をしていても、内容を聞かれる心配は皆無に等しかった。人が多すぎて、集中して耳を澄まさない限り、そもそも何も聞こえないからだ。
それをいいことに、私はコンビニで買った紙カップのコーヒー片手に熱弁をふるっていた。
もちろん彼が吸血鬼の末裔だなんてことは、一切、話していない。
私が話したのは、たまに出る一人称が僕だったり、笑顔が素敵だったり、薔薇色の頬であったり、エトセトラエトセトラ、つまり秘密の部分を除いたところ全部である。
確かにきっかけは、満月に理性を飛ばした、吸血鬼の末裔たる彼の姿だ。
だけど、その要素を取り除いたとしても、もはや彼はどうあがいたって性癖だった。
性癖は性癖。
つまり、尊い。
若林くんに血を提供すると申し出た以上、今後、否応なしに彼との絡みは増える。なので環には、あらかじめ私のスタンスを話しておいた方が、後々何かあっても誤魔化しやすいだろうなと思ったのだ。
推しの素晴らしさを誰かに語りたかったという理由もある。
しかし。一通り話し終えたところで、違和感を覚えた。
いつもだったらこの時点で、環は一つ二つ、キレのいいツッコミを入れているはずだ。だけど今は、申し訳程度に相槌をうっただけだ。私が話している最中だって、一度も合いの手を入れていない。
ようやく気付いて、改めて環を見つめれば。カフェラテをすすりながら、環はしかめ面だった。
どうしよう。まずった。
「ごめん。いい加減、うっとおしかったよね。ごめんね環」
「いや、違う」
我に返ったように、環は顔の前で両手を振った。
「ちょっと苛々して、ぼうっとしてただけだよ」
「……何があったの、誰かに何か」
「たいしたことじゃない。白香は気にしなくていいよ」
理由を尋ねようとしたが、しかし環は無理やり私の言葉を遮り、話題を戻す。
「まあ、なんだ。無事に性癖が見つかってよかったな」
「環から素直にそう言われると、ちょっと不気味だよ」
「おい。せっかく人が百歩譲って祝ってやったのに、その言いぐさはなんだこの変態」
「あ、環だ」
軽口を叩きあって、ようやく環は破顔する。
何があったのかは不安だけど。この様子では、あまり踏み込まれたくないのだろう。深入りしない方がよさそうだった。
環は頬杖をついて、ぼやくように呟く。
「……そんなつもりで聞いたんじゃなかったんだけどな」
「なにが?」
「いや。先週はああ言ってたのに、一週間でこうも変わるかねーと思ってさ。後で若林に、白香の変態ぶりをどう思ってるか聞いてやろう」
「やめてください死んでしまいます」
やめて欲しい、切実に。引かれてる自覚はあるけど、「実は生理的に受け付けない」とかはっきり言われたらさすがに落ち込む。世の中、知らない方がいいことはあるんだ!
どうか嫌われるまではいってませんように、と素晴らしき推しこと、若林くんの薔薇色の頬を思い出し。
つい、自分の頬に手を当てた。
「ねぇ環。化粧って、もっとしっかりした方がいいと思う?」
「急に何でだよ?」
改めて、私はまじまじと環を見つめる。
環はいつも、メイクの仕上がりはばっちりだ。肌は澄んでくすみ一つないし、悩ましげな目元はグリーンのアイシャドウで艶やかに彩られているし、睫毛は力強くくるんと上向いている。もちろん、頬だって若林くんと同じ薔薇色だ。
対して私は、いつも日焼け止めにグロスを塗っている程度だった。化粧道具は大学に入学した時、お母さんから一式をプレゼントしてもらったけど、入学式以来ほとんど日の目を見ていない。
理由はひとえに、朝が忙しくて不慣れなメイクにいそしむ暇がないからである。寝起きの悪さから、その辺は察して欲しい。
「もうちょっとさ、色々と研究して、環みたいにばっちりメイクした方がいいんだろうか」
「どうした。推しができて色気づいたか」
「違う違う。同じ空気を吸う上で、こちらも万全の備えで武装していかないと、尊いオーラにあてられて弾け飛んで、しんでしまうのではないかと思って」
「性癖どんだけ物騒なんだよ……あいつサイヤ人か何かかよ……」
吸血鬼の末裔です。
とは、言えない。
まあ末裔でなくても、私は多分お構いなしに弾け飛ぶ。
「武装するなら銃でも持てよもう。そっちの方が似合うよお前は」
「攻撃じゃなくて防御の武装だからね」
「鎌倉の武器屋に行って、鎖帷子でも買ってやろうか?」
「やぶさかではない。ついでに鉄扇も欲しい」
「ふざけんな誰が付き合うか」
しょうもないやり取りをした後で、真面目に環はじっと私の顔を見つめた。
「らしくない、とは思うけど。それはこっちのエゴだからな」
