36:若林紅太の秘密

 言われたことの意味が分からずに、私はぽかんとただ目の前の人物を見つめた。

 彼は、私の知っているサークル同期の安室蒼夜で、幼い頃に兄妹として過ごした望月蒼夜だった人物のはずだ。


 だけど今、彼は。

 自分は『望月もちづき蒼夜あおや』ではないと言った。


「俺に会った時、しぃが分からなかったのも無理ないよ。だって俺は事実、望月蒼夜とは赤の他人なんだ。見た目も中身も、ね」

「待って。待ってよ。どういうことなの?」

「藍から。俺の人格の話は聞いただろう?」


 慌てて話に待ったをかけると、彼はかみ砕くように、ゆっくりと説明する。


「この身体の中には、二人の人格がいる。

 だけど。厳密に言えば、藍の認識も正確じゃない。

 しぃが父親に殴られたあの日から。俺は、アオヤと入れ替わったままなんだよ。ずっと、十年以上もね」


 藍ちゃんは、彼の中には『安室蒼夜』と人狼の『蒼夜様』の二人の人格がいると言った。

 けれども。

 今の説明だと、藍ちゃんの言う二人のくくりは間違っていて?

 私が記憶を封じ込めたあの日から、蒼兄は蒼兄じゃなくって?


 つまり、ええと。


「ごめん。混乱してぜんっぜん頭に入ってこないんだけど。

 えっと……今、私の目の前にいるのは、誰なの?」


 その問いに。

 彼は、厳かに告げる。



「俺は。かつて望月アオヤが作り出した、もう一人の人格、『ソウヤ』だ。

 この名前も、アオヤが名付けてくれた」



 広げた扇を顔から外し、彼は再びそれを畳んだ。


「アオヤは、人間と人狼の狭間で、悩み苦しんでいた。小さい頃のアオヤは、人狼としての力をうまく制御することができなかったんだ。理性より本能が勝ることもしょっちゅうだった。

