4章:安室蒼夜は性癖ではない

17着物に能面の和風男子(怒)

 若林くんと奥村くんとの関わりを続ける、との結論を環に告げ。

 親友としての関係を改めて確認した私と環は。



「待てや白香ァ!」

「待たぬ!!!」



 大学構内を全力疾走していた。




 私の出した答えを聞いて、環は「諦めない」と言った。

 その宣言どおり、さっそく環は血の提供を積極的に邪魔しに来ていた。

 ここまでアグレッシブに来るとは思ってなかったけど!


 次の水曜日、いつものようにサークル部屋に赴こうとしたところ。またもや授業をサボって張り込んでいた環に発見され、捕獲するべく追いかけられた。

 授業に出ろよ! とつっこみたいところではあったが。語学なんかはともかく、講義の中には普段は出席を取らず、試験結果が百パーセントな一発勝負の授業もある。その手の授業は、ぶっちゃけ一回も出席しなくても、試験の成績さえよければなんとかなるのだ。

 そして法学部の専門の授業は、割とそういうものが多い。環がこの時間にとっている授業もその手のものだった。

 くっそ、もうこの時間帯は駄目だ!



 というわけで私は今、背後から迫りくる環から全力で逃げている。そりゃあもう逃げている。

 麗しい出で立ちの環が、走る姿まで美しいフォームで、それでいて鬼神が如き表情で迫りくる様は、恐怖でしかない。楚々としたロングスカートだというのに、何故あのスピードが出るのか甚だ疑問だった。

 全力疾走なんて久しぶりだよ!

 元より文化系な私の呼吸器官が悲鳴を上げているよ!!


 こうなった以上、血を提供できる可能性は薄かったけれども、できればどうにかしたかった。だって今日を逃すと、今週はチャンスがほとんどないのだ。

 金曜日は若林くんたちとほとんどタイミングが合わないし。明日の木曜日はサークルの日で顔を合わせるけど、木曜こそ、もう今後は無理だった。できれば今日中に血をあげたい。



 一旦、校舎の外に出て走り回っていたが、広い場所の方が不利だと気付き、また室内に舞い戻る。環の方が足は早いけど、私の方が小回りは効くんだよ! 狭い場所の方がまだいける!

 玄関ホールに飛び込むと、ちょうど目の前に扉を開けたエレベーターがあった。チャンスとばかりにエレベーターに滑り込み、急いで『閉』ボタンと最上階の数字を押す。扉の隙間から追いついてきた環の姿が見えたが、先に扉が閉まり、エレベーターは動き出した。

 安堵し、一息つく。


 幸いにして、エレベーターに乗ったのは私一人だった。途中階で誰かが乗り込んでこなければ少し時間を稼げる。時間的に、人が乗ってくる可能性も低いはずだ。

 だけど、環はすぐにエスカレーターを駆け上がって追いついてくるだろう。次の手を考えなくてはならない。


 ひとまず時間稼ぎにと最上階のボタンを押したが、最上階のほとんどを占めているのは大人数を収容する講堂だ。普段は鍵がかかっているので、逃げ場もなければ隠れられそうな場所もほとんどない。

 それよりは、隣の校舎との連絡通路がある階で、別の場所に逃げた方が環をまけるだろうと思い、私は五階のボタンを押した。



 途中階で止まることもなく、無事に私は五階に降り立つ。

 環はまだ追いついてはいないが、エスカレーターのある方角から響いてくる派手な足音は、環のものだろう。時間がない。早く逃げなくては。


 けれども。

 辺りを見回したところで、風景の違和感で自分のミスに気がついた。



 ……連絡通路があるのは、四階だ。



 なんつう凡ミスー!!!


 慌てて再びエレベーターに乗り込もうとするが、無常にもエレベーターは扉を閉じ、無人のままするすると上の階へ昇っていった。


 そうだった!

 最初に最上階のボタン押してたんだ!!

 バッカでー!!!


 ひえっと両頬に手を当て、ムンクの叫びの状態になったが、パニクっている場合ではない。

 逃げ道を! 考えなくては!!!


 エレベーターは二台あったが、待っているうちに環に追いつかれてしまうだろう。環が昇ってきているエスカレーターは当然、使えないし、階段もエスカレーターの側だ。見つかってしまう。

 いや。そういえばもう一箇所、奥の方に階段があったはずだ。そこから四階に降りよう。あの階段は連絡通路とも近い。すぐに逃げられる。


 なんだ冷静に思考できるじゃん私やっるぅー!




 と思ったら。

 どこかのサークルが置いた資材で、階段が埋まっていた。


 これはあれかな?

 演劇関係かな?

 うわあ、ベニヤ板とかダンボールで埋まってすぐに通り抜けられそうにないー☆



 公共の場所は丁寧に使えぇーーーーー!!!



 確かに五階って、ほとんど教室がないから一般の学生はあんま来ないけど!

