20想定外の属性がログインした

 二時間後。

 すっかり充足しきった私は、観世能楽堂を後にするなり、呆けたように空を見上げた。


「すごかったねぇ……」


 独り言のような、語彙のない感想を口にして、私は息を吐き出す。

 室内から出たばかりなので、明るさに慣れず目がちかちかする。梅雨の晴れ間である本日は、白い雲の隙間から、一足早い夏を感じさせる強い日差しが降り注いでいた。

 その気候も相まって、たまらない爽快感を覚え、私は大きく深呼吸する。



 生まれて初めての能楽鑑賞は、想像していたよりも、ずっと楽しむことが出来た。

 三方から観客が見守る厳かな舞台。

 笛や鼓で紡がれる、幻想的な音楽。

 静謐な空気を切り裂くように、いや、縫うように響いたうたいも、それらに合わせて繰り広げられた美しい舞も、全部が新鮮で、たまらなく心地よかった。

 きちんと理解できたかといわれたら、自信はないけど。


 敷居の高い印象があって構えていたけど、来てよかったなあ。

 舞台を観るのは、元から結構好きなのだ。せっかく東京住まいなんだし、大学生の間に色々な舞台を観てまわるのもいいかもしれない。


 そんなところまで思考が飛躍していると。隣に並ぶ安室くんは、楽しげに笑う。


「いやあ。すごいね望月さん、最後まで観られたね」

「最後までって?」

「結構、途中で寝るやつが多いんだよ。ずっと真剣に観てたから、すごいなって」

「だってせっかくの舞台だし。勿体ないでしょ」

「サークル員だって、寝る時は寝るよ」

「そうなの!?」

「寝る寝る。疲れてる時はてきめんだぞ。絶対アルファ波が出てるって皆で言ってる」

「あ、それは分かる気がする。すっごい癒やされるというか、落ち着くよね」


 あの舞台にはヒーリング効果がありそうな気がする。視覚も聴覚も、なんならほんのり漂う着物の香りで嗅覚まで刺激されるので、好きな人には本当たまらないんじゃないだろうか。

 だけどあの厳かな空間で居眠りとか、背徳感が凄いな。逆に私は無理だな……。


「事前にもう少し解説できたらよかったんだけど。内容は理解できた?」

「うん。本を貸してもらったし、大雑把には。古典はそこそこ出来る方だったから」


 会場では、安室くんから謡本うたいぼんと呼ばれる和綴じの冊子を貸してもらっていた。いわゆる台本らしい。聞くだけでは厳しかっただろうが、この文字情報があったので、どうにか話についていけたのだ。

 中は筆文字の古い書体で書かれていて、読めない部分もあった。だけど数ヶ月前までは受験勉強で古文には散々触れていたので、概要なら分かる。


「これって、あれでしょ。羽衣伝説を元にした話だよね」


 話の内容は、うっすらと聞き覚えがあった。

 下界に降りた天女が水浴びしていた時。その姿を目撃した男が、天女が天界へ帰れないように羽衣を隠してしまう、という話だ。


「そうだよ。ただし能だと、少し話が違ってるんだ。

 伝承だと、男が羽衣を隠してしまったために、天女は天に帰ることが出来ず男の妻になる。しばらく後になってから羽衣を見つけて、天女は男を置いて天に帰るんだ。

 だけど能では、男はすぐに羽衣を天女に返している」

「そうだったね」


 私は舞台を思い出しながら頷いた。

 先ほどの舞台では、男から羽衣を返された天女が、それをまとって舞っていたのだ。


「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」


 人前なので控えめではあったが。安室くんは少しだけ、能みたいな調子で、凛と声を張った。


「男は、舞を見せてもらう代わりに羽衣を返すと言うけど。羽衣を返したら舞を見せずに帰ってしまうのではないか、と疑って、やっぱり返すことを拒んだ。

 だけど天女は『疑いは人間にのみ存在する。天界に、天女の言葉に偽りはない』と答えた。その言葉を聞いて恥じた男は、天女に羽衣を返す。そして約束どおりに天女は、美しい舞を男に披露して、天界へ帰っていくんだ」


