04血を舐める

 それから私たちは、運ばれてきた食事を摂りつつ話を続けた。


 普段、満月の日はあらかじめ仲間の血を飲んで、理性が飛ばないように対策しておくこと。

 けれど今日はなにかとイレギュラーな事が多くて、飲む量が足りず上手くいかなかったこと。

 血を連想させる私の腕の絆創膏を見て、タガが外れてしまったこと。

 だけど、すんでのところで理性が働いて、どうにか自分の血を飲んで落ち着かせたこと。


 あとは、サークルのことや授業のこと、他愛のないことを含めて、なんだかんだと一時間以上話し込んでしまった。とんでもない事態を挟んでいたせいか、その後はかえって気負わず話せた気がする。

 久々に環以外の人と長く話したからか、なんだか新鮮だ。


 しかし。この推しとの穏やかな時間の対価として、少々、私の本性がバレた気がする。

 うん。あんな発言、しちゃったしね。そうそう隠そうとも思ってないから、会話の端々からだだ漏れたしね。もう諦めてる。同期がこんなのですまん、若林少年。




 会計を終えて外に出ると、既に時間は十時半に近かった。サークルで食事をして帰る時より遅い。まぁ話した内容が内容だった。当たり前かもしれない。


「あのさ」


 財布とカーディガンをしまい、バッグを肩にかけなおしたところで、若林くんが口を開いた。


「他の人には。このこと、内緒にしててもらいたいんだけど」

「むしろ言えるわけがあろうか」


 人の秘密を吹聴する趣味は元よりないが、吹聴してくれと頼まれたとして、全力でごめんである。私がどうかしてる人認定されて終わるに決まっている。

 彼は迷うように視線を泳がせると。唇を噛み締めてから、掠れた声で尋ねる。


「信じて、くれるの?」


 問われて私は。

 即答できず、彼を見つめる。



 ファミレスでは、彼が吸血鬼の末裔であることを前提として話をしていた。そうでないと話が先に進まなかったというのはある。

 だけど冷静に考えれば、いや冷静に考えなくても、とんでもない話だ。


 ここは中世のヨーロッパじゃない。鉄の塊が空も地も駆け、スマホ一つで大抵のことが事足りる、二十一世紀の日本だ。夜の闇がほとんど消え去ってしまったようなこの時代に、得体の知れないものが潜む隙なんか、ありはしない。

 そんな時代の、よりによって大都会は東京のど真ん中にて、ベタにも程がある『吸血鬼』だなんて。


 しかも、吸血鬼そのものではなく、『末裔』だ。

 普段は人間と変わらず生活できて、最悪は血がなくてもいい。満月の日だけ理性が飛んで、血が欲しくなる、だなんて設定。

 都合がいいにも、程がある。


 だけどそもそも、だ。

 さっき私は、彼の髪が銀色に、目が血の色に変化した様を、はっきり目撃している。それを何か科学的な現象として説明づけるすべを、私は知らない。


 そして、なによりも。



「今、話してみて。若林くんが、そういうタイプじゃないってのは、分かったと思うから」



 世の中には、よく言われる中二病のように、自分の考えた妄想話を本当のことのように話す輩はいるだろう。

 人をからかうために、そういう嘘を吐く輩だっているかもしれない。

 もしくは現実と妄想を混同して、自分でも心底そう信じ込んでしてしまう人だって。


 けど、髪と目のことを差っ引いたとしても。


 もしこれが嘘だとしたら。

 彼は今、縋るように怯えたように、必死な目は、してないと思うんだ。



「飲み込めたかと言われたら。……うん、正直、困惑が強くて。明日の朝起きたら、全部が全部、夢だと思っちゃうかもしれない。

 だけど、若林くんが嘘を吐いてないってことは、信じてるよ」

「……ありがとう」


 息を吐き出し、彼は強ばった表情を緩めた。

 眉を下げ、弱々しい面持ちで、彼は両手を合わせる。


「それで充分だよ。もう、忘れてくれて、いいから。

 今日は、本当にごめん」

「もういいって」


 笑い混じりにそう言うと、ようやく彼は視線を上げる。

 だけど私に向き直るや、途端に彼は、うっと呻いて目を逸した。


「ごめん。それ、目に毒だ」

「あ、ごめん!」


 ファミレスの中は空調が効いていたのでカーディガンを羽織っていたが、蒸し暑い外に出たので、またそれを脱いでいたのだ。露わになった二の腕の絆創膏を、私は慌ててバッグで隠す。

 あれ、まだ駄目なの? さっき一応、自分の血を飲んでなかったっけ。


「帰り、大丈夫なの?」

「ん。なんとか、大丈夫だとは思う」

「ってか、自分の血を飲んでたけど、それじゃ足りないの?」


 若林くんは、じとりとした目をこちらに向ける。


「血を欲しがってる奴が、とりあえず自分の血を摂取して、それで満足すると思う?」

「思いません」


 だよね。ループしてるだけだもんね。


「それでも一応、その場しのぎにはなる。から、家までは保つと思う。

 あとは家に引きこもってれば、害はないから」


 私に背を向け、ポケットに手を突っ込んで彼は深く息を吐きだした。



 害、と若林くんは言った。

 それは多分さっきみたいに、他の人に危害を加えてしまう可能性のことを言っているんだろう。


 だけど。

 ……彼にとっての、害はどうなのだろう?