 結果、人間に正体がばれて、異端とそしられ迫害されることが何度かあった。その代表が、父親だな」


 落ち着いた声音で淡々と話す。

 けれどもその表情は、とても固い。


「アオヤは苦しんだ末に思いついた。

 人間としての自分と、人狼としての自分。その二つを切り離すことができれば、普段は完璧に人間を演じることができるんじゃないかと、そう考えた。

 そうやってアオヤは、人狼としての理想の存在おれとして、アオヤを作り出したんだ。

 人狼としての本性を、俺というもう一つの存在に預けることで、アオヤは普段まるきり人間として過ごすことができた。

 だけど」


 一旦言葉を切って、彼はじっと私を見つめる。


「しぃも、もう思い出してるだろう。父親がやってきたあの日のことを」

「覚えてるよ。その時に、二人は入れ替わったの?」

「違う。あの日、奴に牙を向いたのは、

「えっ?」


 心底驚いて、間の抜けた声を上げる。

 てっきり。あの日に蒼兄が人狼に変わった瞬間、あの瞬間に入れ替わったのだと。そう思っていた。


 だけど、優しいと思っていた兄の、豹変した姿。

 あの人狼こそが、私の知っている蒼兄そのもの……。


「しぃに手を出されて激高したアオヤは、俺と入れ替わらないまま人狼になり、アオヤのままで力を振るった。

 結果として。父親を半殺し状態にしてしまい、あいつのせいじゃないとはいえ、しぃにも怪我をさせ。

 あいつは、表に出てこなくなってしまった。

 それから。俺はあいつの代わりに、ずっと表にでている。人狼としても、人間としても」


 また、窓の外の青空を見つめて。

 彼は寂しそうな表情で呟く。


「アオヤからは。もうずっと応答がない。だから今の俺は、実質一人だ。

 藍の言う『安室蒼夜』と『蒼夜様』は、別人格でもなんでもない。

 人狼に切り替わった時に、

 普段は俺が『望月もちづき蒼夜あおや』だった人物のことを『安室あむろ蒼夜そうや』として演じている。

 その方が。あいつが帰ってきてくれたときに、都合がいいから」


 そこまで話すと。

 ようやく、彼は表情を緩めた。


「この前、俺を止めたときに不思議に思わなかったか。

 どうして冷酷なはずの人狼の『蒼夜様』が、しぃの血を見て止まったのかって。

 あれは別に、しぃの血を見たショックで、元の人格が主導権を取り戻した訳じゃない。

 元から。藍の言う『蒼夜様』だって、お前が傷つくことにはめっぽう弱いんだよ。だって俺たちは、元々一つだったんだから。

 アオヤがいたころは、いつも俺たちは会話をしていた。いつも俺は、アオヤを通してしぃを見ていたんだ。俺たちの大事な、妹のことを」


 私は、無意識のうちにスカート部分の裾を握りしめていた。


 苦しい。


 二つの人格が生まれた事情も。

 アオヤが姿を消した顛末も。

 一人残された、ソウヤのことも。



「だから俺は。お前の知る望月もちづき蒼夜あおやじゃないんだ。

 お前の知っているのは。徹頭徹尾まで、アオヤだった。

 俺はあいつとは違う。人狼の性質を引き継いだ、ソウヤだ」



 そう告白して、彼は口を閉ざした。

 長い長い彼の話に、どう反応していいものか分からず。

 しばらく私は悩んでから、深呼吸をする。


「話してくれて、ありがとう」


 姿勢を正して、まっすぐ彼を見つめる。


 私の知っている蒼兄が、今ここにいる彼とは別の人格だったという事実。

 それがショックじゃないかと問われれば、嘘になる。

 だけど。


「きっと。私にも、責任がある」

「何が?」

「蒼兄がいなくなったのは。私にだって、責任がある」



 私には。自信がない。

 暴走したあの日の蒼兄に、、自信がなかった。


 あの時に私が、きちんと蒼兄に向き合えていたのなら。

 結果はもう少し、違ったものになったのかもしれなかった。


 だけどもう。

 何を聞こうとしたって、何を弁解しようとしたって。

 あの日のアオヤは、姿を消してしまった。


 もしかしたら。

 記憶があやふやなのは、そこに原因があるのかもしれなかった。

 たとえ一瞬だとしても、自分が蒼兄に向けてしまった畏怖の目を、なかったことにしたかったから。


 真実は分からない。

 考えたって答えは出ない。


 だけど、私は忘れてはならないのだ。

 あの日の蒼兄のことを。

 小さな体で悩み苦しみ、姿を消した彼のことを。


 そして。

 その瞬間を逃したら、もう二度とその人と向き合えないかもしれない、可能性のことを。



「ありがとう、蒼兄。もしかしたら私は。あの時、怯えた目をあなたに向けてしまったのかもしれない。

 だけど、それでも。

 私の見たことのない蒼兄に、驚きはしたけれど。

 それでも、蒼兄のことが大好きだったよ」



 ソウヤは、困惑したように頭をかく。


「気持ちは嬉しい。だけど、俺はアオヤじゃない。俺はその言葉を受け取れない」

「だけど、元々の蒼兄の心を分けた、かたわれがあなたなら。

 あなたは、私の知ってる蒼兄でもあるんでしょう」


 アオヤとソウヤ。

 人間として生きることと、人狼として生きることとで、役割を分け合った身だけれど。完全な別人ではないはずだ。


 それに、私が彼に感じていた懐かしさは。

 まやかしなんかじゃないって、信じたい。


 アオヤも、ソウヤも。

 等しく私の幼なじみで、お兄ちゃんだ。



「だから。これからも、蒼兄って呼んでもいい?」



 彼は……蒼兄は、しばらく無言で私を見つめていたが。


「しぃの頼みなら。仕方ないな」


 やがて、困ったような表情のまま。やれやれとばかりに、そう言ってくれた。




「ところで。演じてるって言ってたけど、ソウヤの方の本性って、どれなの?」

「藍が『蒼夜様』と呼んでいる方の俺が、俺の本性だよ。

 本当は、アオヤの人格を演るのはまどろっこしくて仕方ないし。

 しぃのことは、噛みつきたくてしようがない」

「噛みつく!?」


 私の反応に、蒼兄はにやりと笑みを浮かべる。


「そうだよ。噛みつくのは、人狼の愛情表現なんだ」

「そうなの!?」

「嘘だけどね」

「嘘なの!?」


 しれっとそういう嘘混ぜるのやめて!

 びっくりする!!!


 しかし蒼兄は悪びれることなく、私の手首を掴んだ。


「いけないな、しぃ? 未来のおさの伴侶となるべき人物が、そんな言葉遣いじゃあ。脳内は自由にしててくれて構わないけど、外面は完璧に取り繕ってもらわなくちゃあ。俺みたいにね」


 はい?

 ええと、うん。


 ……何の話で?


「決めたんだ」


 きょとんとしている私をよそに。

 蒼兄はにんまりと答える。


「今回。あまりにアオヤに申し訳が立たなくて。俺は、しぃから離れるつもりでいた。

 だけど、いつかアオヤが戻ってきてくれた時には、ちゃんとしぃがあいつの隣にいられるように。やっぱり俺はしぃを手に入れることにした。

 覚悟しとけよ」


 唐突なその宣言に、流石に狼狽する。


 なんだ!?

 なんだこれ!?!?

 なにを言われてるんだ私!?!?!?