 よかった、解釈は間違ってなかった。

 全然、見当違いだったらどうしようかと思った。


「最後の最後の舞の部分が、この前に俺がやっていたところだよ」

「全体を知ると、意味が理解できていいね。これを知った上で、改めてまた安室くんの舞を見てみたいなあ」

「見にきなよ。水曜と土曜が稽古の日なんだ。空いてる時間は大抵、和室にいるからさ」


 朗らかに言ってから、安室くんは期待に満ちた眼差しで私の顔を覗き込む。


「そうやって楽しめてるところをみると。望月さん、向いてると思うんだけどな。

 もし謡や仕舞に抵抗があるなら、観劇だけ参加する人もいるしさ。あとは希望すれば、面を彫ったり、小鼓を習ってる人もいる」

「えっなにそれ面白そう」

「多分、望月さんなら馴染めると思うよ。どう? 能研、入らない?」

「うーん。……そそられるものは、あるんだけど」


 これが四月だったら、私はきっとサークルに入っていた。

 だけど今は状況が違う。掛け持ちが大変そうというだけでなく、やることも考えることも沢山あった。

 サークルに入ったら、若林くんに血をあげることにも、環と過ごすことにも、ますます時間を割けなくなってしまう。現時点でも折り合いを付けるのが難しいのに、上手く出来るとは到底思えない。

 それを除いたとしても。人狼に狙われている懸念がある今、このタイミングで別のサークルに入ると言ったら、緋人くんは決していい顔をしないだろう。




 私は、何気ない素振りで背後を窺った。

 私たち二人の後方には、怪しい挙動の三人組がいる。


 さすがに能楽堂の中まで着いてくることはなかった。けれど外に出るなり、またどこからともなくやって来て、私たちに着いてきている。公演時間を伝えていたので、頃合いを見て張り込んでいたのだろう。

 若林くんたちが警戒する気持ちは分かるけど、本当、環はどうしてそこにいるの。

 環は二人と敵対してたんじゃなかったの……?


 という気持ちもあったが。


 それ以上にとりあえず私は、初めて見る男の格好の環に全力でつっこみたいと共に、その姿でも相変わらず麗しいその立ち姿に惜しみない拍手を送りたくてしようがなかった。


 変装?

 変装のつもりなの??

 残念ながら男の格好でも環だってことはすぐ分かったわ親友なめんな!!!


 そして細ッ!

 環さん細ッ!!!

 あと超白ッ!!!!!


 どこのモデルですか……?

 いつか某レア4太刀の白い人のコスプレしない……?


 環と共に控える若林くんと緋人くんは、変装こそしていなかったが、顔は見えないよう、帽子やマスクを着用している。

 うん。花粉も概ね落ち着いた六月だと、まあまあ変装だな。


 しかし、あれだ。顔が見えないのが残念だけれども。


 この三人が並んで歩いているのは、あれだな?

 ギムナジウムの仲良し(?)三人組が、休日に外出許可を得て街を散策しているみたいで、とってもよろしいな??

 何故その姿を私の目の前で堂々と見せてくれないのかな???

 いや実際に正面からガン見したら、緋人くんに笑顔で目潰しされる未来しか見えないけれども!!!!!




