31奥村緋人はかく語る
通学時間三十分程度の、程良いアクセスの良さでアパートを選んだはずなのに、家から大学までの道のりをこんなに長く感じたのは初めてだった。
既に九時をまわった時間帯、今から都心に向かう人はあまり多くない。京王線の車内は程よくまばらだった。けれども椅子に座る気にはなれず、私はドアの脇に寄りかかって、何度も何度もスマホで時間を確認する。
何度見たって、到着時間が変わるわけではない。だけど、確認せずにはいられなかった。
若林くんと蒼兄がいるのは、大学だ。
他の人間を巻き込まないよう、そして目撃されないように、人目に付かない開けた場所で対峙するつもり、らしい。
らしいというのは、環が出てきたときには、まだ何も始まっていなかったからだ。
当たり前だった。少し前まで、蒼兄は私の家にいたのだ。
けれども私の家を出た時間から考えると、今はもう蒼兄は大学に着いているはずだ。
そして。
多分、二人はもう。
もう一度、ボタンを押してスマホの画面をつける。さっき見たときから、まだ数字は一つしか変わっていない。
車内で待っているだけなので、気ばかりが急いてしまう。だけど現状、できることはなにもなかった。
タクシーをつかまえたとしても、都心を抜けることを考えると、きっと電車の方が早いだろう。このまま大人しく乗っているのが一番早く着くのだ。
ただ、今は、電車が私を最寄り駅まで運んでくれるのを待つしかない。
落ち着かないまま、気を紛らわすように窓の外を眺めると、地平線近くに浮かぶ三日月が、紅く光っていた。
その怪しげな色に、私は誰かのことを思いだし。
じっと、月を眺めた。
駅から五分ほどの道を走り、ひと気のない校舎に駆け込む。要所要所の電気が落ちて薄暗い校舎を、迷わず奥に進むと、いつか環から逃げた時に使ったエレベーターに飛び乗った。
最上階のボタンを、今度は意図して押す。
私一人だけを乗せたエレベーターは、途中で誰かが乗り込むことなく、すっと講堂のある最上階に着いた。
最上階の大部分を占める講堂は、普段は滅多に使用されない。つまり私もこの階に立ち入ったことはほとんどないため、フロアの勝手は知らなかった。おまけに廊下に電気は点いておらず、非常口を示す照明が点灯しているだけだ。どこに何があるのか分からない。
壁に手をついて歩きながら、きょろきょろと講堂への出入り口を探していると。
「シロ。ステイ」
暗がりから突然聞こえたその声に、足が止まる。
素直だな、私の足?
「緋人くん!」
足より一瞬遅れて声が出た。
声のした方へ目を凝らし、数秒経ってからようやく彼を発見する。
緋人くんは、私のいた側と反対の壁にぴったり背をつけ、床に座り込んでいた。服の色と背後の壁の色が似通っていて、ほとんど同化していたので、声をかけられなければ見過ごしてしまったかもしれない。
緋人くんの前に歩み寄ると、彼は身体は動かさず、目線だけで私を見上げ、ぽつりと呟く。
「本当に、来たな」
「本当にって?」
言われた意味が分からず、首を傾げると。
緋人くんは真顔のままでじっと私を見つめてくる。
「お前は、来る気がしたんだ。監禁されてるのは紅太に聞いて知ってたけど。どうにかして、ここに来る気がした。
多分、紅太も」
その名前に、はっとする。
そうだ。
のんきに、話してる場合じゃない。
「緋人くん。若林くんは!?」
「中にいる。安室もだ」
緋人くんはやはり座ったままで、自分の寄りかかる背後の壁を親指で指し示した。
「ここだけが、中に通じる入り口だ。あとの扉は閉まってる」
壁だと思っていたのは、探していた講堂への入り口だったらしい。
私は緊張して、背筋を伸ばした。
「緋人くん。ごめん、どいてくれる? ちょっと、二人のところに行ってくる」
けれども。
緋人くんはやはり微動だにせず、冷たい声で答える。
