3章:桜間環は白香の親友である

12どうあがいても天使

 五月も終わりにさしかかった土日。

 私の所属する国際法研究会では、毎年恒例の新歓合宿が開催されていた。


 うちのサークルは年に数回、合宿がある。他の合宿は、学習会や討論など中身の詰まったものみたいだけど、この新歓合宿は親睦を深めることが主目的だ。だから、ただただ飲んで遊ぶことが我々のミッションである。


 というわけで、私たちは概論書を家に投げ捨て、着替えなど最低限の荷物だけを持って、湘南の民宿に来ていた。シーズンがシーズンなので、テレビで見るような活気はなく静かなものだ。その辺を散歩したり、ほとんど貸切状態の海辺でだらだら遊んだりして、我々はまったりと過ごしていた。


 そして夜はもちろん、飲み会である。

 もっとも、まだ未成年だから一年生はノンアルコールだ。しかしこういう場所は、気分で酔える。

 そんなわけで。非日常な環境も相まって、私もいつもよりハイテンションで、サークル員の皆さんと盛り上がっていた。

 来る前は例によって、少しばかり気が重かったけど。テンションの効果で、今まであまり話したことのない先輩や同期と話せて、結果として万々歳である。


 しかし。

 そんな愉快な宴会の最中、私はおもむろに出血していた。


 栓抜きで瓶の王冠を開けようとしたら手元が狂い、力が変なふうに加わって、王冠の縁で指を切ってしまったのだ。結構ざっくりいってしまい、指先からは、だくだくと血が流れている。

 無駄な血を流している場合ではないというのに!


 そんなわけで、私は周りの人たちに心配されつつ席を立った。幹事部屋で会費の集計をしている渉外担当の先輩に言えば、救急箱を貸してくれるはずだ。

 宴会場を後にして廊下を歩き始めると。背後からドアの開閉する音と、小走りで人の近寄ってくる気配がした。

 一瞬どきりとしたけど、私たちの宿泊する民宿は貸し切りになっている。サークル員しかいない。そのことに思い当たって、安心して振り向くと。


 駆け寄ってきたのは、素晴らしき推しこと若林くんだった。

 尊い!!!


 若林くんは、今はパジャマ代わりの黒のジャージ姿だ。普段は見ることのない服装が、なんだかとても新鮮である。

 可愛いー!

 ラフな感じが萌えー!!

 どうあがいても尊いぃーーー!!!


「望月さん、大丈夫?」

「うん。痛いけど、これくらいへーきへーき」


 まさか心配して来てくれたの!?

 なんて天使なんだ……可愛い……とてつもない……大天使……ッ!


 若林くんは、怪我をしている私の手を、両手で取った。


 ってちょっと待って。

 君、袖が余ってるけど?

 萌え袖だけど!?

 そんなところで急激に私にアッパー食らわさないでください、っていうかそれは本来女の子がよくやる属性だでも似合うから許しちゃうオラァ! 可愛い!! 正義!!!

 しかも両手で掴んでる辺りが分かってるなァ!


 私の忙しい心情は知る由もなく、若林くんは指先の怪我を確認すると「思ったよりひどいね」と顔をしかめて呟いてから。

 微かに、こくりと喉を鳴らした。


「あのさ。もし、よければなんだけど」

「なに?」


 若林くんは萌え袖状態でぎゅっと手を握ったまま、上目遣いでおずおずと私の顔をうかがう。



「ちょうだい?」



 かッ……!

 かっわいいなぁぁぁ!!!



 そうだよねー目の前で出血してるんだもんね! 飲みたいよね!!

 いいよーいくらでも飲みな? こんな変態のうるさい血でよければいくらでもあげちゃうよ?


「いいけど、傷は塞いじゃだめだよ。皆に見られてるから、今回は絆創膏で我慢しないと」

「うん、分かってるよ。やった」


 返事を聞くや、彼は顔をほころばせた。



 かっわいいなぁ!



 とはいえ、人目につきそうな場所は危険なので、宴会場から離れた死角へ移動した。

 歩きながらも浮足立っているのが分かる若林くんへ、つい私はからかい混じりに尋ねる。


「もしかして、最初からそれ目当てだった?」

「望月さんのことだって、ちゃんと心配だったよ! 遠目でも、痛そうだなって思って。そう思われても仕方ないけどさ」


 そうぼやいて、若林くんは口を尖らせた。



 もうどっちでもいいよ!

 どっちみち天使は確定だから!!!

 私の前に彼を顕現させてくれてありがとう世界!!!!!






