25囚われの彼女の元には
彼の声に、無性に泣きたくなった。
無性に私を安心させる声で、彼は私の名前を呼ぶ。
十日ぶりの若林くんの声は、随分と懐かしく感じられた。
反射的に私は立ち上がる。が、足下から響いた金属音で、自分の置かれた状況を思い出した。
私は足首を繋がれている。玄関まで到達することができない。声も出ないので、呼びかけることすら出来なかった。
このままでは、若林くんは帰ってしまう。
どうにか、気付いてもらわなければ……!
何か手はないかと、私は焦って辺りを見回す。すると、カチカチと規則正しく時を刻む音が耳に入った。ベッドサイドに置いてある、電池式のアナログな目覚まし時計だ。寝起きの悪い私にたびたび邪険な扱いを受けている哀れな子である。
それを手で引っつかむと。私は大きく振りかぶって、思い切りぶん投げた。
目覚まし時計は玄関のドアにクリーンヒットし、ガツンと洒落にならない音を立ててから床に落ちる。犠牲となった目覚まし時計は、瀕死どころかご臨終しているようだった。だけど、なりふり構っていられない。
私は、部屋にあるものを次々とドアに向かって投げつけた。考えるより先に手が動いたので、今さっきまで麦茶を飲んでいたグラスから、ほとんど効果はないだろう柔らかいぬいぐるみまで、後先考えずに手当たり次第に投げた。
周りの家に聞こえたら何事かと思うだろう。隣人が不在であることを祈るばかりだ。
手に届く範囲のものは全て投げ終えてしまってから、私は一旦、手を留めた。
玄関はとんでもない有様になっている。足の踏み場もない。
しかし玄関の惨状とは裏腹に、ドアの向こうは、しんと静まりかえっていた。耳を澄ませてみたが、人の気配はなさそうだ。
どうしよう。
気付かなかったのかな。
それとも、逆にただ事じゃない気配を察して、遠慮して帰ってしまったのだろうか。
わずかな望みだったのに。
藍ちゃんが帰ってきたら、どう言い訳しようか。
虚無感に苛まれ、疲労が滲んでへたり込んでいると。
「望月さん!」
背後から、声が聞こえた。
振り返れば。
窓の向こう、私の部屋のベランダに、若林くんがいた。
窓は固く閉ざされていたが、カーテンだけは開けてあった。閉めっぱなしでは、逆に近隣から怪しまれるからだろう。
それが、功を奏したのだ。
彼の姿を確認して、思わず笑みがこぼれる。
よかった。気付いてもらえた!
これで、伝えられる!!!
勇んでベランダへと駆け寄るが、途中で鎖に引かれて転びかける。そうだ、ベランダにも行けないようになっているんだった。
私の手は、窓まで五十センチほどのところで止まってしまい、届かない。鍵を開けることもできなかった。
ガラス越しに、久方ぶりの若林くんと、目が合う。
彼は私の姿を認めると、一瞬、虚を突かれたような表情で目を見開き。
次の瞬間、途端に険しい目つきになる。
「ごめん。窓、割るよ。下がって」
確定事項として告げられた言葉に、私はぶんぶんと頷いて、後方へ飛び退いた。
思う存分やってください!
そしてごめんなさい大家さん、あとですっごい謝るから!
若林くんは、窓から一歩下がって深呼吸をすると。
おもむろに、目を閉じる。
すると。
彼の髪の色が、さあっと色を失っていく。元々色素の薄かったその髪色は更に薄くなり、沈み掛けた太陽の橙の光に照らされて、きらきらと光った。
そして。
見開いた彼の瞳は、暮れかけた空の色よりも更に濃い朱に染まっていた。
――銀の髪に、赤の目、だ。
どうして?
今日は、まだ、満月じゃないはずなのに……?
血が足りないから、満月より前にそうなってしまったんだろうか?
だけど私が血をあげるようになる前だって、髪と目の色は普通だったはず。
私が頭の中に疑問符を浮かべている間に、彼が動く。
ごく軽い動作で足を引くと、若林くんはそのまま足を振り上げ、ガラスを蹴破った。
被害は少なくなるように配慮してくれたのか、割れたのは鍵のすぐ横の部分だけだ。若林くんは空いた穴から内側に手を伸ばして解錠し窓を開け、放るように靴を脱ぎ捨てながら、駆け寄って私の肩を掴んだ。
「望月さん、大丈夫!? 一体、何があったの。どうしてこんなこと!」
つられて私は、口を開く。
が、藍ちゃんの特技が効いているので、当然ながら喋れない。
私は喉に手を当てて、ぱくぱくと口を開け閉めしてみせる。
「もしかして、話せないの?」
よかった、察してくれた!
