*若林紅太は驚愕する
殺すことは、本意ではない。
それが相手にも見抜かれている点で、既に俺は徹底的に不利だった。
対して相手は、完全に俺を殺しに来ているので、戦況はお察しだ。
顔をしかめて、安室の爪がかすって出来た、頬の切り傷の血を拭う。
こっちも躊躇せずに行った方がよほども楽なのは確かだ。
だけどこれ以上、自分の手を血で汚したくはなかったし。
こいつのせいで、人間社会で犯罪者になるのは御免だったし。
何より。
あの子の大事な人を、俺のこの手で屠ることは、決して、絶対、したくなかった。
それは、単純な優しさなんかじゃない。
その後に俺に向けられるだろう彼女の視線に、耐えられると思えないから。
きっと、それでも俺を責めきることのできない、本当に優しい彼女の視線に、きっと俺は焼け死んでしまうだろうから。
だからこれは、なんてことはない、俺のエゴだ。
話をできればと思ったが、そんな甘い期待は即座に露と消えた。
向こうに会話する気はさらさらない。話が通じない相手にあがいたところで、仕方ない。
かといって、負けてやる気は一切なかった。
穏便には終わらないだろうが、安室を昏倒させてこの場をしのげれば御の字だろう。
だけど、そうしたら。
また俺は、ここから姿を消さないといけない。
……やだなぁ。
ようやく、居場所が出来始めていたのに。
せっかく、彼女に、会えたのに。
真顔で安室の蹴りをかわしながら、そんなことを考えていると。
唐突に、舞台に照明が灯った。
闇に慣れた目が、眩む。
咄嗟に背後へ飛びすさって、安室から距離を取った。
だが、数秒後に正気に戻った目で確認すれば、相手の反応も同じだったようだ。
奴の仕業じゃ、ない。
何が、起きた?
入り口は緋人が張っている。人は入ってこない筈だ。
とすると。考えたくはないが、緋人がやられたか。
あるいは俺たちのマークしていないところから入り込んだか。
いずれにせよ、あまり嬉しくない展開だ。
そう、思案していると。
薄暗い客席を、こちらに向けて駆けてくる人影が見えた。
「若林くん!」
その声に。
心臓が、跳ねる。
間違えようのない。
あの子の、声だ。
予想外の、展開に。
予想外の、人物に。
慣れた筈なのに。
また、目が眩んでしまったかと思った。
来ないことを、願っていた。
だってあまりにも危険だし、巻き込むわけにはいかない。
だから桜間に頼んだんだし、万一に備えて緋人にあんなことまでしたんだから。
それでも。
それを潜り抜けて、あの子はここに来てくれた。
そして。
俺の、名前を、呼んでくれた。
たとえ、安室のおまけなのだとしても。
彼女は、僕の、名前を。
僕の名前を、呼んでくれた。
バカな話かもしれないけど。
その一言。
その、一言で。
僕は、全部、救われた気がしたんだ。
僕は、心のどこかで、ずっと。
こうなることを祈っていたのかもしれない。
ずっと、ずっと。
何年も前から。
真っ暗闇の僕の世界から。
血に塗れた僕のことを。
それこそ今、舞台の闇を切り裂いた光のように。
手を差し伸べてくれる、ことを。
だけど。
これは、困った。
これ以上、関わるまいと思ったのに。
これじゃあ。
覚悟が、出来てしまうじゃないか。
とはいえ。
僕が動揺している一方、それをさておいて、別の意味で看過できないことが起きていることには、すぐ気が付いた。
「望月、さ……」
流石に動揺して、声が続かず、掠れて消える。
彼女の服は、夕方に見たものと違う。けれども同じように、全体が白系統のワンピース、の筈だ。
だけど、その服は。
上半身が不自然に赤く染まっている。
彼女の、額からは。
頭から、顔、そして胸にかけて。
大量の、血が流れ落ちていた。
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