 基本サークル部屋ばっかのフロアだから、サークル活動してる学生くらいしか使わないけど!!

 だからって階段に荷物置くなよ開けとけよ!!!

 こうやって鬼から追いかけられている人が必死の思いで逃げてくる場合だってあるんですよ!!!!

 滅多にそんな状況ないだろうけどーーーーー!!!!!



 絶望して、再び私は思案する。

 道は塞がっていたが、荷物をどかしながら行けば、通り抜けられないほどではない。だけどどうしても時間はかかってしまう。環もこのルートはすぐに思い当たるだろうから、脱出しようと四苦八苦している私の姿はすぐに発見されてしまうだろう。

 それよりは一か八か、隠れながら環の姿を確認しつつ、隙を見てまた下の階に逃げる方が無難かもしれない。


 そう思い、階段を諦めて、環の姿を覗こうと開けたホールへ戻る途中。



 すぐ隣の部屋の、扉が空いていることに気が付いた。



 ここは新歓の時に何度か来たことがある、特殊な部屋だった。

 和室だ。

 中には、板の間や広い畳敷きの和室、茶室などが数室あり、茶道や歌舞伎など、古典芸能系のサークルが使用している。普通の学生は、用事がないので近付かない。


 国際法研究会のサークル部屋同様、普段は施錠されている。だが空いているということは、中で活動している人がいるのだろう。

 けれど扉の向こうのたたきを窺うと、置いてある靴は一足だけだった。


 この部屋は鍵のかかった扉をくぐると、まず玄関があり、それから狭い廊下で各部屋に繋がるようになっていた。部屋はちゃんと個々に仕切られており、それぞれの場所で各サークルが活動していても、干渉されることはない。

 つまり中で活動している人がいても、玄関に人がいることにはそう気付かれないのだ。それにサークル員は、自分のスペースの部屋にこもっているので、お手洗いなどで退室するタイミングでなければ人が出てくることはない。短時間隠れさせてもらう分には見つかる可能性も低いかもしれない。

 さすがに環も、私がここに逃げ込んだとは思わないだろう。



 誰かと鉢合わせしないことを祈りつつ、私はこっそり和室の玄関に滑り込んだ。



 外から見つけられないよう死角に身を潜ませ、念のため扉をぴたりと閉める。

 体育座りで縮こまると、私はようやく落ち着いて、息を吐き出した。


 と。

 突然、朗々と歌うような声が響き、びくりと身をすくめる。


 声が聞こえてきたのは、玄関のすぐ正面にある部屋だった。広い板の間の部屋だ。

 板の間を使用するのは、古典芸能系サークルの中でも一つしかない。

 能楽研究会だ。


 和室に来ている以上は当たり前かもしれないが、先客の方が稽古を始めたのだろう。

 玄関の靴は一足。だから少なくとも、この声がしているうちは、私の姿を見咎められることはない。改めて私は、ほっと肩の力を抜いた。


 見れば、襖が細く空いていた。

 私はちらっと、扉のガラス張り部分から外の様子を探るが、環の姿は見えない。すぐ側にはいないようだった。

 それを確認すると、私はそっと中が見える位置に移動して、つい覗き込む。



「その名も月の色人は。三五さんご夜中やちゅうの。空に又」



 古めかしい言葉を、張りのある声で謡い上げる。

 低く良く響く、心地の良い声だ。

 声からすれば、間違いなく男性だった。


 声からして、と表現したのは。

 その人は能面をつけていて、顔が見えないからだった。

 能面のことは詳しくはないけれども、いわゆる鬼の面ではない。女の人の面のようだった。


 そして。

 その人は、黒の紋付きの着物に、黒と白の縦縞の袴姿だった。


 こんな時だけど。

 こんな時だけど。



 素晴らしい……!

 眼福……ッ!!!



