5章:瀬谷藍は男装の麗人である

22王子様スキルのあれ

『やめて! あお兄のこと、いじめないで!』


 両手を広げて、立ちふさがる。


 見知らぬ、凶暴な男が。

 自分より遙かに大きくて、とてもかないっこないと一目で分かる、恐ろしい相手が。

 初めて気付いたみたいに、私を見る。



 本当は、怖い。

 とてつもなく、怖い。

 今すぐ、逃げ出してしまいたかった。


 だけど。

 あお兄がいじめられるのは、もっと怖かった。




『お前は関係ねぇだろ』


 睨まれ、足がすくむ。


『関係あるもん! お兄ちゃんだもん!』

『このクソガキが、お兄ちゃんね』


 せせら笑うように言って。

 男は、私と目線を合わせるように座り込んだ。


『勘違いしてるかもしれねぇが。俺はヒガイシャなんだ』


 男の言う言葉の意味が、当時の私には分からない。

 きょとんとした顔をした私に、男はかみ砕くように言う。


『俺は嘘をつかれたんだよ、こいつらに。

 この、****に』

『ちがうもん!』


 その言葉に、私は激高した。

 だけど、何と言われたのかは、思い出すことができない。


 この人に殴られれば、私はひとたまりもない。

 壁の方まで吹き飛ばされてしまうだろう。

 それでも。



 自分の大切な人が傷ついてしまうことは。

 それよりも、ずっとずっと嫌だった。



 深呼吸をして。私は少しでも高く見せようと、精一杯に姿勢を伸ばし、腕に力を込める。




『あお兄は、あたしが守る』




******




 昔の夢を見た。

 はあ、と声をあげて息を吐き出す。夢だというのに、妙に緊張していた。手には汗が滲んでいる。


 蒼兄がいなくなる、直前の出来事の夢だった。

 そのことは覚えている。

 ただ、肝心なことを忘れているような気がして。私は眉を寄せる。


 だけど、不意に別の思考に支配されて、すぐに夢のことを忘れた。寝転がったまま、うつろだった視線を天井に合わせる。


 いつもの天井。

 いつものベッド。

 いつもの、私の住んでいる部屋の中である。


 けれど妙な違和感があって。私は怪訝にしばらく天井を眺めていた。

 すると。


「おはよう、白香ちゃん」


 キッチンの方から、爽やかなハスキーボイスが響いた。

 ひょこりと顔を見せたのは、つい数日前に同じサークル員になった、瀬谷せやあいちゃんである。


 今日の彼女は、だぼっとしたコットンの白シャツにジーンズという、ラフな恰好であった。サークルの時に見たノーブルな佇まいも最高だったけど、こういう隙のある姿も大変にすばらしい。ぱっと見は本当に、見目麗しいただの美青年である。


 あー格好いい……。

 朝からいいもん見た……。

 よだれ出そうだわー……。


 って、ちょっと待て。






 なんで藍ちゃんが私の家にいるの?






 えっ?

 なにが起きてるの???


 前の日に藍ちゃんと遊んだんだっけ?

 いやそれにしても朝までいるとかそんなはずは、



 朝チュン……?



 いやいやいや服着てるし! ちゃんとパジャマだ……。

 し……?


 ……なにこの超絶フリルの、めたくそ可愛いパジャマ。

 白いふりっふりのファサアッとした素材のやつだ……。

 ロミジュリのジュリエットとか、二次元とか舞台に出てくるお人が着てそうなやつだ……。


 つぅかこれ、あれだ……パジャマじゃなくネグリジェだ……。

 うわぁ初めて見た……。

 ていうか着た……着てる……。


 私……。

 知らん……。


 なんぞこれ……。



「はいぃっ!?」



 飲み込めない今の状況に、思考回路が異常をきたして、素っ頓狂な声を上げ体を起こす。そのまま布団をはねのけようとするが、


「あ、駄目だよ。そのままそのまま」


 やってきた藍ちゃんに制止され、ベッドに押し留められた。私は上半身だけ起こした状態で、困惑したまま藍ちゃんを見つめる。

 藍ちゃんはすぐ私の隣、ベッドの端に座り、顔をのぞき込んだ。


「疲れてるんだから休まないとね。今日はゆっくり寝てるといいよ」


 そうは言われても。

 なにがどう疲れているのかすら、さっぱり分からない。


 そして指摘されて気付いたが、言われたとおり私は全身に倦怠感が滲んでいた。体がずしりと重い。

 待って。本当になにがあったの。



「あの、ですね、藍ちゃん」

「なぁに?」

「ええと。この状況が、まったくもって一切合切つかめないんですけれども。何故、藍ちゃんが我が家に」



 なにがどう……。

 ナニが……。



 ……まさか。



 待ってください。

 ナニかがどうにかしたんですか。


 ちょっと。

 私、記憶ないんですけど。


 私は一体なんてことをしたんだ!?