飲み干したらしいカフェラテのカップをテーブルに置き、環は椅子の背に寄りかかって足を組んだ。
「白香がしたいと思った時に、すればいいだろ。化粧は、義務感や、人に言われて嫌々することじゃない。
それに。別に化粧なんかしなくても、白香は肌が綺麗だし、そのままでいいと思うけど」
環は私なんかよりずっと綺麗だけど、素直にその言葉は嬉しかった。
「環は本当にいい奴だなぁ」
「あんたには負けるけどね」
そう言ってにやりと笑った環は、今日も麗しい。どちらかといえば童顔寄りな私と違い、大人っぽい色気をまとった環は、女の私からしても惚れ惚れするような美人さんだ。今日も今日とて、タイトな薄手のニットワンピースがよくお似合いになっている。
環も環で、大変尊い。
本人に言ったら怪訝な顔をされるから、あまり言わないけれど。
休み時間が終わり、五時限目の開始を告げるチャイムが鳴る。あれだけごった返していた学生は、各々の講義室やサークル部屋などに消えていき、ホールにいる学生の数は少なくなっていた。
いつも私は、サークルまで二コマ空いたこの時間を、環と過ごす時間にあてていた。けれど今日は、もう少ししたら離脱することになっている。若林くんに血を提供するためだ。
週に一度の血の提供日は、確実に二人とも大学に来ている木曜日がちょうどいいんじゃないかってことで、とりあえず本日はこのサークル前の時間帯にすることになっていた。
でも今後の日程や時間については、また若林くんと相談しよう。
若林くんの健康を守ることは、もちろん大事だ。
だけど、それで環と過ごす時間を削るのは、ちょっと違うもんね。
******
手首にできた傷を眺める。
既に塞がったそれは、ほとんど治りかけた白い筋になっていた。それすらも明日になれば綺麗になくなってしまうだろう。
先週を含めたら二回目となる血の提供は、案の定、理性に訴えかけてくる背徳感だったけれども、ともあれ滞りなく終わった。
今回一番の懸念だったのは、血を出すこと、だった。前回と違って傷はない。なので当然、切って傷を作るのだけれど。
若林くんは充分気を遣ってくれたし、やはり加減が上手いのか痛みもさほどじゃなかったし、カッターの刃もきちんと消毒してくれている。
だけど覚悟はしていたものの、やっぱり刃を向けられるのは少々怖い。平気なふりをしていたけど、顔に出ていなかっただろうか。
そのうち、これも慣れるんだろうか。
「望月さんも、それで平気?」
「はい、大丈夫です!」
ぼんやり考え込んでいた私は、先輩から話をふられ、慌てて返事をした。
危ない、今は集中しなければ。
我らが国際法研究会の活動の一つは、国際法の概論について学習会を行うことだ。
法源、国家責任、領域、安全保障など、分野ごとにいくつかの班に分かれてレジュメを作成し、毎週、持ち回りでプレゼンを行う。前期の活動は、もっぱらそれだった。
各班には一年生から三年生までがバランスよく配置され、上級生が一年生に指導する。上級生は当然、概論は頭に入っているが、プレゼンのやり方含めそれを一年生に勉強させる意味合いが強いんだろう。後期からは、もう少し専門的な各論に入っていくようだった。
そろそろ私の領域班も発表時期が近付いてきたので、サークル活動の後にミーティングを行っていたところだったのだ。
目線を外し、意識をそちらに戻す。役割分担や締切などの必要事項を決めたところで、無事にミーティングは解散した。
「よろしくね、望月さん」
席を立とうとすると、隣に座っていた男の子に話しかけられた。突然だったのでびくりと緊張しながら「よろしく」と、どうにかにこやかに答える。
領域班に所属する一年生は、私の他にもう一人いた。
癒し系の優しいフェイスに、色気のある右目の下の泣き黒子。毒気のない笑顔が眩しい彼は、女の先輩たちから密かに『笑顔の貴公子』と呼ばれている。
いや、密かにではない。割とおおっぴらにキャッキャと言われている。
だが、そのからかいめいた呼称も含めて、彼は笑って受け流していた。なんて寛大なんだ。
彼の笑顔には、サークル外にもファンが多いらしかった。
その意見には大いに同意するし、私もその面持ちのおかげで、男子でも身構えずに話せる少ない相手の一人だ。ただ、奥村くんの笑顔には確かに癒やされてはいるけど、若林くんの太陽のような微笑みを見てしまってからは、彼をもって『笑顔の貴公子』と称することには少々疑義が生じている。
でもね、彼の笑顔は寿命を削ったりはしないからね!
