33安室蒼夜は動きを止める

 二人の方へ走りながら、舞台の上の若林くんを見た時。

 若林くんの頬から滲む血の跡を見て、ダメかもしれない、と思った。


 だけど、若林くんから視線を蒼兄に移して。

 私の目論見は、どうにか成功したのだと気付く。



「しぃ」



 蒼兄は、まるで、うわごとのように呟く。



 そして。

 蒼兄は、小さくうめき声を上げて、口元を手で覆い、床に膝を着いた。



 それを確認し、私は、密かに拳を握る。






 安室蒼夜は、


 小さい頃の彼は、暗闇よりも、お化けよりも、ピーマンよりも、何よりも、血を恐れていた。

 少しでも血が滲むのを目にすれば、怪我よりも体調不良で滅入ってしまう。ただの予防接種は平気だったが、採血の時は一度、そのまま卒倒してしまったらしい。


 とりわけ私が血を流すことに対しての反応は、度が過ぎるほどだった。

 いつか私が転んで血が出た時なんかは、彼の方が吐き戻してしまった。怪我をした当事者の私より、蒼兄の方がよっぽど病人になってしまったのだ。




 十年前。

 父親だった人物を半殺しにしていた蒼兄を止めたのは、図らずも私の流した血だった。


 蒼兄の父親に突き飛ばされた私は、勢いよく壁に叩きつけられた。

 そこに運悪く……いや。

 出ていた釘で切ってしまい、頭から出血した。



 それで、蒼兄は正気に戻り。

 蒼兄の父親は、半殺しでのだ。



 爪と牙とで酷い有様になってはいたけど、意識はあった。だけどこれ以上、蒼兄の凶行が続いていたらどうなっていたかは、考えたくない。


 あの一件は、幼い私にとって、色々な意味で衝撃の強すぎる出来事だった。そのせいなのだろう。私はほとんどその後のことを覚えていなかった。

 まして、表向きは一連の出来事がどういう風に処理されたのか、なんてことは、知らない。



 あの時は、何故、優しかった蒼兄が急に豹変してしまったのか、理解ができず。記憶にすら、固くふたをしてしまったけれど。

 今なら分かる。

 あのときの蒼兄は、私の知っている『安室あむろ蒼夜あおや』ではなく。

 もう一つの彼の人格であるという、人狼の『蒼夜』だったのだろう。




 ともあれ。

 私は、今回もその可能性に賭けることにしたのだ。


 蒼兄の苦手な血を、私が大量に流しているところを目の当たりにすれば。

 仰天して、あの時みたいに凶行に及んでいる蒼夜も、引っ込むかもしれないって。

 若林くんに向いた凶刃を、下げてくれるんじゃないかって。



 だからさっき、緋人くんにお願いして、私の額を切って血を流してもらったのだ。

 額なら浅い傷でも血が出やすいし、何よりも分かりやすい。

 それに、十年前に私が負った傷も、頭だ。まるきり前と同様、頭部に傷を作ることも考えたけど、髪に血が付いてべたべたするのは面倒だなと思ったので、額にした。そこは誤差だよね、誤差。




