05優しい嘘

 朝起きると、目覚まし時計が瀕死だった。


 フローリングの床の上には、時を刻む営みを止めた目覚まし時計と、乾電池が二本、転がっている。けたたましく鳴り響いた目覚ましの音へ無意識のうちに反応して、私がさっき床に叩きつけた所為だ。

 まあ、壊れちゃいないだろう。


 目覚ましのベルではなく、目覚ましが瀕死になって内蔵(電池)をぶちまけた音で目を覚まし、私は上半身を起こした。

 時間には余裕があるのでもう一眠りしたいところだが、二度寝したら確実に寝坊する。一人暮らしの私を起こしてくれるのは、目覚まし時計さんしかいないのだ。もう瀕死だけど。


 体は起こしたが、目が半分しか開かない。なんだか腫れぼったいまぶたが、活動を開始することを全力で拒否している。鏡で見たら、きっとひどい顔をしていることだろう。


 原因は分かっている。明け方近くまで、ネットをしたり動画を観ていた所為だ。

 そして動画のせいで、夢見が悪かったからだ。



 ぼんやり寝不足の原因を思い出してから。

 途端に、はっきり覚醒して、私は右の二の腕を見た。


 傷が、ふさがっている。


 一昨日、壁にぶつかって出来た傷は、最初から何事もなかったかのように、綺麗さっぱり消えていた。


 夢じゃ、ない。


 傷があったはずの部分に触れる。つるりとした肌の表面は滑らかで、かさぶたも、ひきつれもなかった。

 けれども昨日の夜までは、間違いなくそこに痛々しい傷があったはずなのだ。




 睡眠時間を犠牲にして、私が昨夜、調べて回っていたのは。



 ――吸血鬼、のことだった。



 夢などではない。

 確かに私は昨日、吸血鬼の末裔に、血を吸われた。




******




 大学に来てから、まっすぐ図書館に向かう。

 今日の講義は午後からだ。まだ昼前なので、時間には余裕があった。木曜日にサークルがあるので、金曜日にはあまり授業を入れていないのだ。

 この時間割が、今日は心底ありがたかった。授業に出たって、考えることがありすぎて集中できそうにない。


 学生のまばらな図書館にて、目当ての本を何冊か見つけだす。何冊か手に取り中身を確認してから、内容が濃そうなものを吟味して数冊借りた。

 カウンターで貸し出しの手続きをして、では閲覧室で読みましょうかねと振り返ったところで。



 若林紅太とエンカウントした。



 彼はちょうど図書館に入ってきたところだった。図書館に入り学生証を通してゲートをくぐると、その先はすぐカウンターになっている。

 つまり、カウンターからきびすを返した私と、ばっちり視線が合っていた。



 白香は 逃げられない!



 仕方なしに、私はぎこちなく挨拶をする。


「お、おはよう」

「そろそろ昼だけど……」

「あっそうでした……」


 図書館なので、私たちは控えめな声量でやりとりした。

 その会話の一方で。若林くんの視線が、本を抱えた私の手元に向けられているのを感じる。


 私が手にしている本は、吸血鬼に関する文献だった。

 吸血鬼辞典、吸血鬼伝説などと銘打った専門書の類に、吸血鬼を題材に扱った小説まで。

 いずれにしても、タイトルからして一発でそれと分かるものばかりである。



 …………。



 会いたくなかったぁー!

 本当、今この場で会いたくなかったぁー!!!



 彼の顔を直視できずに、私は手にした本に視線を落とした。


 本当は、一通り調べて、覚悟を決めてから話をするつもりだった。

 だけど見られてしまった以上、あまり先延ばしはできない。昨日の今日で、私が彼のルーツについて調べている姿を見ては、若林くんもいい気分はしないだろう。


 誤魔化そうとも思ったけど、それはフェアじゃないよね。

 こうなったら、腹をくくるしかない。


「若林くん。この後、講義ある?」

「午後からだよ。今は空いてる」



 白香は 逃げられない!



「ちょっと、……お話ししても、よろしいでしょうか」




******




 日の光が射し込むガラス張りの校舎は、サークル部屋やコンビニが存在することもあり、学生の出入りが激しい。

 しかし一階二階は学生たちで賑わっていても、階を上がるにつれて段々と人の姿は少なくなっていく。


 そんな、ひと気の少ない上層階の、片隅に置かれたテーブル席に私たちは陣取った。

 全面がガラス張りになった壁からは、五月のさんさんとした太陽の光が容赦なく降り注ぐが、若林くんは至って平気そうな顔をしている。彼の言うように、なるほど日光は平気みたいだ。