 いやむしろ私がされたのか!?

 どっちなんだ!? ホワッツ!?!?!?



 一人でおたおたしていたら、その慌てぶりを見て藍ちゃんはくすりと笑う。


「心配しなくていいよ。ボクは君に一切、手出しはしてないから。ボクも君も健全な関係のままだよ。

 まだね」


 その怪しい発言、今この状況でやめてー!

 盛大に戸惑うぅー!!!


「覚えてないの?」

「覚えてない」

「そっか。そうだよね。あんなことがあった後だ」


 どこか沈んだ表情になり、藍ちゃんは視線をそらした。


 あんなこと、と言われても、本気でさっぱり身に覚えがない。

 何。私、なにしたの!? 怖いよ!!!


「あんなこと、って?」


 怖々と尋ねると。

 藍ちゃんは悲痛な表情のまま顔を上げて、いたわるように私の頬に手を当てた。






「吸血鬼の奴らに襲われたんだ。

 記憶も飛んでしまうくらいまで、尋常じゃない量の血を吸われてね」






「は?」


 思いもしなかった答えに、間抜けな声を漏らす。



 今。

 吸血鬼って、言った?



 私が情報を処理しきれずにいるのに構わず、藍ちゃんは続ける。


「安室くんが君のお兄さんだと露見して。せっかく懐かせたのに、君が離れていくんじゃないかと焦ったあいつらが、君を無理矢理、眷属にしようとしたんだよ。

 気付いた安室くんが、途中で阻止して事なきを得たけど。気を失った君を家に運ぶのに、男一人で行くのもどうかってことで、介抱役で私が呼ばれたんだ。私の家もこの近所だから」


 何を言っているのかが、さっぱり飲み込めず。

 けれども混乱したままに、私は藍ちゃんのシャツの裾を掴んだ。


「待って。それってつまり」


 からからに乾いた口で、私は藍ちゃんの目をのぞき込む。



「若林くんと緋人くんが、私を襲ったって、言ってる?」



 私の視線には動じず、藍ちゃんは淀みなく答える。


「そのとおりだ」

「藍ちゃん。きっとそれ、何かの間違いだよ」


 身を乗り出し、私は彼女の両腕を掴んだ。


「二人はそんなことしない。するわけがない」

「じゃあ君は、お兄さんの話を疑うの?」

「それは」


 蒼兄が、私にそんな嘘は吐かない。

 だけど。

 あの二人だって、そんなこと、しない。



「きっと、何かの間違いなんだよ。何かがこう、誤解するような状況で。それで蒼兄は、そんなことを」


 必死に、論理性も何もない願望を言い募ろうとしたところで。

 私は、はたと気付いた。


 気付いてしまった。




「藍ちゃん。どうして吸血鬼のこと知ってるの?」




 その指摘に。

 彼女はやはり動じることなく、微笑みすら浮かべて首を傾げてみせた。


「あれ。割と早く気が付いたね。動揺しているからもう少し時間がかかると思った」


 力が抜け、滑り落ちそうになった私の手を、今度は逆に藍ちゃんがつかみ。私の右手を握って、軽く手の甲に口付けた。




「ボクは、の仲間だからさ」




 その告白に。

 私は完全にフリーズした。


 もちろん、藍ちゃんの話す中身そのものにも驚いたのだけれど。



 今のその仕草、要る?

 手の甲にちゅーするの、要る???


 なんで?

 ねえなんでこの状況でそれやった???



 二重に混乱して固まる私を、藍ちゃんは至近距離でのぞき込んだ。


「どうしたの、変な顔をして」

「いや、随分と、そう、あっさり明かしたなと思ったもので……」

「そりゃあそうだよ。ボクの手の内を見せなければ。白香ちゃんに信頼してはもらえないからね」


 そう告げると、またもや藍ちゃんは手の甲にちゅーをする。



 だから!