「吸血鬼の連中にも、人間にも、俺は譲らない。ようやく、しぃの隣に来ることができたんだからな。そのために、面倒な受験だってこなしたんだ」


 意味ありげな発言に、私は引っかかって尋ねる。


「まさか蒼兄、そのために浪人したの?」


 てっきり。てっきりだよ。

 もしかして私と同学年になるために、浪人までしたのか、なんて思っちゃったのだ。だって小学生の頃とはいえ、蒼兄、私より頭よかったしね。だから、まさかなーと思いつつ聞いてみたんだけど。

 返ってきたのは、予想の斜め上の回答だった。


「いや、浪人はしてない。去年までは別の大学にいたんだ。だけど、しぃがこの大学を受けるって聞いて、受け直した」


 えっと。

 えっと、ちょっと待ってくれ。

 本当に、ちょっと待ってくれ。


 マジで?

 マジでそこまでしてるんですか蒼兄???


「えっ……だけど、私だって、大学はいくつか別のとこも受けてたんだけど」

「決まってるだろ。俺も全部同じところを受けた。どこに決まっても同じ学校に行けるようにな」


 個人情報の守秘は!

 どこにいった!!!

 どこから漏洩したんだ!!!!!

 いやー、でも人狼のネットワークとか暗示の力とか、そんなイレギュラーな手段で知ったんだろうなー! 怖いなー!!!


「……なお、それ以前にはどこの大学に居たので?」

「早稲田」


 やめろよ!

 やめてくれよ!!

 どうして偏差値を!!!

 下げたの!?!?!?


「大丈夫だ。前に居たのは文学部だから、第一希望の学部を受け直したって言えば、周りへの説明はつく。

 しぃはきっと指定校推薦で文学部に来るだろうと思ってたんだけど、アテが外れたんだ」


 えぇまぁ、早稲田の一文は憧れはしましたし、実際に推薦の話もあったから悩みはしたけど。お母さんの意向もありまして、大学は実学をチョイスしたんですよね。

 いや待ってそれも読まれてたのか。こっわいな!

 選ばなかった進路をチョイスしてたとしても、先輩として蒼兄に会ってたかもしれないのか。

 こっわいな!!!


「怖い?」


 私の思考を見透かすように、蒼兄は目をのぞき込んだ。


「怖くて結構。この俺にここまで手間をかけさせたんだ。応えてくれなくちゃ困る。

 観念して俺のところに来い」


 アッこれが本性に近いキャラですかヤッダ濃いーーー!!!

 緋人くんとは違ったタイプのS様だ!

 そうだ、アレだ!!




 『俺様』が来た!!!!!




 唐突にブッ込まれた蒼夜様に動揺していると。

 拍車をかけるように、蒼兄は私の腰を引き寄せ、もう片方の手で私の顎をくいと引いた。


「名実ともに力を付けて、未来への土台を作って。準備を重ねて、十年越しにようやく会えたんだ。

 泣いても喚いても、そう簡単に逃がさないからな」







******


 その日の夜。

 私は若林くんと二人、夜道を歩いていた。


 本日はサークルの前期総会だ。前期の振り返りと後期の予定確認をして、夏休み中に実施される夏合宿の事務連絡などが行われた。


 総会の日は例年、二次会三次会とひたすら飲み会が続き、朝まで飲み明かすらしい。

 だけど私と若林くんは、二次会で抜けさせてもらっていた。

 私が貧血で倒れたことは周りにも知られていたし、若林くんも怪我をしていたので、病み上がりの私の送迎役を兼ねて早々に帰宅させてもらったのだ。

 とは言っても既に日付は変わり、もう翌日の日曜日になっているんだけれど。


 しばらく、ぽつぽつと当たり障りのないことを話していたが。

 やがて、不意に会話が途絶えた。


 二人黙って並んで歩きながら。私はあの日のこと……若林くんの秘密を知った日のことを思い出して、くすりと笑った。


 あの日は焦って、盛大にテンパってたなぁ。

 気まずさに耐えられなくて、冷や汗だらだらだったもん。


 だけど。

 今はこの沈黙が、気詰まりじゃない。



 そう、思っていると。


「聞かないの?」


 突然、若林くんがそう尋ねてきた。

 なんのことか分からず、首を傾げる。


「なにを?」

「どうして俺が、あの日に図書館に着いていったのか」


 まさに思い返していた出来事の話をふられ、のんきに「タイミングいいなぁ」と思った後で。

 藍ちゃんに言われたことと、私が彼に不本意ながらも告げてしまったことを思い出して、びくりとする。


「ごめん。そんなこと言うつもりじゃ、なかったんだけど」

「疑問に思わなかった?」


 言葉を遮られ、息を呑んだ。

 若林くんは、至って平然とした声音で続ける。


「普通なら。どう考えたって、わざわざあの日に出歩きはしない。

 そこに、狙いがないならね」



 私は足を止める。

 数歩先で彼も立ち止まり、私を振り返った。




「まだ。気付かない?」




 そう言って。

 若林くんは、怪しげな笑みを浮かべた。

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