第一話 秘密

 理不尽な残業をやっと終わらせていつものように電車へ乗り込み、満員とは言えないほどに混雑した車内で座ることもなく、変わり映えのしない駅で降りる。向かい側のホームには電車を待つ人の姿もない。

 県の中枢地区から放射線状に伸びたこの沿線には、都会を動かすたくさんの人たちが暮らしている。跨線橋こせんきょうを渡り改札へと向かう人の流れ。同じ方向を見ているのに、誰も僕のことなんか気にしちゃいない。でもそれは僕も同じ。隣りを歩く人の服装なんて、五分も経てば忘れている。

 せめて昔の改札なら駅員さんと顔見知りになれたかもしれないけれど、自動改札ってやつは味気ない。乾いた電子音だけが僕を送り出す。

 中央に大きなケヤキのある、ここ更井さらい駅前のこじんまりとしたロータリーには二台のタクシーが停まっていた。もう最終バスは行ってしまったから我先にとタクシー乗り場へ人が向かい、あっというまに行列ができる。

 偉そうにロータリーを出て行くタクシーを横目に、僕はいつものように歩き始めた。

 ちらと見あげれば今にも雨が降り出しそう。

 この夜空のようにどんよりとした重い気分を引きずって家に帰りたくはない。かといって一人で呑みに行くなんてしたこともない。 


(コンビニで何か買ってから行こう)


 ロータリーをぐるりと回って、まぶしいほど明るい店内へ入っていく。入り口のすぐ横では、こんな時間でも立ち読みをしている学生っぽい人がいた。気楽に過ごしていたあの頃が懐かしい。

 まずはサンドイッチの棚を見る。やっぱりほとんど売り切れてしまっていて、たまごサンドしか残っていない。となりのおにぎりの棚に目を移すと珍しく野沢菜明太が一つ。いつもなら鮭とお赤飯しかないのに。

 パンが並ぶ棚ものぞいたけれど、心ひかれるものがない。結局は野沢菜明太のおにぎりに手を伸ばし、ペットボトルのお茶と一緒にレジへ差し出した。


「あと、特製肉まんも一つください」


 この時間に食べると太ってしまうのは分かっていても誘惑には勝てない。

 ましてや『肉まん・あんまん、始めました!』の手書きPOPがレジ横に貼ってあるなんてズルい。

 カウンター内で肉まんを紙袋に入れているお兄さんは初めて見る顔だ。名札には、片仮名でズンって書いてある。会計を済ませて商品の入った袋を受け取るときに無料の笑みをこれでもかと浴びせてきた。褐色の肌と白い歯のコントラストもまぶしい。

 

(いい人なのは伝わるけれど、どこの国の人なんだろう。深夜のコンビニで働くのも大変そうだな)


 レジ袋をぶら下げて二、三分歩くと、有名チェーン薬局の黄色い看板が見えてきた。店にはシャッターが下りているのに内照式の看板は存在感を放ち、レジ袋までを黄色に変えた。

 薬局の前を通り過ぎると小さな薄緑色の立て看板がある。

 雑居ビルの入り口につけられた外灯に照らされているだけなので、書かれた文字も目立ない。

 その入り口から奥へと進み、エレベーター前の狭い階段を二階へと上がっていく。


 ガラス窓の入った扉を手前に引いて中へ入ると、センサーが反応して軽やかな電子音が鳴った。目の前のカウンターには髪を茶色に染めた細身の中年男性が座っている。


(また気づいてないし)


 ネットカフェ店長の新井さんはクラブのDJみたいに大きなヘッドホンをしながら、視線を手元へ向けていた。いつものようにパソコンで海外ロックバンドの動画でも見ているのかもしれない。

 視界に入るように前へ回り込むと、ようやく僕に気がついた。


「あ、いらっしゃい」

「チャイムにも全然気づいていなかったでしょう。よくそれで店長としてやっていけるよなぁ。ちょっとうらやましいくらいです」


 お財布からこの店の会員証を取り出し、笑いかけながら手渡す。


「まぁそれは色々とあってさ。ほら、山瀬さんみたいにウチのお客さんはみんな優しいから。ちょっとくらいさぼっていても平気なんだよ」


 会員証には八桁の番号しか書いていないのに、店長さんは常連さんたちの名前も覚えてくれている。手元のキーボードを慣れた手つきで操作すると、プリントアウトした紙を僕へ差し出した。


「十六番ね。禁煙ブースにしておいたから」

「ありがとうございます」


 紙と会員証を受け取り、笑顔で軽く頭を下げた。

 ドリンクバーの前を通って決して広いとは言えない通路を進み、右に曲がって十六と書かれたブースへ入る。

 スライド式になっている扉を閉め、スーツの上着をハンガーに掛けてリクライニングチェアに座った。

 パソコンの電源を入れると、眠っていたモニターに輝きが戻る。



 二十四時間営業のこの店は僕にとってくつろぎの場所でもあり、秘密の空間でもある。誰もいない一人暮らしの部屋へ帰っても寂しいだけ。でも、ここならほかの人の気配を感じられる。それでいて直接言葉を交わす必要もない。僕にとっては絶妙な距離感を保てる場所なんだ。

 仕切りの高さは百七十センチほど、覗こうと思えば隣の人の顔も見えるだろうけれど、ここでは誰もそんなことをしない。

 隣にいるのはどんな人なんだろう。

 男性かな。女性かもしれない。

 何をしているのかな。何をしようとしているんだろう。

 椅子の上に立ち上がるだけで暴けるもろい秘密だけれど、暗黙の了解ルールで守られている。


 ここからネットにアクセスしているあいだは、いつもの自分から変われる気がしていた。

 何をしても、どんな風にふるまっても、それが僕だとは気づかれない。スマホを使えば履歴を誰かに見られてしまうリスクもあるけれどそんな心配もいらない。

 ネットに匿名性なんてない、調べれば個人だって特定できるなんて言うけれど、今この瞬間には誰からも気づかれない僕がいる。



 残業続きで疲れがたまっていて、電車の中ではスマホを触る気にさえならなかった。まだ暖かい肉まんを頬張りながら、パソコンのモニターに映し出される今日のニュースへ目を通していく。


(ふーん。あの俳優さん、離婚したんだ。そりゃあれだけ派手に不倫がバレちゃ仕方ないよな)

(国会も相変わらず、無駄な時間を使ってるよなぁ。各党の議員数が決まってるんだからさっさと採決すればいいのに)


 肉まんを食べ終わり、一息ついてからおにぎりの包装をはがしていく。

 僕の好みは後から海苔を巻く、このタイプ。ほおばったときのパリッとした食感は譲れない。


(野沢菜明太のおにぎり、美味しいな。また買おう)


 最後の一口をお茶で流し込んで、両手をキーボードに添えた。

 ここから誰にも言えない僕の密かな楽しみが始まる。

 もう暗記してしまったアドレスを打ち込んで、エンターキーを押すと見馴れたトップページが現れた。



 『あなたが殺したい人は誰ですか』――いわゆる闇サイトだ。

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