そういう意味でも優しい笑顔だね!
「僕の担当箇所は、概論書だとあんまり詳細が載ってないんだよね」
「あ、そうみたいだね。私のところは逆に、記載が多すぎてまとめるの大変そう」
「僕、これから本を返しに行くんだけど。もしよかったら望月さんも一緒にさっき先輩から教えてもらった文献を探しに行かない? この文献のほうが簡易にまとまってるって言ってたし。まだ今日の夕飯の店も決まってないみたいだしさ」
彼の存在は、大学に入学して新鮮だったことの一つである。
一人称が『僕』なのだ。
これはリアルでも存在する属性だったんだなと、無性に感動したことを覚えている。もちろん表には出さないよう我慢したけど。
若林くんも内心は『僕』だけど、普段は『俺』だしね。
ナチュラルな僕呼びの奥村くんは、その笑顔と相まって、私の癒やしであった。
今も溢れ出す萌えを必死に堪えている。尊い。
「うん、行こうか。早い方がいいもんね」
「よかった。じゃあ、帰り支度してくるね」
その言葉と柔和な笑みを残して、奥村くんは座っていた席に帰って行った。ほっこりしながら、私も自分の席に戻る。
そういえば奥村くんは、若林くんと仲が良さそうだったなと思い出し、荷物をバッグに詰めながら、何気なく若林くんの姿を探す。
彼は教室の片隅で、同じ一年生の同期と談笑しているところだった。
と、若林くんは私の視線に気付き。
他の人には悟られぬ程度に小さく手を振り、口元へ笑みを浮かべてくれた。
なに、あの可愛い生き物……。
なに、あの……かわいい……生き物……。
彼に小さく手を振り返してから、溢れ出す尊みを抑えようと、私はバッグを抱きしめ天井を仰ぐ。
ああ。
私の推しは、今日もこんなに可愛い。
教室を出て、他のサークル員と一旦別れてから、奥村くんと二人で図書館へ向かう。
二十時近い夜の校舎内には、ほとんどひと気がない。吹き抜けとなっているエスカレーターホールを見渡す限り、私たち二人の他に人はいなかった。
他愛ない雑談を交わしながら移動していると。四階から三階へ降りたところで、不意に奥村くんが尋ねてくる。
「ところで望月さん。聞きたいと思ってたことがあるんだけど」
「なに?」
私は、二階へ下るエスカレーターに乗ったところだった。
後ろに立つ奥村くんの声に、呑気に返事をすると。
ぞっとするような、冷ややかな声が耳元で聞こえる。
「どうやって、紅太をたぶらかしたの?」
次の瞬間。
どん、と背中に鈍い衝撃がはしる。
何があったのか、事態を飲み込めないまま。
私は、空中に投げ出された。
ここは。
エスカレーターの上、だ。
はじめ、今日はスカートじゃなくショートパンツでよかったなぁ、なんて場違いに能天気なことを思った後で。
――これは普通に大怪我か、下手したら死ぬんじゃないだろうか。
そんな、恐ろしい想像に思い至った頃には。
もう眼前に、固い床が迫っていた。
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