 三人のせいで私のテンションは静かに急上昇中だったが、私は密かに自分の手に爪を立てて堪えた。安室くんに気付かれたら何事かと思われてしまう。


 私は視線と思考を元に戻す。

 いずれにせよ、あの三人のことを考えると。私は、サークルに入るわけにはいかない。


「ごめん。ちょっと、現状だと難しいかな」


 両手を合わせて断った。

 安室くんは、気にしてない、という風に、ひらひらと手を振る。


「いいんだ。観に来てくれただけでありがたいから。事情はあるだろうから、無理にとは言わない」

「ごめんね。せっかく連れてきてもらったのに」

「いいって、連れてきたのは俺の方だから。単純に俺が、来て欲しかっただけなんさ」


 申し訳なく思っていたのに、またしても挿入された郷里の語尾に、にやりと笑ってしまう。

 そして同時に改めて感心する。彼のそれには、取って付けたようなわざとらしさがないのだ。練習でもしたんだろうか。


「ねえ。群馬弁って随分ニッチなチョイスだよね。私が群馬だから?」

「それは」

「うちの言葉って、他県の人には差別化しずらそうだけど、安室くん上手いよね。もしかして練習もした?」

「練習なんて、してないよ」


 問われて、不意に安室くんは真顔になって視線をそらすと。

 地面を見つめながら、ぼそりと打ち明ける。


「俺も昔は。群馬に住んでたんだ」

「えっ、そうなんだ!? どこに住んでたの?」

「前橋だよ」

「本当に? 私もだよ。なんだ、そうなんだー! もしかしたら、どこかで会ってたかもしれないね」


 思いがけないところで同郷の人を見つけて、私ははしゃいだ声をあげた。

 が。


「さすがにそろそろ、堪えるな」


 対照的に安室くんは、いつもより更に低いトーンで唸るように呟いた。

 何かまずいことを言ってしまったかと、私は焦って口をつぐむ。調子に乗りすぎただろうか。どうしよう。


 しばらく無言で歩いたが。

 やがて安室くんは顔を上げると、不意に立ち止まった。


「別に俺は。性癖に寄せようと思って、メガネや方言を出したわけじゃないんだ」

「え?」


 合わせて立ち止まった私は、首を傾げて安室くんを見上げた。

 その視線をまっすぐ捉え、彼は私をじっと見つめる。



「ねぇ。本当に、忘れちゃったの? 

「え?」



 その呼び名に、何故かどきりとする。


 あれ。

 おかしいな。



 既視感が、ある。



「しょうがないけどね。十年以上前だし、俺も随分変わったからさ」

「待って。それって、どういう」

「昔は、結婚まで誓った仲だったっていうのに」

「へあッ!?」


 とんでもないことを言われ。

 とんでもなく、間抜けな声を上げてしまった。



 だって。

 だって、そんな人は。






 私がかつて、恋をした相手は。

 二度と会えないはずだったその人は。


 この世に、たった一人しかいないはずなのに。






 ……まさ、か。



「もしかして……あ」

「ごめん、積もる話は後にしようか」


 口を塞いで私の言葉を遮ると、安室くんはにやりと笑い。意味ありげに、口へ人指し指を立ててみせる。


「まずは。そろそろあいつらを迎えてやろうか。今日、ヒールじゃないよね?」

「え? あ、うん。平らなやつだから大丈夫」

「じゃ。ちょっと走るよ」


 そう言うなり。安室くんは私の手首を掴んで、にわかに走り出した。

 人通りの少ない裏道だったので、通行人に邪魔されることなく、私たちは難なくアスファルトの道を駆け抜ける。

 背後からは、慌てたようすで私たちを追う複数の足音が聞こえた。


 ただ、手を引かれて走っているという、それだけなのに。

 無性に懐かしい気持ちがこみ上げてきて、不思議に胸が高鳴った。


 しばらく走り続けてから、やがて更に細い路地に駆け込む。角を曲がり切ったところで、私たちは走り出した時と同じくらい急に足を止め、来た方を振り返った。

 そしてすぐ、追いかけてきた若林くんたち三人と、鉢合わせる。


 まさか、私たちが立ち止まっているとは思わなかったのだろう。真正面で待ち構えていた私たちに三人は仰天し、勢い余ってその場で尻もちをつく。

 倒れた三人を笑って迎え、安室くんは一歩、前に進み出た。


「やあ。こんなところで奇遇だね、三人とも。みんなで仲良く銀座観光?

 それとも」


 安室くんは、握った私の手を軽く差し上げた。



に、何か用事かな?」



 やっぱり。

 すっかり様変わりしてしまったけれど。きっと、この人は。



 半信半疑ながらに。

 私は今度こそ、その名を告げる。



「……あお兄?」

「やっと思い出してくれた?」



 優しい笑みで、安室くんは私を振り返った。

 けれど私は、動揺したままに上ずった声をあげる。


「でも。だけど、名前」

「しぃちゃんは小さかったから、俺の名前の漢字までは覚えてなかったもんね。分からなくても仕方ない」


 地面に座り込んだまま、若林くんが困惑して尋ねる。


「待て。何がどういうことだよ?」

「そのままの意味だよ若林」


 三人に向き直り、安室くんは――彼は、宣言するように、高らかに言う。




「俺の昔の名前は、望月蒼夜あおや。望月白香の、元だ」




 そう言って。

 安室あむろ蒼夜そうやだったはずの彼は、懐かしすぎる面影を湛えたその顔で、不敵な笑みを浮かべた。

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