03吸血鬼の末裔
目の前には、カッターの刃。
私の手首は、彼にしっかりと掴まれている。
彼の腕は私と同じか、それよりも細いくらいだというのに。存外に力が強くて、逃げられる気がしない。
というより、まず私が動けない。これを腰が抜けていると表現するのだろうか。自分の思考を遥かに凌駕する謎の事態に、驚きすぎて身体の機能が先にダウンしてしまったのか、いっこうに足が動く気配がなかった。
狂気を孕んだような赤い目が、徐々に迫る。月の光を映した彼の目が、夜闇の中で怪しく光った。
睫毛長ぇなおい。
ってそんなことを考えている場合ではない、本当にない。
痛いくらいに強く握りしめられた彼の手が、かかる吐息が、その視線が、いちいち熱い。
そのせいだろうか。熱に浮かされていた、からなのか。
いよいよ彼が右手に持ったカッターを掲げても、私は目を瞑ることすらできず。それを振り下ろす瞬間すら、声を上げることも出来なかった。
の、だが。
カッターの刃が向かったのは。私の手を握っていた方の、もう片方の彼自身の手。
彼は、自分の手の甲に傷をつけ。
そこからにじみ出た自分の血を、ちろりと舐めた。
「…………」
そっち?
……ねえそっち!?
いや、私としてはね! 助かったんでね! 構わないんですけどね!
スプラッタな展開とか想像しちゃったりして、ちょっと怖かったんですけどね!
なんかの物語が如く、満月の夜に惨劇が起こるかと思ったよね!
とはいえ、目の前の事態に泡を食っている、という現状は変わらない。
相変わらず混乱したまま、私は貪るように自分の血をすする彼の姿を、ただ黙って眺めていた。
やがて苦しげだった息が、次第に落ち着きを取り戻していく。
それと比例するかのように、髪の色は、元の色素の薄いこげ茶色に戻っていった。
元の髪色に戻りきってから。バツの悪そうな表情で、彼はおずおずと顔を上げた。その目もまた、血のような赤から、いつもの色に戻っている。
そうしてしばらく、互いに何も言えぬまま見つめ合って、たっぷり一分くらいは経った頃に。
「説明を……求めます……」
「はい……」
ようやく、どうにか私は告げることができた。
******
大学の最寄り駅から、数駅ほど離れたファミレスのテーブル席に、私と若林くんは向かい合って座っていた。
私たちを待ってくれていた先輩たちには、若林くんが貧血で具合が悪そうだから駅まで送ってそのまま帰ると連絡した。席を確保してもらっていたのに申し訳ないけど、注文はしていないから、きっと大丈夫だろう。
後で多少からかわれるかもしれないけど、この際それはしょうがない。
いや、だってね。
食事の後に改めて話すという手もあっただろうけれども、それまで取り繕える自信がなかった。
さすがにあんな事が起きた後で、何食わぬ顔して「遅れてすみまっせーん☆」なんて言いながら爽やかに先輩たちと合流できるほど、私は強靱なメンタルじゃない。
とにかく私は、可及的速やかに、一連の不可解な出来事をどうにか説明してほしかったのだ。
というわけで、他のサークル員とエンカウントする可能性が低いだろう場所を選び、私たちは互いに神妙な顔つきで座っていた。
食事の注文を済ませ、ドリンクバーを取りに行ってきたところで、私たちの間には沈黙が流れ続けている。
その重苦しい空気たるや、今すぐ逃げ出したい。逃げ出したところで、今度は気になりすぎて悶絶するから逃げないけど。
傍からは、別れ話をするカップルにでも見えたかもしれない。もしくはお通夜だ。
自分から話をふるのも、急かすようでなんだか憚られたので、気まずさを誤魔化すように持ってきたドリンクを飲む。
普段は飲まないんだけど、今日は気合を入れるためにブラックコーヒーを持ってきた。しかし一口飲んだところで顔をしかめる。コーヒーを覚えたてで、いつもならミルクも砂糖もふんだんに入れる私には、どうにも苦すぎた。とても続きを飲めたものじゃない。何をやってるんだ私。
「……ええと、その」
一人で顔芸をしていたところに声をかけられ、慌てて背筋を伸ばした。
対して若林くんは、猫背で身を縮めるようにして、おもむろに言う。
「望月さんは。……吸血鬼、というものをご存じですか」
「はい、存じております」
彼につられて、折り目正しく答えた。
……これはあれか?
