応
第十九話 逡巡
暗闇の中に消えていくお爺さんの背中をずっと見つめていた。
やっぱり簡単には人を殺せない。
あのお爺さんに僕自身が恨みを持っているわけでもないし。
せっかく念入りに下見までして準備したのに。
大きな、大きなため息をついた。
『カオルさんを疑う訳じゃないけれど――』
ミキの言葉が重くのしかかる。
肉体的にも、精神的にも疲れ果てて、どうやって家まで帰ったのかも覚えていない。気がつくとコインロッカーに預けた荷物を床に投げ出して、ベッドの上で大の字になっていた。
(やっぱり僕には交換殺人なんてできないのかな)
天井を見つめていると涙がにじんできた。
悔しいのか情けないのか自分でもわからない。ひょっとしたら心のどこかでほっとしているのかもしれない。
目を閉じてミキとの会話を思い出す。
彼女の境遇を聞けば、あの臼井という老人は殺されても仕方がない。
佐々部長がしてきた仕打ちだってひどい。恨まれても当然だ。
でも、だからといって人の命まで奪おうとするのは……。
いつの間にか眠ってしまっていた。
床の上のバッグの中からスマホのアラーム音が聞こえてくる。
(もう朝か……)
最近は会社へ行くのも苦にならなくなってきていたのに、今朝はすでに体が重い。
シャワーを浴びるのにも時間がかかってしまい、朝食をとらずに家を出た。
管理員さんと会うこともなく、駅に着いた。しばらく気にしていなかった間に、ロータリーのケヤキもすっかり色づいていた。初めてミキと言葉を交わしたころはまだ青々とした葉をつけていたのに。
あれから二ヶ月が過ぎようとしている。
もしあの時に戻れたなら、僕は違う世界線を選べるのかな。
電車に乗っている時間がとても長く感じた。こんなんじゃ、今日一日もちそうもない。仙川駅のコンコースを歩きながら、自分を奮い立たせる。
会社へ向かう道で、少し前を歩いているの小島さんを見つけた。
白のタートルネックにレザージャケットを羽織り、こげ茶のロングスカート。後姿もキメている。
いい機会だから佐々部長とのこと、それとなく確かめてみたい。
足を速めてエレベーターホールで彼女に追いついた。幸い、ほかには誰もいない。
「おはようございます」
「あ、山瀬さん。おはようございます。今朝は寒いですね」
「朝晩は冷え込むようになりましたからね」
さて、どうやって切り出そうか。
三階までのエレベーターなんて、すぐ着いちゃうからな。前置き無しでいこう。
「そういえば、佐々部長からの誘いってまだ続いてるんですか?」
彼女の表情をうかがいながらたずねた。
「ええ、まぁ。たまにお食事に行くだけですけど」
「え、そうなんですか!? このまえ聞いたときは断ってるって言ってたじゃないですか」
僕も白々しいが、すんなり認めてしまう小島さんはやはり強い。
「だって支店長になるって噂だし。いい印象を持ってもらった方が何かと都合がいいじゃないですか」
そう言うと小首をかしげるように微笑んだ。
部長が昇進するから態度を変えた、という点では僕と同じか。
それにしても、こちらの
席に座りパソコンを立ち上げても、様々な思いが胸の中に渦巻いて仕事に集中できない。
午前中に作った資料に誤字と計算間違いがあって、部長に呼びつけられた。
「お前こんな初歩的なミスなんて勘弁してくれよ。俺がいちいち隅から隅までチェックしなきゃならないのかぁ? 何年この仕事をやってるんだよ!」
今回は明らかに僕のミスだし、返す言葉がない。黙ったまま頭を下げる。
「ったく。今回は俺が気がついたからいいようなものの、このまま先方に資料を出していたら恥をかくのは俺なんだからな! こんなんじゃ総務に異動したって使い物になんねぇぞ」
え、総務に異動って……。本気でそんなことを考えていたなんて。
揺らいでいた気持ちが胸の奥にある黒い
それでも部長にはもう一度頭を下げて、すぐに資料の修正を始めた。
(うん、今度は大丈夫)
作業を見直してから一息つこうとマグカップを持って廊下に出た。
すると、追いかけるように金井さんも執務スペースから出てきた。
「今日の佐々部長はいつにも増してひどかったわね。どうしてあんな言い方しかできないのかしら」
「でも今回は僕のミスですから」
力なく笑う僕を、金井さんはなおも励まそうとしてくれた。
「それにしても言い過ぎよ。あの人には部下を育てようという気がないのよね。もしもよ、万が一、山瀬さんが総務に来ることになったとしても私がしっかり面倒見て上げるし心配なんかしないで」
僕の肩を叩きながら少し背をかがめて、顔を見上げるように近づいてくる。
気持ちはうれしいけれど、圧が強い。
「ここはさ、後のことを考えずに思い切ってバーンとやっちゃいなさいよ」
(思い切ってやっちゃう、か)
お局様は「たとえ異動になっても私がフォローするから、思うとおりに反論してみなさい」って言いたいんだろうけれど、僕のなかでは石段を上ってくる臼井老人の姿が浮かびあがった。
金井さんにも頭を下げて仕事に戻ると、今度は水野が寄ってきた。
どうやら今日の僕はひどい顔をみんなに見せているらしい。
「なーに」
心配してくれるのはありがたいけれど、ぶっきらぼうに突っかかってしまった。
「何はないだろ。今日は残業するのか?」
「うーん、しなくても大丈夫」
「なら呑みに行くか」
「また藤崎君と三人で?」
「いや。今夜は二人でサシだ」
水野がニヤリと笑う。
つられて僕も口元をほころばせてしまった。
「わかった」
「じゃ、残り二時間、頑張れよ」
背中をポンポンと叩いて、水野は席に戻っていった。
仕方ない。残り二時間、頑張るとするか。
今夜はいつもの焼鳥屋ではなく、駅前の個室居酒屋へ入った。
個室といっても部屋になっているわけではなく、それぞれのテーブルの間に仕切り壁が立っているだけで、通路側には扉も壁もない。
「これで個室ってどうなのさ」
「そんな堅いこと言ってないで、はい、乾杯!」
水野になだめられて、中ジョッキの生ビールを一気に飲み干した。
「ふぅ。おかわり!」
「おいおい、いきなりそんなにペース早くて大丈夫か?」
「平気だよ。たぶんね」
ここ十日ほどは気持ちが張り詰めていて、お酒もまったく口にしていなかった。それが昨日の夜、あのときに糸が切れた。
もう何もかも投げ出したい。何も失いたくない。
この矛盾した思いが僕の心を蝕んでいく。
気がつけば四杯目のジョッキを空にしていた。
「おい、聞いてるのかよ」
「ん? なんだっけ」
やばい。酔いが回っている。
「だから、金井さんのことだよ。彼女のことも何だかんだ理由をつけて会社を辞めさせようとしているらしいぞ、佐々部長は」
ふーん。金井さんね……。
「ほら、着いたぞ。鍵はどこにあるんだよ」
ん……鍵?
「あーもう。しょうがないなぁ。はい、靴脱いで」
あれ、ここ
「おー。綺麗に片付いてるじゃん」
だから、僕の部屋で何してるのさぁ水野は。
「よいっしょっ、と」
ベッドの上にうつぶせに倒れ込んだ。うん、間違いない。僕の部屋のベッドだ。
ごろっと体を返してあおむけになった。
僕を見下ろしていた水野がすっと近づいてくる。
「何してるの水――」
いきなり唇をふさがれて思わず目を見開いた。
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