 人影のない場所まで来ると。

 彼は嬉しそうに私の指をくわえ、血を飲みはじめた。

 

 ねえ聞いて。

 今回は指だし、合宿でテンション高かったんで、すっごい油断してたんだけど。

 この前は奥村くんが痛覚を麻痺させてたじゃないですか。

 でも今日は当たり前だけど、感触があるの。


 指からどくどく流れ出す血の感覚と。

 それを舐め取る舌の感触が。

 なまじ神経のよく通ってる指先だから、感覚は外の部位より比較的、鋭敏でね。


 やっば。


 正気を保つために、私は口内の頬肉を思い切り噛んだ。

 口の中も血が出るかも知れない。

 でもそれは絶対に進言できない。

 色々な意味で。




 だけど。煩悩全開な一方で、ふと私は不安になった。


 合宿に来る数日前。奥村くんに血をあげたあの日にも、彼は血を飲んでいる。

 だけど爛々と目を輝かせて血を飲み干している、今の様子だと。なんとなく、まだ足りてないんじゃないだろうか、と思ったのだ。

 あれかな。非日常な場面だと、奔放になることもある一方、気を遣う場面だってあるし。普段より消耗したりもするのかな?


 そう思って、何気なく尋ねてみると。

 やや顔を曇らせた彼から帰ってきたのは、思っていたのとは別の返答だった。


「だって。この前は、緋人にもあげたでしょ」

「もしかして、遠慮してた?」

「僕が……俺が倒れないようにって、やってくれてるのに。望月さんに倒れられたら、困る」



 鉄分をとるしかなぁーい!

 鉄分をとるしかなぁーい!!

 鉄分をとるしかなぁーい!!!




 弾け出しそうなときめきを覆い隠し、くぐもった声で私は言う。


「遠慮しなくていいんだよぉ……目一杯飲んでくれていいんだよぉ……若林くんの健康のためのものなんですから……」

「だけど、それで望月さんが貧血になったら元も子もないだろ」

「私、頑張るね。若林くんに心配されないくらい、血の気の多い人間になるね」

「血の気の多い人間……?」


 私は。健康に留意して、強くたくましく生きていかなければならない……。

 もう、一人の体じゃないんだから……。






 絆創膏を貼って宴会場まで戻る。若林くんは一足先に会場へ戻っているはずだ。

 宴会場に入ろうと、引き戸へ手を伸ばしかけたところで。

 中から、私のことを話す声が聞こえた。


「だけどよかったね。望月さん、一年生で女子一人だけだから心配してたけど、どうにか馴染んでくれそうで」

「そうだな。今まではまだ緊張してたみたいだけど。今回の合宿では、結構話してくれたもんな」

「女子なんで俺も遠慮してたんすけど、思ったより話しやすかったですねー」


 先輩たちと、同期男子の声が聞こえた。


 よかったぁー!

 引かれてなかったー!

 ちょっとはしゃぎすぎたかなと思ったけど、大丈夫だった! よかったー!


 ただでさえ良かった機嫌が、更に弾んで。

 私は、るんるんと室内に入ろうとした。

 が。




「そういえばさ。

 望月さんって、あの桜間といつも一緒にいるよね」




 あ。

 駄目だ。




 この話は、聞きたくない。




 途端に、体中から血の気が引いていく感覚がして。

 私は、伸ばしかけた手を引っ込めた。


 幸いにして、誰も私がここにいることには気付いていない。

 音を立てないようにして、私は静かに宴会場の前から離れた。






 あてもなく廊下を歩くと、民宿のロビーに行き着く。

 夕食の時には、ロビー全体に煌々と照明が灯っていたが、既に深夜だ。自動販売機の明かりと、頼りない蛍光灯が一つだけ、ぼんやりと灯っていた。


 一人になって気が抜けて、革張りのソファーに座り込む。何か飲み物でも買おうか、と自販機を眺めるが、財布は自分の部屋だ。取りに行くのもなんとなく億劫で、そのまま私は体育座りで丸くなった。