 とはいえ、これはほとんど賭けだった。

 あれから十年以上経っている。子どもの頃の苦手が、今もそのまま苦手とは限らないし、克服している可能性だって十分ありえた。

 だけど、人狼になった蒼兄を止める方法は、他に思いつかなかったのだ。


 それに。

 十年前に、手のつけようがないくらい『蒼夜』が暴れた時でもなお、蒼兄は戻ってきてくれた。

 人狼の彼を止めたのが、私の血なら。

 今回も、止められるかもしれないって、思ったんだ。



 蒼兄の弱点につけこむような手段を使うことは、はばかられたけど。

 本当に蒼兄がいなくなってしまうよりは、ずっとずっと、いいと思えたから。




 息を切らしながら、低い階段を一段飛ばしで舞台に上がる。

 若林くんと、蒼兄と。

 どちらに駆け寄ろうか、悩んで。

 結局、二人のちょうど中間で、へたり込んだ。



「よかったぁ」



 止まった。

 今回も、蒼兄は、止まってくれた。


 蒼兄は私と同じように、舞台の端で座り込んでいる。こちらを見て、何かを言いたそうにしていたが、まだ口を押さえたままだ。

 ほっとして、間抜けに私は笑った。




 なんだか、くらくらする。

 安心したからだろうか。急に、身体の力が抜けてしまった。妙に全身がだるい。手足がひんやりしている。


 額に垂れた汗を拭うと。

 腕が真っ赤に染まって、びっくりした。


 あ、そうだ。

 これ汗じゃないや。血だった。


 うーん、結構、出たなぁ。


 ホントなんでこの服着て来ちゃったんだろ。藍ちゃんに言えばどうにかしてくれるかなぁ。家事スキル高いからシミもどうにかしてくれるかもしれ、ああそういえば環は大丈夫かな、藍ちゃんから今頃はもう円佳さんの話を聞いてるかもしれないけど心配だなどうしてるんだろうか、心配なら緋人くんもだ、痛くないって言ってたけど本当なんだろうか、だってあの特技は緋人くんのだから若林くんは、



「ばか!」



 突然。

 耳元で大きな声がして、びくりと肩が跳ねる。

 ゆるゆると振り返ると。すぐそこに、怖い顔をした若林くんがいた。


 あれ?

 おかしいな。もうちょっと、離れてたはずなのに。


 気が付けば。

 私は、若林くんの腕の中にいた。


 蒸していたはずなのに、何故か今は少し肌寒いので、彼の体温が、とても心地いい。



「なにしてるの」



 固い声で問われた。


 言われて我に返れば、確かに今の私は、端から見たら全身が血塗れの不審者である。

 蒼兄は私の意図を察しているかもしれないけど、事情を知らない若林くんからしたら、何事かと思うだろう。怪しいこと極まりない。


「あのね、これには深い事情があるんだけど。

 えーっと、一言で言いますと。蒼兄を止めるために、やったわけでして。決して、その辺の性癖に鼻血を出したわけでは」

「だからって。やり方があるだろ」


 呂律の回らない私の言い訳を遮ると、若林くんは私の頭を引き寄せ、額に口を付けた。

 これまでにも何度か感じたことのある、生温かい感触が額に伝って。けれど今日は、こそばゆさよりも、安堵が先に立ち、思わず目を閉じる。

 うっとおしく顔に垂れ流れていた血が、止まった。


 無事に止血が終わったので、若林くんは顔を上げた。だけど、身体はまだ解放してくれない。

 若林くんは、私の身体を支えるように抱きとめたままで言う。


「もし。俺が、倒れてたら、どうするつもりだったんだよ」

「それは、考えないようにしてたけど。きっとまあ死にはしないだろうし、なんとかなるかなーって」

「ばか」


 もう一度言われた。

 さっきまで血が流れていた場所、塞がった傷口を、そっと親指でさする。


「そこまで身体を張るなよ。なりふり構えよ。自分のことも、考えろよ。

 ……君は、こんな人外の諍いに、わざわざ巻き込まれなくていいはずの人間だろ」


 ぐうの音も出ません。

 さっきも自覚したところだけれど。どこまでも私は、彼らの問題には部外者なのだ。若林くんにしてみれば、首を突っ込まれる筋合いなんて、さらさらないのかもしれない。

 だけど。


「少なくとも今回、蒼兄が暴走した原因には私も絡んでるもん。その誤解を解くくらいの、首を突っ込む余地はあるでしょう?」


 それに。

 御託はともかく、なによりも。


「私が、嫌だったんだもん。

 蒼兄も、若林くんも、どうにかなっちゃうのは、嫌だ。いなくなっちゃうのは嫌だ。

 これくらいで止められるなら、安いもんだよ」

「……ばか」


 三度目を言われてから。


「いや、違う。違うんだ、そうじゃない」


 若林くんはゆるりと首を振る。


「言いたいことは、そりゃ、色々あるけど……今は、そうじゃないんだ」


 半分、独り言のように呟いてから。

 目の脇に伝った血の跡を、指で拭った。




「来てくれて、ありがとう」




 その言葉に。

 自然と、笑みが溢れてしまった。




 よかった。

 私は、邪魔じゃなかった。

 私は、きっと、完全な部外者じゃなかった。




 ばかみたいな話。

 その言葉に、まるで、救われたみたいな気がして。


 若林くんに寄りかかって、そのまま目を閉じた。

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