27相反する2つの存在
思わず、ほとんど無意識のうちに、彼女の方へ手が伸びる。
「藍、ちゃん」
部屋の中で小さく響いた、そのかすれた声に驚いた。
私の、声だ。
久方ぶりに、自分の意志で、声が出た。
「あれ? おかしいなあ、どうして」
私の声を聞いて、驚いたように顔を向けてから。
しかし思い至ったように、遅れて彼女は頭を振った。
「何もおかしくなんかないや。ボクがこんな状態だもの、継続できるはずなんかない」
滴の伝う自分の頬に触れて、泣き笑いのように藍ちゃんは表情を歪めた。
どうやら。藍ちゃんの反応からして、前のように、意図して一時的に声を出せるようにしている訳ではないらしかった。
彼女が私にかけた、言葉を喋れないようにする術は、既に解けているらしい。多分それは、藍ちゃんの今の精神状態が由来しているのだろう。
もしかすると他の制限も解かれているのかもしれない。とはいえ物理的に拘束されてるから、すぐさま逃げることはできないんだけど。
それに。
私はそっと藍ちゃんの背中に手をかけて、おずおずとさすった。
聞きたいことは山のようにある。
反抗することだって、できたはずだった。
けれども、一番最初に口をついて出てきた言葉は。
至極、シンプルな問いかけだった。
「どうして泣いてるの?」
「ボクが知りたいんだけどなぁ」
苦笑してから、藍ちゃんはもう一度「おかしいな」と言って、首を傾げる。
「ボクは。ようやくボクの悲願に王手をかけられたと、そう思っていたのに」
「藍ちゃんの悲願って、なんなの? その悲願っていうのは。もしかして、若林くんを」
殺すこと。
これまでの状況からそれは分かり切っていたのに、口に出すこと自体が、恐ろしくて。私は、最後まで言えずに言葉を飲み込んだ。
けれども藍ちゃんは察したようで、柔らかく笑んで肯定する。
「そうだよ。それがボクの悲願の一端で、最終局面だった。それが全部じゃないけどね」
「全部じゃないって。他にも、何かあるの。それはもしかして」
さっきの不穏な会話と、独白を聞いて。
危ないのは片方だけではないのだと、双方の存在に関わることなのだと、私の中の本能が警鐘を鳴らしていた。
「蒼兄に、関すること?」
「こればっかりは、隠しとくつもりだったんだけどなぁ」
彼女は、シャツの袖で顔をぬぐうと。
あぐらをかいて後ろ手をつき、天井を見上げる。
「もう、いっかぁ」
諦観とも悲観ともつかない表情でそう呟いて。
体勢はそのままに、藍ちゃんはぼそりと告げる。
「
大事そうにその名を呼ぶと。
彼女はじっとその目を閉じた。
「ボクの一番大切だった女の子の名前だよ。
そして彼女が、ボクの全ての動機であり、終わりと始まりだった。
名字で察しはついてるだろうけど。円佳は君のお友達の、桜間環の妹だ」
さらりと告げられた事実に、鳥肌が立った。
桜間、円佳。
環の妹。
それはきっとつまり。
吸血鬼の眷属にされたという、行方不明の妹で。
環が吸血鬼を敵視した、理由。
「詳しく話すと耐えきれないから、簡単に概要だけ話すよ。
円佳はね。数年前、悪い吸血鬼にたぶらかされて、そいつの眷属になってしまったんだ。そのせいで、もうこっちの世界では暮らせない状態になってしまった。
これ位は、桜間から聞いてるだろう?