私はこくこくと首肯した。それを見て、ますます若林くんの険の色が深まる。
若林くんはその端正な顔に似合わず、忌々しげに舌打ちした。
「待ってて。今、どうにかするから。くっそ、なにか工具でも持ってくりゃよかった」
道具を探して辺りを見回し、立ち上がろうとするが、しかし私は彼の腕を掴んで止める。
助けてくれようとしているのは、ありがたいけれど。多分、間に合わない。
きっと藍ちゃんが出掛けたのは、ここからそう遠くないスーパーだ。出た時間を考えると、まもなく帰ってきてしまう。
だったら私を解放してもらうよりも、先に。
私は、空気抵抗が働いて玄関まで届かなかった授業のノートと、ドアに跳ね返り部屋に転がり戻ってきたペンを拾い、急いで文字を書いた。
『カッターもってる?』
「いつも持ってるから、あるけど」
『血をのんで!』
続けて私はペンを走らせた。
困惑しながら若林くんは私を見つめる。
「だけど、そんなことしてる場合じゃ」
私はベッドのマットレスの下に手を入れた。ルーズリーフを小さく折り畳んだ紙片を取り出し、それを若林くんのポケットにねじ込む。
『あとで読んで、そこに書いてあるから、早く血を!』
いつか、外の誰かと接触する機会が来たときのために、若林くんか緋人くんあてに、分かる限りの状況をしたためた手紙をこっそり作っていたのだ。
彼らが企んでいるのであろう最悪の状況を回避できるように。
藍ちゃんが私を閉じこめているのは、私の血を若林くんに与えないためだ。
関連はまだ分からないけれど、環をけしかけたことも彼女が関与していると仮定すると、藍ちゃんの行動原理は一貫している。
被血者を遠ざけ、若林紅太に人間の血を与えない。
それで彼を弱らせた上で、満月の日に何か仕掛けようとしているのだろう。
事情を知れば、緋人くんもどうにかして、他の被血者を探すなり、末裔の仲間に頼むなり、手段を講じてくれるかもしれない。
まさか。若林くん本人が来てくれるとは、夢にも思っていなかったけれど。
私の必死なようすに、若林くんは疑問を持ちながらも納得してくれた。
「分かった。ちっくしょ、こんなことなら緋人を連れてくりゃよかった。
ごめん、痛むよ」
若林くんはカッターを取り出し、ちきちきと音を立てて刃を出すと、私の腕の皮膚にあてがう。
それを、手慣れた仕草ですっと引いた。
紙で指を切ったときのような、痛痒い痛み。
その傷口から滴る血を舌で掬い、若林くんは血を吸う。久々のその感触に、むずがゆさよりも、この上ない安堵を覚えた。
気付けば私の手は、小刻みに震えていた。自分でも気付かないところで、知らず知らずのうちに、かなり気を張っていたのだろう。
気付いてしまうと、途端に彼へすがりつきたいような、たまらない気持ちになって。無意識のうちに若林くんの服を、ぎゅっと握る。
やっぱり、藍ちゃんの言うことは嘘だったようだ。
だってこうして、若林くんは私を案じて来てくれた。
来てくれた。
来て、くれた。
何よりも、その事実が。
ただただ、たまらなく嬉しかった。
けれど、血をあげられた時間はそう長くはなかった。すぐに玄関から、がちゃりと鍵を回す音が聞こえたからだ。私が異変に気付いて彼に教えるより早く、ドアはあっさりと開いてしまう。びくりと震えた私の反応で、若林くんも顔を上げた。
帰宅した藍ちゃんは玄関の惨状にまず驚き、そしてすぐに若林くんに気付く。
「まさか。隙をついて強行突破されるとはね。お前にそんな度胸があるなんて思わなかったよ」
「瀬谷。お前がやったのか」
私を抱き寄せながら若林くんが低く響かせた声に、藍ちゃんは答えず。
荷物を置き、ゆっくり私の背後まで歩み寄る。
「そこまでして白香ちゃんの血を吸いにきたのか。呆れた外道だね。
手荒な真似をしたけど、やっぱり白香ちゃんを保護していて正解だったみたいだ」
違うんだよ藍ちゃん。私が、若林くんに頼んだんだ。
次の満月に備え、少しでも血の足しになるように。
人狼に何かされそうになっても、対抗して身を守ることができるようにって。
だけどその言葉は、もちろん口にすることはできない。
「言ってやりなよ、白香ちゃん。あのことをさ」
含みある物言いで告げられた台詞に、肩が跳ねる。
嫌な、予感がしていた。
けれど、身体の反応と直感とは裏腹に。
私の口は、勝手に動く。
「どうして、あの時、図書館に着いてきたの?
満月の日だったのに、なんで私と一緒に行動したの?」
違う。
違う!
私は、こんなことが言いたいんじゃない!
私を覗き込み、若林くんの目が静かに見開かれた。
驚いたような、呆然としたような、その眼差しに。
なによりも、ずきりと胸が痛む。
こんな表情を。
こんな表情を、させたくなんて、なかったのに。
違うのだと、必死に伝えようとしたが、またもや声は出なくなってしまっていた。
だけど、せめてこれだけは伝えなくちゃ。
私は無理矢理に若林くんを引き剥がし、ベランダの方へ押しやると、音のない声で叫ぶ。
『逃げて!』
それが、伝わったのかどうか。
彼は無言のまま一瞬だけ視線を合わせると。踵を返し、ベランダの柵を乗り越えて、瞬く間に去っていった。
藍ちゃんは追いかけることはせずに、若林くんの去っていった方を不快そうに睨みつける。
「飲むだけ飲んで自分はさっさと退散か、汚らわしい。
しくじったな。まだ十日あるとはいえ、飲まれてしまった。
いや。だけど……これはこれで僥倖かもしれない」
しばらく考え込むようにして、藍ちゃんは口元へ指を当てていたが。
やがて、未だ血の流れ続ける私の腕を掴むと、どこか悲しげな笑みを私に向けた。
「ごめんね白香ちゃん。ちょっと利用させてもらうよ。それまで、寝ててくれるかな」
彼女のその言葉を聞くや。
私は、またもや倒れるように眠りについた。
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