三者面談かなにかか?
二人しかいないけど!
若林くんは、私の顔をちらりと一瞥してから、逃げるように目を逸らし。
辺りに聞かれぬよう気を付けてか、ごく小さい声で告げる。
「一言で言うと。
僕、……俺は。その、吸血鬼というものの末裔だそうです」
なるほどそっかー!
そういうことかー!
納得ゥー!!!!!
ってなるほど私は頭がお花畑じゃないんですよ。二次元と三次元の区別はキッチリつけながら生活しているわけなんですよ。
いきなりそんな突飛なことを言われて、簡単に信じるほど能天気じゃあない。
とはいえ、大真面目にそう告げてくれた手前、無下に全否定することもできず。答えに窮した私は、間抜けにオウム返しする。
「末裔……ですか」
「末裔です」
彼もまたオウム返しに頷いた。
なんだこれ。なんだこのテンション。
まるで震えているみたいな至極か細い声で、彼は俯き加減に続ける。
「血が薄まり続けた末裔なので、基本的にほとんど人間と変わりません。昼間に出歩くのも、ニンニクも十字架も大丈夫だし、一般的な手段でちゃんと死にます。
ただ、俺の場合。
満月の夜だけ、無性に血を欲しくなって、理性が飛んでしまうことがあって。
その時は、髪と目の色があんな風に変わってしまうんです」
ええと。
はい。
うん。
「質問よろしいですか」
「はい、どうぞ」
だ! か! ら!
これは面接かよ!!!
就活の面接かよ!!!!!
就活したことないけど!!!!!
という激しいつっこみは心の中に押し留めて。
しかし内心で耐えきれずにズンドコと踊りだした別の激しいつっこみを、口調だけは努めて穏やかにする。
「……満月の夜になんか起こるのは、吸血鬼ではなく人狼では?」
「いいところに気が付きましたね。そのとおりです」
だぁ! かぁ!!! らぁー!!!!!
「やめよう!」
テーブルに拳を打ち付けて(ただし近隣に配慮して音は立てないようにしながら)、私は力強く宣言した。
驚いたのか、若林くんはびくりと肩を跳ねさせたが、構わず私は主張する。
「もうやめよう! このノリ!
いやね、気持ちは分かる。分かるよ!? 状況も状況でお互い動揺してるだろうし、元々私たち、そんなに話したことないし!
でもね。一応、うちら同期だし! もっとこう、肩肘張らずにいこう!?」
このテンションのままいかれたら、本題に集中できないし、まともに切り返しも出来ないんじゃ!
一息に喋ってしまってから、私は半分浮かせていた腰をまたソファーに沈めた。
表情筋をリラックスさせるべく、両頬をつねりながら私は提案する。
「というわけで、フラットな感じで話を進めていきたいんだけどよろしいか」
「大、丈夫だけど。……何してんの」
驚き半分、呆れ半分に彼は私の顔を見つめる。
あ、ようやく私の知ってるテンションになった。
好青年風でありつつも、ちょっと斜に構えた感のある若林くんだ。よかった。
というわけで、早速。
気が抜けたのか、途端にこれまで抑えていた感情とテンションが溢れ出し、私は顔を覆った。
「設定がブレまくってるよぉー!
なんで吸血鬼と人狼の特徴ミックスなのー! 気になるとこはたくさんあるけど、まずそこに引っかかってなんも集中できないよー!」
「設定?」
私の口走った単語に、首を傾げながらも。
若林くんは私の要望通りに、普段サークルで見ている姿と変わらぬ調子で説明する。
「当事者の俺が一番、疑問に思ってるよ。
けど分からないものは詳しく説明しようがないだろ」
彼もまた気が抜けたように、ソファーの背に体重を預ける。
さっきまでの消え入りそうな声ではない。相変わらず声量は控えめだが、落ち着きを取り戻したように淡々と彼は喋る。
「どこかで人狼の血が入ってるんじゃないか、とは言われてる。可能性は低いだろうけど、ありえない話じゃないって。
他にも何人か俺みたいな末裔を知ってるけど、満月の夜にどうにかなるのは俺だけだ」
吸血鬼と人狼のハイブリッドとか、それなんて二次元?
