13浴衣は眼福

 普段はあまり積極的に飲まない炭酸が、じゅわじゅわと喉を通り抜ける。別に嫌いな訳じゃない。だけど一人暮らしの身だと、飲みきれないままにすぐ炭酸が抜けてしまうので、買わなくなってしまったのだ。

 だけど、こういう少し浮かない気分の時に、炭酸はちょうどいい。


 なんて。

 きっと深夜であることも相まって、若干、詩的なことを思っていると。


「へえ。案外、普通に会話できてるじゃん」


 ゴファッ、と冗談みたいな音を立ててむせかえった。

 く、苦しい苦しい、器官に入った。

 炭酸が器官に入るとひっどい!


 涙目でむせながら、声の主を見上げる。

 とはいえ、確認せずとも分かってはいた。

 その、声は。


「聞いていらしたんですか緋人あけひと様!?」

「最初からずっとね。なかなか戻ってこないようだったから」


 物陰から音もなく現れたのは、奥村くんだ。

 彼は、民宿に備え付けの浴衣姿である。



 サークル員の今夜の服装は、ジャージ派と浴衣派が半々くらいだ。それが本日、私のテンションが高い理由の一つである。


 浴衣。

 イイネ!


 奥村くんの格好を見て、改めて私は口元が緩む。

 あー、着物と袴には及ばないけど、浴衣めちゃくちゃ眼福だなー! 着慣れてなくてちょっとだぼっとしてる感じも含めて大変によろしい。合宿って素晴らしいな。ボーナスイベントだな。

 しかしこのお方は、洋装だけじゃなく和装も似合うな……。是非とも夏祭りや花火大会のレクの時に着用して頂きたいものである……。

 大天使紅太(尊い)が浴衣でないことだけが、ただただ悔やまれる……。



 一瞬で駆けめぐったその思考に蓋をして、平然とした風を装って尋ねる。


「どうしたの? 何かあった?」

「安室がこっちにきたから、話の内容が気になっただけだよ。

 もし紅太の秘密をバラしでもしたら、その場で二人とも息の根を止めようかと思って」


 しれっと怖いことを言われた。

 にっこり微笑まれながら言われると、あなたの場合ホント冗談に聞こえないんですけど!?

 そして多分この人、笑顔のまま本気でやるわ!!!


 怖っ! 元より話す気はないけど、それでも怖っ!!!


「あとそれから」


 奥村くんは右手を伸ばし、ガッと私の両頬をつかんだ。

 ぎりぎりと強くつままれて、私はタコみたいな口になる。


「俺のこといかがわしい目でみたら、潰すよ!?」

「らんじて、ひゃましいことは、ふぁんがえておりましぇん!」

「俺を誤魔化せると思ってる? そんなだらしない目付きと口元をしておいて。

 指だけじゃ物足りないみたいだから、どっか別のところも切り裂いてあげようか?」


 怖い怖い怖い怖い!!!

 萌え燃え萌え燃え!!!


 感情が忙しいからホントやめてくださらないですかもっとやって!

 痛くない程度に!!!

 麻酔よろ!!!!!


「それはそうと、今のはいいね」

「今の?」

「名前で呼んでくれたでしょ。支障ない場面では、名字じゃなく今度からそう呼んでよ」


 緋人あけひと様って呼ぶと、完全にあれだな。

 ご主人様だな。


「返事」

「わん」


 間違えた。

 うん、どのみち既にご主人だな?


「ま。話してないなら別にいいよ」


 奥村くんは、存外にあっさり手を離した。

 もっとも場所が場所だ。いつ他のサークル員が来るか知れない場所で、そう本性は出さないのだろう。


 少々痛む頬を両手で押さえていると。奥村くんは腕組みして、宴会場の方角を眺めながら、ぼんやり独り言のように呟く。


「桜間環……ね」

「何?」


 環のことを言われたら。

 いくらこの人が相手でも。

 私は、ちょっと黙っていられないかもしれない。


 私の、その不穏な気配に気付いたのか。

 奥村くんは、たしなめるように言う。


「そうピリピリするなよ。他意はない。俺はそいつのことを何も知らない、どうこういう筋合いはないよ。

 ただちょっと、聞き覚えがあった気がしてさ」

「ああいう誰かの噂なんじゃないの?」

「いや。大学に来る前に聞いた気がしたんだけど……まあ、いいや。思い過ごしかもしれないし」


 自分で納得して、奥村くんは私に背を向けた。また宴会場に戻るのだろう。

 そろそろ私も戻ろう。いい加減、会話も終わっているはずだ。


 残ったメロンソーダを飲み干していると、奥村くんは廊下の少し先から振り返る。


「それにしても。さっきも言ったけど、安室ともちゃんと話せてたね」

「まあ。一対一で話さざるを得ない状況だったし、さすがにちょっとは慣れてきた、かな」


 女子校出身で人見知りなところのある私だったが。ぎこちなさは残るけど、今日の合宿みたいに、少しずつ男性とも話はできるようになってきた。

 そもそも法学部は、女子より男子の数の方が多い。二ヶ月近くも在籍すれば、ある程度は耐性もできるというものだ。


 さっき安室くんにも言われたけど、今サークルで私が臆面なく話ができるのは、若林くんと奥村くんだけだ。でも今後は怪しまれないように、他の人たちとももっと話さないとね。


 だけど奥村くんが言ったのは、そういうことではなかったらしかった。


「俺たちとだけの、閉じた世界で生きていてくれた方が。何かと御しやすくて都合が良かったのに、残念だなぁと思って」



 モラハラ夫みたいなこと言い出したよ!!!