「昨日ね。あれから、考えてみたんだけど」


 何気ないふりをして、私は口火を切った。


 妙に、緊張している。

 あれか。人が思いを告白する時というのは、こんな感じなんだろうか。一度も経験がないから、さっぱり分からない。


 ここに来るまでの間、どう話したものかと考えてはみたが、いい案は浮かばなかった。

 回りくどいことを言っても仕方ない。率直に言おう。



「味の善し悪しもあるだろうし、若林くんが嫌じゃなければ、なんだけど。

 よければ。定期的に、私の血を飲んだらどうかと思って」



「……は?」



 私の提案は、彼にとってあまりに意外だったようで。

 呆けた声でそう言って、若林くんは大きく目を見開く。


「何言ってんの? どうしてそんな馬鹿なこと」

「だって。若林くんには、血が要るでしょう」


 それが。

 私が睡眠時間を削って、考えに考えた末の、結論だった。


 けれども多分、彼はそう簡単には認めてくれない。

 だからまず率直に言ってしまおうと、私は一つ、深呼吸をした。


「あのね。私、若林くんが昨日みたいなことを誰彼構わずやらかして、捕まったりしないかがめっちゃ心配なの」

「人を通り魔みたいに言わないでくれ……!」


 心外だとばかりに、若林くんは語調を乱す。

 ごめん、ちょっと言い方が悪かった。


「言っただろ。普段はちゃんと、対策してるって。もうこんなことは起こらないから大丈夫だよ」

「またイレギュラーが起こる可能性はゼロじゃないでしょ?」

「次から気をつければ」

「一度やらかした人が言っても信憑性ないですー!」


 牽制も込めて、私は若林くんを軽く睨む。


「それに。一つ、聞きたいんだけど。

 本当に、吸血鬼の末裔にとって、血は嗜好品止まりなの?」


 その問いに。

 少しだけ彼は視線を泳がせた、気がした。


「そうだよ。だから、そんな頻繁に飲まなくたって」

「嘘でしょう?」


 言い訳じみた彼の言葉を遮って、ずばり本題に切り込む。



「本当は。末裔にとっても、血ってもっと欠かせないものなんじゃ、ないの?」



 吸血鬼といえば、人間の生き血を吸う生き物。

 それが彼らのアイデンティティのようなものだ。


 世界各国に伝わる伝承や、映画や小説などフィクションの類に至るまで色々調べた。

 地域によって、物語によって、それこそいろいろな設定の吸血鬼がいた。一般的なイメージ通りの吸血鬼から、それこそ彼の言う末裔みたいに、彼らが苦手とするものの大体が平気な吸血鬼まで。作品によって、本当に同じ存在なのかと思うほど、様々な姿で描かれていた。


 けれども。

 彼らが『血を吸う』という点についてだけは、ほとんどの話で共通していた。

 名前にも冠している特徴である。そうそう外せない要素なのだろう。


 だから、少し若林くんの話を疑問に思ったのだ。



 いくら末裔とはいえ。

 本当に、血は嗜好品止まりでよいものなのだろうか、と。



 それは、血を吸う若林くんと対峙した時にも思ったことだった。

 だってただの嗜好品なんだとしたら。

 獲物を見つけたときのような、あの熱に浮かされたような眼差しまでは、しないんじゃないかと思ったから。


 とはいえこれは、ただの勘。なんとなくそう感じたという程度のものだ。だから、もう少し調べて考えを深めてから話を切り出そうと思っていたのだ。彼の話を、疑うのも悪いと思ったから。


 若林くんは、妙な嘘をつくタイプではないと思う。

 けれど。


 彼はきっと、人を守るための嘘なら、きちんと吐くタイプだ。


 そして今日、彼の姿を見て。

 私の中で、その推測はほとんど確信に変わっていた。




 私はおもむろに彼の顔に手を伸ばし、むに、と両頬を軽くつねる。

 抵抗することはなかったが、しかし若林くんは怪訝に顔をしかめた。


「いきなり何すんの」

「明らかに血色がいい」

「…………」

「明らかに! 血色が! いい!」

「二度言わなくていいよ!」


 そう。今の彼は、昨日と明らかに肌艶が違う。いつも病弱そうに見えた青白い頬には、薔薇色の赤みが差し、それこそギムナジウムで健やかに過ごす少年のようだ。

 おかげさまで、より尊みが増している。素晴らしい。



 ……とか考えている場合ではない。



「もう一度言います。

 本日の君は、私の血を飲んだ後の君は、血色が大変よろしく思えます」

「う」

「本当は、健康を保つためにはもっと血が必要なんじゃないの。白状しなさい」

「……その、とおり、なんだけどさ」


 私に頬を掴まれたまま、若林くんは観念して言う。


「昨日も言ったように、吸血鬼の末裔は、ほとんど人と変わらない。

 ただ、ちょっと違うところは。

 俺の唾液に傷を治す力があるみたいに、人によって特殊な能力を持っていることがあること。

 それから、俺ら全体に共通することとして。

 血を定期的に摂取していれば、寿命だけは、不老不死とまではいかなくても、人より少し長いんだ。昔ながらの吸血鬼のように大量に血を飲んでいれば、百五十年は生きるって言われてる」


 百五十年。人間の、一.五倍くらいか。

 いや、平均で考えれば、人は百歳も生きない。ほとんど二倍近いのか。


「血液を摂取しなくても、すぐに死にはしない。

 けれども緩やかな死に向かっていく。

 一切、血を飲まずにいた場合の俺たちの平均寿命は、三十から四十程度だ」


 私は、彼の頬から手を離した。



 血を飲めば、彼らは人より遥かに長生きする。

 だけどそれを怠った場合。彼らの命は人間のそれより、遥かに短い。


 ……何が、人とほとんど変わらない、だ。

 嗜好品、なんて簡単に片付けていい話じゃない。

 生きていく上で、結構なハンデだ。



「だから俺たちは、長生きしすぎず、早死にしすぎない、程良いラインで血を摂取する。

 普通は、相手に影響が及ばない程度の少量の血を、だいたい月に一度も飲めば大丈夫なんだ。

 だけど俺の場合。この体質のせいか、それだと少し足りない。できれば、月に数回は欲しい」

「それで。若林くんは、どのくらいの頻度で飲んでたの」

「……満月の日にだけ」


 全然。

 全然、足りないじゃないか。


 満月の夜は、月に一度程度。

 だけどそれだけじゃ、若林くんの身体には足りない。




 やっぱり、私の直感は間違ってなかった。

 彼は、人を守るための嘘なら、きちんと吐くタイプだ。

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