 彼の理性を狂わす満月は、まだ頭上で煌々と輝いている。

 もう十時半。

 けど、まだ十時半だ。

 この月の光が輝く限り、彼は当分、苦しまなければならない。



「私の血、飲む?」



 ぽつりと口をついて出た言葉に、びっくりしたのは自分の方だった。

 彼もまた、顔をしかめて振り返る。


「さすがに、それは」

「だけど。他人の血を摂取しないと、本調子にならないんでしょ。まだつらそうだし」


 それになにより、家に着くまでに、またこんなことがあっちゃ困る。

 さっきは相手が私だったからよかったようなものの。その辺の見知らぬ人に同じことをしてしまったら、下手すりゃ警察沙汰だ。

 そんなことになったら、やってる内容が内容だ。若林くんは社会的に死んでしまう。


 本当に、それは避けたい。心底、避けて欲しい。

 この世界のとんでもない損失だ。

 貴重な性癖の権化が傷つき失われる姿なんて、見たくない。


「血を飲んで具合が良くなるんだったら、別にいいよ。私は元から怪我してるんだから、たいした負担じゃないし」

「……いいの?」

「帰りに倒れられるよりずっといいよ。このまま帰すの、正直心配だもん」


 倒れるというより捕まる懸念の方がでかいですが、心配なのは確かなので許して欲しい。


 口では遠慮がちだったが、本音ではやっぱり血が欲しいんだろう。若林くんの目は、さっきみたいに爛々と光を宿している。たまらん。


 意見が一致したところで、私は早速、絆創膏をはがした。……のだけれども。

 怪我したのは昨日だ。既に血は止まっている。む、そうか当たり前か。

 仕方ない、と傷口を力任せにつねると。まだ完全には治りきっていない傷が、軽い痛みと共にぷつりと裂け、ほのかに赤が滲み出る。


 と、反対側の腕を掴まれ、若林くんに人通りのない細い路地へ引き込まれた。


「人前でやっちゃ、駄目だろ」

「そのとおりです」


 無理矢理に傷口広げてるとか、通行人からしたらヤバイ奴じゃないか。

 あっぶねー。助かったわ。


 若林くんは傷のある腕に持ち替えると、猫背で患部をじっと凝視してから、上目遣いで私の顔色をうかがうように見つめた。

 待て。それは反則だ。


「ごめんね。少し、痛いと思うけど。……いただきます」


 そう断りを入れてから、彼は傷口近くに指を這わせ、血を絞り出すべく力を込めた。さすがに加減に慣れているのだろう。ありがたいことに、そこまでの痛みはない。

 乾いていた傷口から、とろり、と血が流れ出す。


 それを見計らって、傷口にはそっと、彼の柔らかい唇が押し当てられた。

 痛まないよう、最大限に配慮してくれているのだろう。さっき自分の血を舐めていたときと違い、その動きは優しく、吸われているという感覚はあまりない。少しささくれた唇の皮が当たる感触で、分かるかどうかといった程度だ。

 僅かに皮膚へ伝わる、ちりちりとした痛みが、むず痒い。




 …………。




 彼の社会的立場を守るために提案した内容だったけれども。

 特に深く考えずカジュアルに提案した内容だったけれども。




 これ、背徳的で、やばいな?




 直視することが出来ず、私は心を無にしながら空を見上げる。

 あー。満月だー。満月すげー。満月やばい……。






 しばらく語彙をなくし続けていると。やがて気が済んだのか、彼は静かに顔を上げた。


 彼の口元から滴り落ちていたのは、血だった。

 煌々と私たちを照らす、明るすぎた満月のおかげで。黒い筋のようになって垂れるそれが、確かに血液で、決して何かの見間違いなどではないことが分かる。

 これが真昼の太陽の下だったとしたら。きっと彼の白い肌に、さぞかしその鮮血は映えたことだろう。


 それに、そうだ。

 そもそも私は、彼の口元に付着した液体の出どころを、一部始終を、この目でしっかりと見ていたのだ。


 それは。

 私の、血だ。


 彼は私の腕を解放してからそっと目を逸し、「ごめん」と今にも消え入りそうになって身をすくめた。


「ごめん。こんなこと、するつもりじゃなかった」


 掠れた声で、後悔に苛まれたように言う。


 私の意思とは関係なく、手が、指先が、小刻みに震える。

 慌てて震えを止めようと、私は自分の頬にその手を押し当てた。

 やはり震える唇を必死に押し開きながら。いつの間にか、からからに乾いてしまった唇を舐めて湿らせ、私は満月を背に立ちすくむ彼を見上げる。


「……それ、なんて二次元?」

「今なんて?」


 私の間抜けな反応を見るや、その憂いを湛えた顔に怪訝な色を浮かべた。

 うん。台詞のチョイスを盛大に間違えた気がする。


 だって仕方ないじゃん。尊みが爆発したんだもの。

 やばない?