「どかないよ」
「どうして! 早くしないと、二人とも手遅れになるかもしれないんだよ!?」
「お前に『帰れ』と言うために、俺はここに座ってた」
感情のそげ落ちたような、無に近い表情で。
緋人くんは、淡々と告げる。
「いくらお前が行ったところで、あいつらは止められないよ。無駄なことはするな」
「やってみなくちゃ分からないでしょ。
若林くんだって怪我するかもしれないのに、緋人くんはこのまま放っといていいの!?」
たきつけるように声を上げながら。
私はそれよりも、ずっと困惑していた。
てっきり。緋人くんも、二人が衝突するその場にいるとばかり思っていたのだ。
私は、彼のこれまでを、若林くんに対する過剰すぎる感情を、過激なまでの行動を、見てきた。
まだ疑惑の段階で、私を突き落とした緋人くんである。蒼兄は明確に若林くんを攻撃しようとしているのに、それを放っておくはずがない。
仮に、一対一でのやりとりを若林くんが望んだのだとしても。それを素直に受け入れてくれるはずがないのだ。着いてくるのを止めたって、話なんか聞いちゃくれないだろう。
私の知っている緋人くんは、こんなところで手をこまねいてなんか、いないはずである。
一つ舌打ちして、緋人くんは顔を背ける。
「俺だって止めたいさ」
「だったら、一緒に中に」
「無理だ。俺はここから動けない」
「なんで」
「足の骨を折られた。ついでに腱も切れてるから動けない」
「骨!?」
咄嗟に視線が緋人くんの足に向く。だけど暗がりなので、見ただけでは異変は分からなかった。
さっきからずっと座っているのは、そういうことだったのか。
「これ、蒼兄が?」
ぞっとして尋ねると、しかし。
「やったのは、紅太だよ」
思いもよらない返答が返ってきて。
一層、度肝を抜かれる。
思わず私も座り込んで、緋人くんに詰め寄った。
「若林くんが、なんで!?」
「俺を。近寄らせないためだ」
再び、無表情で彼の顔がこちらを向く。
それで、ようやく気が付いた。
さっきからの緋人くんの仏頂面は、ただ不機嫌なのではない。
この上なく自分の無力感に、怒りをたぎらせてるんだってことに。
「あいつらは、規格外だ。紅太も紅太だが、安室も人狼の中じゃ相当な位置にいる存在らしい。
俺が手を出す余地はないんだよ。巻き添えをくって死ぬだけだ」
ここでようやく、彼は表情らしい表情を浮かべた。
はっきり、焦燥にかられた色だった。
「シロなら分かるだろう。それでも俺は行こうとした。だから、動けないようにされたんだ」
「でも。……それでも、ここまでするなんて」
にわかには信じられず、動揺する。
だって、いくら緋人くんを止めるためだって。手段として友達に危害を加えるなんて、若林くんがそんなことをするとは、思えなかったのだ。
「なにを考えてるか、大体分かるけど。今この状況において、俺が骨折させられたのは、お前が思ってるほど大層なことじゃない」
そう言いおいて、緋人くんは静かに自分のふくらはぎを手で掴む。
「ただ動けない、歩けないってだけだ。今も、折った瞬間も、痛みはない。
それに骨折自体も、紅太の力で明日には治るようになっている」
緋人くんの説明に、何故か。
脳裏に、銀の髪と、紅い目が、思い浮かぶ。
若林くんの唾液には、傷を癒す効果がある。その力には、私だって何度もお世話になっていた。
だけどそれは、あくまで切り傷などの軽微な怪我の話だ。骨折とはわけが違うし、そもそも肉に覆われたところにある骨が、唾液で治るとも思えない。
聞いている場合ではない、のだけれど。
どちらにせよ緋人くんは、ここを通してくれる気配がないし。
どうしても、聞かずにはいられなかった。
「骨折を治すなんて。どうしてそんなことができるの。
他にも、若林くんは」
何か、隠しているの?
