26満を持して現れたそれは

「悠長に、静観なんてしてる場合じゃなかった」



 ひどく冷ややかな低音で目を覚ます。



「もっと早く、処分しておくべきだった」



 まるで闇の底から響きわたるような、畏怖を感じさせる声に、背筋が凍る思いがする。

 けれど、その声に聞き覚えがある気がして。ぼんやりと瞼をこじ開けた私は、自分の目を疑った。



『蒼兄?』



 思わず漏れ出た呟きは、音にはならず、ただ口から空気だけが吐き出された。

 それでも蒼兄は敏感に気付き、私を振り返る。



「しぃ」



 その強い光を宿す目に見つめられ。

 私は、身動きがとれなくなる。



 蒼兄の目は。

 薄暗くなった部屋の中でも、すぐにそれと分かる、輝く金色をしていた。

 黒い瞳孔を縁取る、濃い琥珀色の虹彩。

 更にそれをとりまく、金の瞳。

 目は普段よりも、少しだけつり上がった形に変化している。



 そして。

 蒼兄の頭の上には、獣の耳が生えていた。


 三角の形をした、犬に似た耳だ。

 いや。犬じゃない。

 それは、きっと。




 ――人狼。




 その単語がよぎって、私は息を飲んだ。

 だが。……不思議と、違和感がない。


 まるで。

 ずっと昔から、それを知ってでもいたかのように。




 変貌した蒼兄の姿を食い入るように見つめていると。

 次の瞬間、強く抱きしめられる。



「ごめんね、しぃ。怖かっただろう。でも、もう大丈夫だ」



 怖かった?

 なにが?


 そう思って、きょとんと周りに視線をやると。

 部屋の中は、嵐が来たようなすさまじい状態だった。


 もちろん、若林くんが来たとき、自分で散らかしたことは覚えている。

 だけど、違う。


 確かに私は玄関に向けて大量に物を投げつけたけれども、それよりもずっと酷かった。

 玄関先だけでなく、居室も短い廊下にも、割れたグラスから引っ張り出された洋服やらが、あちこちに広がっている。強盗にでも入られたかのような有様だ。



 そして、私の身体は血塗れだった。



 私の来ている服は、胸元が赤黒く血に染まっていた。白を基調としたワンピースだから、余計にそれが目立つ。

 それを見て、自分でも自分の姿に動揺するけれども、すぐに理由には思い当たった。

 そうだ。さっきは時間がなくて、若林くんに、止血をしてもらわなかったんだ。


 けど。

 それにしても、血が広がりすぎてない?



 私は今の状況に困惑したままだったが。蒼兄は私の身体を離すと、口元にだけ笑みを浮かべて静かに立ち上がった。



「もう大丈夫だよ、しぃ。

 諸悪の根源は。今から、俺が



 その台詞に。

 その言葉が意味することに、戦慄する。


 消すって。

 それって、まさか。



 若林くんのことを言っているの?



 まるでなにかの冗談みたいな言葉だったけれど、それを言う蒼兄の目は、本気だ。


 慌てて蒼兄にすがりつこうとしたけれど、しかし身体は金縛りにあっているみたいに動かなかった。へたり込んだまま、かろうじて身を起こしていることしかできない。

 視界の隅に、静かに佇む藍ちゃんの姿が映った。多分、彼女の仕業だ。蒼兄を止められないよう、今は身体にすら制限を掛けているんだろう。



 まさか。



 藍ちゃんが、若林くんが全部これをやったと見せかけるために、わざとやったの?

 あえてすぐ止血はせずに服が汚れるまで血を付着させ、部屋も荒らして、わざと状況をひどくしたの?



 蒼兄をたきつけるために!?



 問いただしたいが、声が出ない。

 今は、身体すら自由に動かない。

 蒼兄を止めることが、できない。



 私の思いを知る由もなく、蒼兄は藍ちゃんへ告げる。


「お前はしぃと一緒にここに残れ。俺は奴を追う」

「私も参ります」


 いつもより厳かな物言いで、藍ちゃんは進言した。


「おそらく奥村も現れるでしょう。一対二じゃ分が悪い。私も貴方の盾になるくらいのことはできる」

「お前は引っ込んでろ、藍。足手まといだ」


 唸るように、いや、実際に喉の奥から、獣のそれに似た唸り声を上げて、蒼兄は藍ちゃんを睨む。

 その口の端からは、ちらりと尖った犬歯が見えた。

 人間のものでは、ない。


「私怨にまみれた奴を連れて行く気も、迂遠な自殺に手を貸す気も、ない、と言っている。

 お前の命は俺のものだ。勝手に死ぬことは許可しない」


 私に対して向けていたものとは明らかに違う、冷淡な面持ちで蒼兄は藍ちゃんを見下ろす。


「大人しく待っていろ。事が済んだら、望みどおりにお前もきちんと喰い殺してやる」

「畏まりました、我が君。さしでがまがしいことを」


 そのまま蒼兄はきびすを返して、藍ちゃんを顧みることも、私に声をかけることもなく、無言で玄関に向かった。


 後ろ姿から漂う気配から分かる。

 どうやら蒼兄は。

 とてつもなく、怒りを湛えているようだった。

 おそらくは、藍ちゃんの思惑通りに。


 昔にも蒼兄が怒ったところは見たことがある。

 けれども今のように、寒気がするほどに冷酷な眼差しと、抑えた口調の裏にある凶暴性とをはらんだ彼を見たのは、初めてだった。




 ドアの閉まる音がして、蒼兄が去ってしまうと。藍ちゃんは自分で自分の腕を抱きながら、うわごとのように呟く。


「ああ。これでいいんだ、これで」


 自分の両手の平をじっと見つめ。

 藍ちゃんは、まるでなにかにすがるように上ずった声をあげる。


「これできっと。蒼夜様がボクらの敵をとってくれるよ。ねぇ、円佳。

 だけど、なんでだろう」


 顔を上げた藍ちゃんは。

 心底それが理解できないとでもいうように

困惑した面持ちで首を傾げた。




「どうして、ボクは泣いてるんだろう?」

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