 月の光を背に、口から血を滴らせてる推し、やばない???




 美しき耽美な表情から一転。サークルでも何度か見た、呆れた表情で彼は私を見下ろした。


「さっきも話してて思ったけど。余分なことが多いんだよなぁ。ちょっと、うるさいというか。血とおんなじだ」


 ごめーん自覚はある!

 自重できない変態でごめんね!!!



 ……って、血?



 一瞬きょとんとして考えてから、ああ、それは血の味のことを言っているのかもしれないと思い当たる。

 血の味なんて気にしたことないけど、とりたてて健康に気を遣っているわけではない。血液ドロドロかもしれない。大丈夫だったろうか。

 せっかくだから血の味からテイスティングして、今の健康状態を教えてくれたりしないかな。ああでも普段飲むのは身内だけだっていうから、比較対象が少ないしそれは難しいか。

 って何を求めているんだ私は。採血じゃないんだぞ。


「ごめん、美味しくなかった?」

「いや、その、なんというか」


 若林くんは、言葉を濁して。


「ビーフストロガノフととんこつラーメンに、仕上げにチョコバナナラテを加えた感じの味」


 何だそれヤッベェー!

 くどい通り越して超うるせぇーーー!!!

 いやいやそんなもの飲ませてむしろゴメンね!?

 ひどいゲテモノ飲ませて本当マジごめんなさい!!!!!


「ごめん! 本当ごめん!」

「え? いや、なんで謝るの」

「だってー!」


 イヤアアアさっきテイスティングだなんて思った奴どいつだ!

 めちゃくちゃ恥ずかしいぞ!?


 頭を抱えて私は座り込んだ。

 だがその反応に、何故か若林くんは首を傾げると。


「じゃあ。せっかくだし、塞ぐ前に味見する?」


 え、と尋ね返すより前に、彼は私の前にしゃがみ込み。まだ傷口から滲む血を、長い人指し指で掬い取ると、その指を私の口の中に押し込んだ。


 捕食者に睨まれた被食者のように。

 私は、動くことが出来ない。


 舌の上には、鉄の味と、彼の指の感触が広がる。

 うっかり自分の口内を、彼の指を、噛み切っていないだろうかと、不安になった。

 だって、そうでしょう。

 この状況で、自分の反応を、制御できているとはとても思えない。


 彼は指を引き抜き、長い睫毛を少し震わせて目を細めると。

 私の瞳をじっと覗き込み、妖艶に微笑んだ。


「ね? うるさいでしょ」


 ……素か?

 君のそれは。素なのか?


 口の中から、この世のものとは思えない奇声が出ようとするのを必死に堪えながら、私は固い声で回答する。


「ああ、血だなあ……としか思えません……」

「そっか。他の人の血なんて飲まないもんな。飲まれても困るし」


 納得したように、彼は頷いた。

 彼の指が遠ざかったことで、ほっとしたのもつかの間。


 若林くんは、また私の腕を掴むと。

 赤い傷口を、ぺろりと舐めあげた。






 ひえ……。


 …………。





 ひえ……………………。






 完全にフリーズした私を見て、「あ、ごめん」と彼は慌てたように付け加える。


「俺の唾液には、傷を治す作用があるんだ。そのままにしとくよりいいかと思って。つい、いつもの癖で」

「いや。いきなりだったもんで、心底、思考回路が天元突破しそうだったけど、むしろ傷を治してもらえるならこちらとしては大変ありがたいのですが」

「ごめん、気持ち悪かったよね」

「いや。そう、いう、こと、では、なく」




 全世界の、心に性癖を抱く皆さん。お元気ですか。

 私は元気に死んでいます。



 突然ですが皆さん。

 推しに舐められたことはあるか。


 私はある。







 今だ。







 シンプルに言って死んだ。



「私の骨は、江戸川にでも流してください……」

「……なんて?」



 全国津々浦々の性癖持ちの皆様におかれましては、今この場で私が叫び出さなかったことを、全力で褒め称えてもらいたい。

 両手で顔を覆って、私は必死にその視線から逃れた。






 むり。

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