 まあ長髪ではなかったし、それ以上に見過ごせないポイントもあったけど、着物と袴姿はそれだけで尊いし、大変に素晴らしい。充分に堪能させてもらおう。



七宝しっぽう充満の宝を降らし。国土にこれを。ほどこし給ふ」



 広げた扇を上から下に振り下ろしながら、すっと前へ進む。その動きは滑らかで、ほとんど身体が上下することがない。

 ふわり、と本当に天から何かが降り注いでいるかのようだった。


 謡われる言葉の意味は、ほとんど分からない。

 けれど、高らかに響く力強い謡と。

 いちいち洗練された所作で紡がれる舞に。

 すっかり、私は見惚れてしまっていた。



「天つ御空の。霞に紛れて。失せにけり」



 やがて余韻を残し、くるりと扇を翻しながら、その人は静かに座り込んだ。

 室内には、しんとした静けさが広がる。それでようやく、私は終わったのだと分かった。ほうっと小さく感嘆の息を漏らす。

 拍手をしたい気持ちにかられたが、できなかった。ちゃんとした観客ではなかったのもあるし、どこか静謐さを湛えたこの芸能には、拍手は似つかわしくない気がしたのだ。


 隙間から途切れ途切れの鑑賞だったとはいえ、私はなんだか妙に満足してしまっていた。

 それで気が抜けたのだろう。身体をほぐした拍子に、隣にあった傘立てにぶつかり、がたりと音を立ててしまった。


 途端。

 能面が、こちらを向いた。


 能面に見据えられたというシチュエーションも相まって、私は硬直する。

 思わず聞き入ってしまったけれど、よく考えれば私は侵入者である。まずい、と思って立ち上がるが。


「望月さん?」


 能面男子に声を掛けられて、びくりと肩が跳ねる。

 やばい。名前を知られている。逃げるに逃げられない。

 私が焦っている間に、彼はこちらにやって来て、襖を大きく開けた。私は正面から、能面男子と対峙する。


 新歓の時に話した先輩の誰かかな?

 だけど能面だから素顔とか全然分かんない!

 そして表情も分かんないからどういう感情なのかも分かんない!!!


「あ、すみません。ちょっと通りかかっただけなんですけど、お邪魔して申し訳ありませんでしたっ!」

「ちょっ、ちょっと待ってよ」


 気まずさに、私は回れ右して和室を退散しようとしたが、能面男子は慌てて私を制止する。


「俺だよ、俺」


 オレオレ詐欺にはひっからんぞぉ!

 今は私に男兄弟なんかいないぞぉ!!


 など思いながら、振り向くと。

 能面男子は、そのたおやかな面を外したところだった。


 そして。

 能面の下から現れたのは。



「安室くん?」



 明るい茶髪に、どこか気の抜けた表情。

 彼は紛れもなく、同じ国際法研究会に所属する安室あむろ蒼夜そうやくんだった。


 予想外の人物に、私はぽかんと口を開ける。


「え? なんで安室くんが?」

「国際法と掛け持ちしてるんだよ。言ったことなかったっけ?」

「でも、法学部だよね?」

「別にうちは、文学部に限定してないよ。先輩にだって法学部の人はいるしね」

「そうなんだ」


 驚きと困惑が入り混じりながら、呆然と私は受け答えた。




 私はこの春、和風なサークルをあちこち見てまわっていた。

 他のサークルは、なんだかんだと理由ができて却下していったのだけれども。

 一つだけ、最後の最後までどうしようかと悩んだのが、この能楽研究会だった。


 能楽研究会は、舞台では着物に袴を着用する。他のサークルは、服装は特に変わらなかったり、着ても浴衣程度だったけど、ここはまさにピンポイントで私の大好物の服装だ。

 そういう、性癖にヒットして心がうずくという理由もあったし。

 純粋に、活動そのものにも惹かれるものはあったのだ。


 安室くんがさっきやっていたように、能楽研究会では能の鑑賞だけでなく、実際にサークル員も能の謡と舞を稽古する。

 能そのものに興味があったわけじゃない。というか、どういうものかほとんど知らなかったので、あるなし以前の問題だった。

 けれども、古来より脈々と継承されてきた謡と舞を、一介の学生である自分も触れることができる、というのは。とても、特別で素敵なことのような気がしたのだ。



 だけど結局、私は入らなかった。

 というかそもそも、見学すらしなかった。古典芸能系サークル合同の新歓に参加して、少し話を聞いただけだ。


 なまじ、未知で高尚なものへの憧れの気持ちがあっただけに、敷居が高く感じられて。

 文学部で古典を勉強しているわけでもない人間が、ただの好奇心だけの生半可な気持ちで入るのは、どうにも申し訳ない気がしたからだった。




 けれど、同じ法学部の安室くんが入会しているのだ。私もせめて見学くらいはしておくんだったと思い、なんだか無性に悔しい気持ちになった。


 それに。

 まして、がしれっと入っているというのなら尚更である!


「ところで安室くん。一つ、どうしても言いたいことがあるんだけど」

「何?」


 知り合いならばなおのこと。

 私はこの男に、言わなくてはならないことがある。



 私は、据わった目で安室くんを見上げると。

 麗しき黒の紋付の着物(黒の紋付の着物って最高に格好良くない? シンプルな中にある美を極めてて素敵すぎない???)の襟元を崩さない程度に、拳を彼の胸元に打ち付けた。



「貴様、能研に所属していながら、何故、髪を茶色に染めたァ……!」

「いきなり何そのいちゃもん!?」



 唯一。

 最初から徹頭徹尾、許せないことがそこだった。


 確かにね。

 確かに君の舞は、不覚にも私の目を奪って、本来の目的を一瞬忘れさせるくらい、魅了した。


 だけどね!!!




「茶髪の和服男子は萌えないッ!」

「なんでだよッ!?」




 静かだった和室内に、力強い私の主張と、困惑した安室くんの悲鳴がこだました。

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