その言葉を発する勇気はなくて、口の中でとどまった。
けれども察しのいい緋人くんは、私の言わんとすることを悟ったようだった。
「瀬谷から何か聞いたな」
「吸血鬼の本来の力を持っている、ってことと、それから。
環の妹を眷属にした相手を、吸血鬼にしたのが、若林くんだって、ことを」
射抜くような視線に、少しだけ臆して。
だけど目は逸らさずに、答えた。
「まあいい。本来なら、そこはお前を取り込んだ時点で、話しておくべきだったのかもしれないな」
額に手をやり、深く息を吐き出してから。
緋人くんは、語り始める。
「お前の言ったように。紅太は、吸血鬼古来の力を持っている。
ただ、いつもは力を抑えている。普段の紅太は、シロにも話してあるとおりの、ただの末裔だ。
だけど、満月の日に理性が抑えきれなくなったとき。
そして、意図して能力を発現させようとしたとき。
紅太の髪と目の色は、変わる。
その時には、吸血鬼本来の力を発現できるんだ。そう簡単には死ななくなるし、常軌を逸した馬鹿力が出る。変身はさすがにできないけど、一定の動物を使役することくらいはできる」
彼の言葉に、月明かりに煌めく銀の髪が思い浮かぶ。
そして。
さっき、夕日に照らされてなびいた、銀髪のことを。
窓ガラスを蹴破った時に、彼は意図して力を出したのだ。
普通の人間の力では到底割れない防犯ガラスでも、吸血鬼の力でなら、壊せるから。
「俺の骨折は、明日には治るって言っただろ。それも、完全に力を出したときの紅太の能力だ。あいつの治癒能力も増幅される。深手の傷だって治せるし、外傷以外にも効果が及ぶんだ。唾液もさることながら、紅太の血は、それこそ万能薬に等しい。その力で、紅太は戻ったら俺の怪我をすぐ治すつもりだ。
万が一、戻ってこなくても……俺は確実に、紅太の血を飲みにいくからな。結果として、どのみち治るんだ」
緋人くんは流暢に続けた。
けれど後半に、くぐもった声になって付け加えた話を、不思議に思って聞き返す。
「血を、飲みに?」
「血には、魂が宿る。……吸血鬼の間での迷信だ」
どこか遠い眼差しで、緋人くんは口元を緩めた。
「愛する者が死んだ時。俺たちは敬意を持って、死した者の血を飲む。そうして血を取り込めば、自分の中で、彼の者は生き続けるってね。
ただの迷信で風習だ。だけど、それでも。
一滴たりとも紅太の血は、下卑た輩に渡しはしないさ」
緋人くんは一瞬、ぎらついた眼差しを浮かべた。
が、すぐに気を取り直したようで。今度は、私に質問を投げる。
「シロ。紅太の秘密を知ったとき、吸血鬼について調べてただろ。
人を吸血鬼にする方法、なんて書いてあったか覚えてるか」
言われて私は、先ほどの藍ちゃんとの会話を思い出した。その時にも記憶から引っ張り出していたので、勿論覚えている。
だけど、それは。
「人の生き血を飲むと、吸血鬼になるって書いてあったけど」
「ああ、一般によく言われてる説の一つがそうだ。
だけどお前が一番よく分かってるだろう。ただ血を飲まれただけじゃ、吸血鬼になりはしない。それが本当なら、とっくにお前も吸血鬼だ」
そう。その通りだ。
もう何回も、私は若林くんにも緋人くんにも血をあげている。だけど私は、人間のままだ。
人を吸血鬼にする方法は、それじゃない。
「厳密には。致死量の血を吸い尽くし、加えて吸血鬼の血を与えた場合に、人は吸血鬼になる」
私の思案を待たずして、緋人くんは正解を告げた。
普段の血の提供は、致死量どころか、基本は貧血にもならない程度の分量だ。それに二人の血をもらうことは、当然ない。
いつもの血の提供で、私が吸血鬼にならないわけである。
「致死量の血を失う。つまり、後天的に吸血鬼になるということは、一度は人としての死を迎えるようなものだ。
だけど、逆に。