 壁にかかった時計を眺め、どれくらい時間を潰そうか、と思案していると。

 廊下からスリッパの足音がして、振り向く。


「あ、望月さん。お疲れ」

「あ、お疲れさまです」


 思わず敬語になったが、相手は同期だった。

 いつもどこか寝ぼけた表情と、寝癖のついたようなぼさぼさとした髪が特徴的な、安室あむろ蒼夜そうやくんだ。


 安室くんはどこか抜けた感じのいわゆる愛されキャラで、先輩からも同期からもよくいじられている。一年生の中で、ムードメーカー的な存在だ。

 彼の周りには、大抵いつも誰か人がいた。


 だから、あまり私は話をしたことはない。

 ので、状況も相まって少し緊張する。


「怪我は大丈夫?」

「あ、うん。先輩から絆創膏もらったし」


 派手に騒いだからか、彼も出血騒動を知っているようだった。

 指先に巻かれた絆創膏を見ると、安室くんは顔をしかめて「うっ」と呻く。「痛そうだな」と、彼の方こそ痛そうな表情を浮かべながら、視線を外して自販機へ向かった。


「何か飲む? 奢るよ」

「あ、大丈夫だよ。なら私、お財布取ってくる」

「いいって、ジュースくらい」


 有無言わせぬ口調で、彼は勝手にコーラとメロンソーダを買う。買ってくれたものはありがたく頂こうと、私はメロンソーダをちょうだいした。

 安室くんはプシュッと音を立ててコーラを開け、さっそく喉を鳴らしてそれを飲む。一息ついた後で、彼は私の向かいのソファーに沈み込んだ。


「ごめん。俺、入り口近くにいたから、気付いてたんだ」

「気付いたって?」

「桜間の話が出たとき、聞いてただろ」


 指摘され、身体が固くなる。

 私はうつむいて、冷たい缶をぎゅっと握りしめた。 


「安室くん、環のこと知ってるの?」

「語学の授業が一緒だから」

「そうなの!?」


 素直に驚いて、顔をあげた。

 なんと同じクラスだった。そりゃ知ってるよね。


「桜間は。誤解されやすいからな」


 そう、どこか物憂げに発せられた言葉に。

 私はようやく安堵して、肩の力を抜いた。


 この人は。

 大丈夫だ。


「環は。クラスでは、どうなの」


 とても怖い質問だった。

 だけど、聞かずにはおれなかったのだ。


 安室くんは、へらりと気の抜けたような顔で笑ってみせる。


「あいつは、クラスじゃ上手くやってるよ。そこは心配しなくていい」

「そっ、か」


 どこまで、信用していいんだろう。

 まだほんの一瞬しか話していないが、安室くんのことは、信頼してもいいような気がしていた。

 だからこそ。

 彼は環のクラスでの状況を、優しく話してくれている可能性がある。


 でも。それこそ、聞けっこなかった。


「望月さん。桜間のこと好き?」

「うん、大事な親友だからね」

「そっか」


 相槌を打ちながら、安室くんはほとんど天井を向くようにしてコーラをあおる。

 あっという間に飲み干してしまったようで、彼はコーラの空き缶をテーブルに置いた。


「あいつは、例えばうちのサークルには入らないの? そうすりゃ、もうちょっと状況もマシになると思うのに」

「誘ったことはあるんだけどね。やることがあるからって、断られちゃった。環がいてくれたら、私も心強いんだけど」

「望月さんには。まだ、このサークルは居づらいもんな」


 う。

 見抜かれている。

 人見知りのATフィールドが張られまくっていたのを見抜かれている。


 なんとも答えられず、曖昧な音を漏らして苦笑いを浮かべると、安室くんは破顔した。くりくりとした人懐こい目が、楽しげに細められる。


「だけど。最近は、若林とか奥村とかとは話してるみたいだね」

「あ、うん。奥村くんは班が一緒だから。若林くんは奥村くんと仲がいいから、それでね」


 嘘は言ってない、嘘は。


「そっか、そうだよな。少しでも慣れてきたなら良かった。もしかしたら、辞めちゃうんじゃないかと思ってたから」

「……そう、だね」


 考えなかったことが、ないとは言わない。

 だけど。今はもう、私は辞めないだろう。


 このサークルには、若林くんがいる。奥村くんもいる。

 それに、今日はもっと他の人とも話ができたし。

 環のことに気付いて、気にかけてくれた安室くんだって、いる。




 安室くんは立ち上がり、空き缶をゴミ箱に捨てると、そのまま廊下の方へ歩を進める。


「しばらくしたら戻ってきなよ。まだ話してるようなら、俺、話題変えてくるから」

「ありがと」


 片手を上げて、安室くんは宴会場へ戻っていく。


 いい人だなあ。

 心底、いい人だなあ。


 私は、重くなった心が少しだけ回復して。

 一人になったロビーで、やっと缶のプルタブを開け、勢いよくメロンソーダを喉へ流し込んだ。

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