いやハイブリッドじゃなくても十二分に二次元案件なんですけれどもね!?
「ご家族の方は?」
「父親は普通の人間で、母親が血を引いてる。けど、母親も月は関係ない。その上のじいさんもだ。親戚見回しても俺だけなんだよ。
さっきも言ったけど。基本、人間と同じ生活してるから、あまり普段はそれを意識してない。だからか昔のことは、深くは何も伝えられてないんだ」
「末裔ゆえに?」
「末裔ゆえに」
そんなんでいいのか、と思いかけたが。よく考えたら、私だって祖父母より上のご先祖様のことは、何も知らないに等しい。
それにさっきの話を聞く限りじゃ、吸血鬼の末裔とはいっても、確かに人間と大差ないように思える。
現に私は、若林くんが昼間の講義に出てる姿を見てるし、新歓コンパで出てきたニンニクが大量に乗ったピザだって一緒に食べているのだ。
ほとんど人と変わらず暮らしているのなら、過去のルーツがある程度は途絶えても、仕方ないのかもしれない。
けど。人とあまり変わらないとはいえ、だ。
私は先ほどの出来事を思い返す。
何かに魅せられたように、取り憑かれたかのように、私の傷口を見つめていた眼差し。
文字通りに目の色を変え、血をすすっていた彼の姿を。
一番吸血鬼らしいこと。
血を吸う、ということについては、どうなんだろうか。
「他の末裔さんは、血を吸ったりはしないの?」
「ない、と言えば嘘になる。けど、血はあくまで嗜好品に留まる程度なんだ。飲まなくても一応、死にゃしない。
そういう吸血鬼みたいなことを嫌って、死ぬまで一切、血を飲まない奴もいるよ。だけど大抵は、身内同士で折り合いを付けて、血を提供し合ってる感じかな」
そこまで説明してから。
急に彼は、声のトーンを落とした。
「普通。一般人を襲ったりとか、そういうのは本当にしないんだ。フィクションの中に出てくるみたいな、野蛮な真似はしない。
結婚相手には飲ませてもらってる人が多いけど、なんにせよ事情を知って、了解をもらった相手からしか血は貰わない。
つまり、その」
にわかに口ごもったかと思うと。
若林くんは勢いよく、テーブルに顔がつくくらいまで、思い切り頭を下げた。
「さっきは本っ当、ごめん!
理性が色々トんでたとはいえ、迂闊だった。
僕、……俺が、もうちょっと気を付けてれば、こんなことせずに済んだのに」
「いや。そんなに気にしないで。というか私、結局なにもされてないですし。びっくりはしたけど」
私が気になったのは、むしろ別のところだった。
「一つ、確認しておきたいことがあるんだけど」
「……何?」
身構えながら、若林くんは恐る恐る顔を上げた。
そんな彼を、私は真顔で見つめる。
「さっきから何回か、一人称を『僕』から『俺』に訂正しているけど、それは一体どういうことですか」
「そこ重要!?」
「個人的にはめちゃくちゃ重要」
おそらく彼にとっては不可解でしかない私の問いに、怪訝な顔をしながらも答えてくれる。
「普段は『俺』でとおしてるけど。ちょっとこう、気が弱ってる時なんかは、素に近い『僕』の方が出ちゃうんだよ。
だけど格好つかないから、できるだけ直そうとしてるんだけど。それだけだよ」
彼の回答を受けて、私は悟られないように深く息を吸い込み、天を仰いだ。
そして、大きく息を吐き出し。
声には出さぬよう、心の中で大音量で叫ぶ。
一体全体、何を言ってるんだこの尊い生き物はー!
『僕』が恥ずかしくて直そうとしてるとか、なんだそれ可愛いかよ!? 超絶可愛いかよ!?
むしろ訂正しないでくれぇー!!!
僕も全然平気だよウェルカムだよときめきだよ!!!!
ジャースティース!!!!!
とりあえず、彼と話してみて、はっきりしたこと。
やっぱこの人、超絶私の性癖だわ。
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