 閉じた世界、という一見は耽美な言葉に、ギムナジウムの少年たちを思わず想起して心そそられるが。我に返り、何が何でも馴染んでやろうと固く決意した。

 私は中にいなくていいんだよ。外側でいいんだよ。




******




「へくしっ」


 大変に可愛らしい声をあげてくしゃみをしたのは、今日も全力で可愛い私の推しこと、若林くんである。

 ほんのりと涙目になり、すんと鼻を鳴らす。


 あーーーーーかわいそうだけどかわいい……。


「どうしたんだよ紅太」

「んー、合宿行ってから調子悪いんだよね。風邪引いたかな」

「もう十日近く経ってるだろ」

「治んないんだよ。むしろ今週になって悪化した」


 不満そうに若林くんは口を尖らせた。



 水曜日の二限目。私たちは例によって、若林くんに血を提供するためにサークル部屋に集まっていた。

 前に奥村くんとレジュメの検討会をした時間だ。ちょうど三人の授業がなく、他の人があまり来ない時間帯だったので、そのままこの時間に定着したのだ。


「大丈夫? 血を飲めば、良くなるかな?」

「薬じゃないんだし、そう簡単にはいかないよ」


 そう切り返す若林くんは、鼻声だ。心なしか頬もいつもより赤いし、目元は潤んで、表情もぼんやりしていた。


 めっちゃくちゃ可愛くはあるけど、これはあれだ。

 やっぱり、風邪の引きはじめかもしれない。


 どうしよう推しが体調を崩されている……。

 世界が均衡を乱してしまう……!


「そうは言っても、飲まないと弱る一方だろ。今週末は満月なんだし、多めに飲んでおきなよ」

「でも、望月さんに悪いし」

「弱られる方が私に悪いですー! いつも遠慮がちなんだから、こういう時くらい好きなだけわがまま言っていいんですー!」


 悲壮感を目一杯に滲ませながら、私は顔を覆った。

 お願いだ、後生だから飲んでくれ!

 私が心神耗弱してしまう!!!


「ほら、シロだってそう言ってるんだから」

「お前な。何度も言うけどシロって呼ぶのやめろよ」


 若林くんは軽く非難したが、私たち二人に言われて渋々納得したらしく、血のことについては素直に頷いた。

 その反応を受け、奥村くんは私の腕を取る。さすがに首は恥ずかしすぎるので、あれ以降、血を吸うのは腕にしてもらっているのだ。


 そうしていつものように、奥村くんが私の腕に噛みつこうとした、その時。

 ドガン、と背後から衝撃音がして、びくりと私は肩をはねさせた。

 他の二人も一緒に、驚いて振り返ると。


 そこには、環がいた。


 環は、サークル部屋の奥に並ぶロッカーの一つから飛び出してきたらしい。

 足を蹴り上げた状態で、仏頂面で立っている。白いプリーツスカートだったが、ミモザ丈なので幸いスカートの中は見えずに済んでいた。



「てめぇら。うちの白香になにしてやがる」



 低いドスの利いた声で、環は据わった目で凄んだ。

 突然のことに、思考が追いつかず。私はぽかんとしたまま、間の抜けたことを聞いてしまう。


「環? どうして、今は授業じゃ」

「サボった」

「なんで」

「それどころじゃなかったからな」


 私の質問に短く答えてから。

 環は奥村くんと、そして若林くんへ、冷たい眼差しを向ける。




「お前ら。だな」




 その言葉に、背筋が凍った。

 咄嗟に体が反応し、私は椅子から立ち上がる。


「やだなぁ環、何言ってるの?」


 いつもと変わらぬふうを取り繕い。

 私は、普段と同じトーンで弁解する。


「うちらはただ、暇つぶしに話してただけだよ。

 二人はさ。ほら、班が一緒だったりして、話せるようになったんだけど。ほら、私がチキンで全然、友達できないから、環が授業の時なんかは、よくこうやって仲良くしてもらってるんだよ」


 朗らかに、にこやかに。

 何もやましいことはないのだと、そう言ったつもりだった。

 けれども。



 聞いた環の口が、ひくりと引きつった。

 それで私は、言うべきことを徹底的に間違えてしまったのだと悟る。


 別のベクトルで、環のスイッチが入ってしまった。



「何、言ってるんだ、白香。

 お前に友達ができない理由だ? そんなの、分かりきってるじゃねぇか」



 環。

 ごめん、そんなつもりじゃなかったの。

 その先は、私、聞きたくない。




みたいなとつるんでるからだよ!」




 すらりとした長身の、上から下まで完璧に美しい女性の装いをした環は。

 私の大好きな、恰好良いの声で、そう叫んだ。

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