 それ!!

 要る!?!?!?


 王子様キャラだから!?

 王子様キャラだからなの!?!?

 そういう呪いにかけられているの!?!?!?



 脳内で絶叫していると。

 藍ちゃんは妖艶な笑みを浮かべてみせる。


「ボクはね。あいつを排除するために来たんだ。

 だから君の身の回りに起きたことは全て把握している。

 図書館の帰りにあいつの正体が露見したことも、エスカレーターで襲われたことも、今は君が全面的に協力をしていることもね」


 その台詞に、我に返った。

 同時に、ぞくりと鳥肌が立つ。


 ほとんど回答は分かりきっていながら。

 私は、尋ねずにはいられなかった。


「あいつ、って」

「若林紅太だよ。あの忌まわしい吸血鬼のことだ」


 思わず私は、否定の言葉を叫ぼうとするが。


「ねぇ、白香ちゃん」


 藍ちゃんは私の唇に人差し指を当て、言葉を塞ぐ。



「最初から、全部仕組まれているとは思わなかった?

 若林紅太が、はなから君というエサを手に入れるためにしたことだとは、考えなかった?」


「え?」


「満月の夜には、理性が飛んで血が欲しくなる。

 確かに厄介な性質だろう。けど、満月が来る日なんて、月に一度きりだ。頻繁じゃない。そんな程度、避けようと思ったらいくらでも避けられる。

 なのに若林はその日、事情を知ってる奥村を置いて、

 人にバレるのを警戒しているなら、そんな軽率な真似はしないはずだ。

 疑うなって方が難しいんじゃないのかな」



 畳みかけるように告げられた言葉に。

 しかし私は、私こそ何かの呪いにかけられたみたいに、言葉が出てこなかった。


 若林くんを疑ったことは、ない。

 けれど。


 藍ちゃんの指摘は、まっとうなものだ。


 あの日。図書館に若林くんが着いてきたのは、偶然だと思っていた。

 私の側からしたら、確かにそれは偶然だ。

 けれども、若林くんの側から見れば。

 私に着いてきたのは、


 この日は満月。それは分かり切っている。

 本当に危ういと思えば、誰かと二人になることも、夜道を歩くことも、サークルをサボって人前に出ることすら避けられたはずなのだ。

 むしろあの状況を積極的に作り出したのは、若林くんの方だった。


 人に露見することを、本当に恐れていたのだとすれば。

 本の返却日を、理性が飛ぶリスクより優先するとは思えない。



「そろそろ気付きなよ、子猫ちゃん。

 あいつらは、実に計画的に、君を被血者として取り込んだんだ」

「待って。だったら、緋人くんは、私を突き落としたりなんかしないよ。最初にあんな行動とったら、相手は逃げちゃうと思うでしょ」

「それすら、仕組んだことだとしたら?」


 にいっと形のいい唇を藍ちゃんは引き結んだ。


「奥村は過激だね。見境がない。だけど。普通に考えて、一介の大学生がそんなことするかい? あまりにリスクが大きいじゃないか。

 その場に若林がいたことだって、あまりに都合が良すぎる」


「……都合が良すぎる?」


「あいつは。奥村に、危険が迫った君を助けてみせることで、君の信頼を勝ち取ったんだ。

 これから先も、永続的に君の血を摂取するために。

 結果として今は、二人に血を与えているようだけれども。元々の奴らの目的としては、奥村を拒否したとしても、若林の側にさえいてくれればよかったんだから」



 違う。

 違う、そんなことはしない。

 若林くんは、二人は、そんなことはしない!



 けれども。

 彼女の言うことは、理屈が通っていた。


 二人に抱く私の感情を、冷酷に除いてしまいさえすれば。


 偶然、あの場に居合わせたというよりは。

 仕組まれていたという方が、よっぽどあり得る話だった。



「可哀想に。可愛い可愛い子猫ちゃん。

 優しすぎる君は、どうしてもそれが受け入れられないんだね。

 これを告げるのは、大変心苦しいけれども。君のためだ、どうか許して欲しい」



 呆然とする私の手の甲を撫で、慈しむような口調でそう言いおくと。

 藍ちゃんは、はっきりと告げる。




「若林紅太は。

 君のことを、

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