……ここから先は、桜間環には伏せている話」
私たち二人だけしかいないというのに、藍ちゃんは声を潜めると。
淡々と、感情を込めない声音で言う。
「あいつの探し続けている、円佳を奪った吸血鬼はもういない。
もう、この世に存在しない。
そいつのことは、安室蒼夜が葬ったから」
単純なはずのその説明を、すぐには飲み込めず。
自分の中で何度か反芻して、ようやく彼女の言ったことの意味を理解が出来た。
「蒼兄が、その吸血鬼を、殺したの……?」
震える声で尋ねると。
藍ちゃんは考え込むようにしばらく黙り込んだ。
「君の言う『蒼兄』があいつを殺したのか、と言われたら、ボクは否と答えるだろう。
だけど端から見たら、その問いは、然りだ。
確かにあいつにとどめを指したのは、世間一般では安室蒼夜とされる存在なのだから」
回りくどい言い回しで慎重にそう述べ、藍ちゃんは話を続ける。
「円佳の事情を知ったボクは、人狼の末裔である安室蒼夜に出会って泣きついたんだ。吸血鬼と人狼との間には、一言では語れない因縁がある。だから彼も協力してくれた。
けれど。いざあいつを追いつめた段になって、安室蒼夜は躊躇した」
一端そこで言葉を切って。
彼女はひときわ重い調子で続ける。
「安室蒼夜が、あの忌まわしい吸血鬼にとどめを刺すことを躊躇した、その時に。
円佳は奴をかばって、自らの血を全てあいつに捧げたんだ。
その結果。力が戻ったあいつは逃げおおせて、円佳はこの世界から消えた」
直接な表現を、藍ちゃんは使わなかった。
けれどもそれだけで、十分だった。
いつか、環から話を聞いたときのことを思い出す。
あの時に、環が内に秘めた激情を押し殺していた時のことを。
けれども、環はこの顛末を知らないのだ。
妹さんのことを。
円佳さんに、起きたことを。
「あの時に安室蒼夜があいつを取り逃していなければ。
円佳がボクの前から消えることはなかったんだ」
藍ちゃんにとって。円佳さんがどんな存在だったのか、私には到底推し量ることはできないけれども。とてもとても大事な存在だったんだろうなということは、彼女の名を口にするときに、一瞬だけ和らぐ藍ちゃんの目をみて分かった。
あの時の環みたいに、藍ちゃんは感情を押し殺してはいない。表情に、無理をして取り繕っている気配はなかった。
ただ、それを通り越して。
もはや、抜け殻のようだった。
「それから。どうにか蒼夜様のおかげで、あいつの息の根は止められたけど。安室蒼夜のせいで、円佳は死んだ。
だからボクは。蒼夜様のことを最高に崇拝しているし、安室蒼夜のことを最高に憎んでいる」
「待って藍ちゃん。どういうこと?」
そこまで黙り込んで話を聞いていたが、脳内を飛び交った疑問符に耐えきれず口を挟んだ。
ここまでの藍ちゃんの話には、円佳さんと、彼女を眷属にした吸血鬼と、それから蒼兄の三人しか登場していない。突然の第三者が出てくる余地はないはずだった。安室蒼夜も、蒼夜様も、私の知っている蒼兄と同一人物であるはずだ。
けれど、彼女の口振りは。
まるで、別人、みたいだ。
「白香ちゃんも。さっきのやりとりで、薄々気が付いているだろう?」
形のいい唇を弧の形に歪め。
藍ちゃんは静かに告げる。
「安室蒼夜の中には、二人の人格がいる。
いや。君を目の当たりにしたときの彼をカウントするなら、三人かもしれないな?
皆がよく知る、人のいい気弱で間抜けな『安室蒼夜』と。
人狼の時にだけ顔を出す、残酷で冷徹な、人狼の未来の長たる『蒼夜様』さ」
突拍子もない話を、私はにわかに飲み込むことが出来ずに固まる。
けれども、そうだ。
私だって、違和感を感じていたじゃないか。
あの時に、『知らない』と感じたのは。
蒼兄の頭に、耳が付いていたからではない。
蒼兄の目が、違ったからではない。
何よりもその性質に、言葉に、私の知る蒼兄と違うものを感じ取ったからだった。
手を広げ。
藍ちゃんは、厳かに宣言する。
「ボクの目的の一つはね。
安室蒼夜を、完全に蒼夜様と入れ替えてしまうことだよ。
ボクは、人狼の蒼夜様の台頭と。
人間の安室蒼夜の、死を願っている」
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