既に死にかけている人間の血を飲んで、そいつを吸血鬼にしてしまえば、吸血鬼として命を救うことができる」
核心を突いた、説明だった。
息をのむ。
「桜間の妹を惑わした、あいつらが躍起になって追っていた吸血鬼は。紅太の、友達だったんだ。紅太は事故で死にかけていたそいつの命を助けるために、血を飲み、自分の血を与えた。
その結果が、今だ。助けた野郎は犯罪者になり、いろいろな意味で紅太は各所から目を付けられる立場になってしまった。人狼の奴らが、ここまで積極的に殺しにくるとは思わなかったけどな」
緋人くんの話に、様々な感情がこみ上げてきて。
すぐには、処理ができない。
やっぱり若林くんには理由があった。
彼は、ただ友人を助けようとしただけだったのだ。
そして。
彼こそが、きっと誰よりも苦しんでいたのだろう。
詳しいことをほとんど知らない私は、憶測で滅多なことは言えない。
だけど彼のしたことで、助けた友だちは仲間内で犯罪者になり、円佳さんは環や藍ちゃんの前から姿を消し、若林くん自身の首を絞めることになったのは、事実なのだろう。
どれだけ。これまで、若林くんは、抱えてきたんだろうか。
だというのに、私は。
若林くんのことを、信じきることが、できなかった。
確証が、もてなかった。
確かに藍ちゃんの毒は、私の体内を巡っていたのだ。
そもそも私が、最初から。若林くんを一瞬だって疑いさえしなければ、藍ちゃんの術にだってかからなかったし、こんなことにはなっていないのだか……。
「あ痛っ!」
「余分なことを考えてるね。前に言っただろう、人狼は狡猾だ。凹むだけ無駄だよ。まして自己嫌悪に陥るのはあいつだって本意じゃないだろう。
だけどな」
私の思考を黙らせるように、緋人くんはデコピンをくらわせてから。
そっと頬に触れ、むに、と優しくつねる。
「惑わされるなよ、シロ。
人狼の奴らが騙った若林紅太は、お前の知ってる若林紅太とは違うはずだ。
お前の見てきた、お前の知ってる紅太を、見てくれ」
その言葉に、深く頷いた。
そうだ。
私はちゃんと、若林くんのことを知っているんじゃないか。
過ごした時間は、まだ短いかもしれない。
でも私は、若林くんの冷たく見える瞳の奥に帯びた、狂おしい熱を知っている。
一挙一動がとにかく可愛くて尊いってことも。
笑顔が、たまらなく眩しいってことも。
儚げに見えてその実、細マッチョで、案外、強いということも。
それでいて彼が、優しくて脆い、吸血鬼の末裔だということを、知っている。
私はちゃんと、彼のことを、知っている。
そして、同時に。
十年経っていても、きっと私の知ってる蒼兄も……まだ、生きているはずだ。
「緋人くん。お願いがあるの」
行きの電車の中で。ずっと、考えていたことだった。
私はしゃがみ込んで、緋人くんに耳打ちする。
話し終え、顔を上げるや否や、緋人くんはすっと目を細めた。
「それ、怒られるのは俺だって分かって言ってる?
シロのくせにいい度胸だね」
ひぇぇ!
その通り!!
なんですけれども!!!
一瞬、いつものくせでひるんだけれども。
だけど、手段を選んでいる暇はない。
「だって。他にいい方法が浮かばないんだもん。やってみる価値はあると思うの」
「確かに。今の奴には、それくらいやらないといけないのかもしれない。けどな」
てっきり、怒られるのかと思った。
だけど真正面から見つめ返した緋人くんは、怒りと言うより、ひどく苦しそうな表情をしていた。
「安室はどうでもいいけど。紅太とお前が戻ってこないのは、凄く困るんだ。俺の非常食なんだから、勝手に他の誰かに損なわれたら許さない。
必ず。必ず、いい子で戻っておいで」
そう命じるように言って。
緋人くんは、私の額に、唇を寄せた。
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