第二十三話 幸運
週が明けて月曜日、起きてすぐにテレビをつけた。
画面の中ではお天気キャスターのお姉さんが、今日の天気に続いて週間予報を読み上げた。
「お天気は下り坂で、明日の火曜日から水曜日にかけては傘マークがついています。降水量は少なめですが傘は手放せそうにありません」
(マジかぁ。雨なら、どうしようか……)
とりあえず、この先一ヶ月の水曜日は歯の治療という理由で午後からの半休を取ってある。でも時間が経てばまた思いが揺らいでしまうかもしれないから一日も早く終わらせたい。
僕が先にけりをつけなくちゃいけないのに、まさか雨予報とは。
あの石段、苔が生えていて濡れたら滑りそうだし、成功する可能性は高くなるだろう。
だけど雨のなか、神社で待つのはリスクがある。
あの暗がりで傘をさして立っていたらお爺さんは不審に思うだろうし、かと言ってレインウエアでずぶ濡れになったら逃げるときに目立ってしまう。
ひょっとしたらお爺さんが手にしている傘で反撃してくるかもしれない。
会社へ向かうあいだも雨が降ったときのシミュレーションを頭の中で色々と組み立ててみた。どう考えてもリスクの方が大きい。
(もし雨ならうだうだと考えずに中止、順延にしよう。運動会みたいだけれど)
僕にとっての一大イベントには違いない。
そして迎えた水曜日の朝。
予報通り、前日から降り出していた雨は止む気配がなかった。
この天気では休日の楽しみにしている建築巡礼も出来ない。
ぽっかりと予定が空いてしまったので、午前中に洗濯をして部屋干しをすませ、午後からはネットカフェに顔を出してみた。
「あれ、こんな時間に珍しいね」
「休みだったのにこの天気で予定が取りやめになっちゃって」
「そうなんだ」
店長さんは短く答え、いつものようにブース番号が印刷された紙を差し出した。
移動してパソコンを立ち上げてからリクライニングチェアに座る。
暇つぶしにブラウザのトップページに表示されたニュースを眺めていく。
(また切りつけ事件があったんだ。今度はこの駅の近くじゃないか)
前回は三つ隣の駅だったけれど、今回はこの駅の南側。線路を挟んでこの店とは反対の地域で、昨日の深夜に女性が背中を切られたらしい。
前回と同じような事件だし、やっぱり犯人も同じなのかな。
住んでいる近くでこんな事件が続くなんて……。
芸能ニュースは不倫の話ばかりだし、スポーツはあまり興味もないので、闇サイトを覗いてみた。
ミキと話してからまだ五日して経っていない。当然のように彼女の痕跡はなく、掲示板には見馴れた不平や不満が書き連なっていた。
(もうすぐ、僕はこの不満から解放されるのかな)
あれほど共感を覚えていたのに、なぜか今は他人事のように思える。
僕の中で何が変わったんだろう。
変わったといえば、会社での僕の扱いも日に日に変わってきている気がする。
佐々部長に脅されようが怒鳴られようが「どうせあと一カ月もすれば」という冷めた目で見てしまうせいか、腹を立てることがなくなっていった。
すると不思議なもので、平然としている僕に文句を言うのがつまらなくなったのか、部長から相手にされなくなってきた。
今までは日に何回も呼びつけられていたのに、昨日なんか一回だけだったし。
水野からも「お前、何かあったのか?」と言われたけれど、笑顔だけを返しておいた。
*
その日に向けて、前回はなぜ失敗したかも考えた。
石段を上ってくるのがお爺さんかどうか、確認できなかったことが一番の原因だ。
僕が隠れた場所は石段から少し離れていたから、下の方がまったく見えなかった。せめて石段の途中辺りが覗き込める所まで近づいておかないと。
そうすれば、いきなり横から飛び出して突き落とすことだって出来るはず。
正面から行ったのでは相手だって身構えるだろうから、この方が絶対いい。まさに一石二鳥だ。
それからの一週間はあっという間に過ぎた。
もうすぐいなくなる部長のことなど気にせず、仕事にも集中できるようになったし。
そして今日、水曜日。この日は朝から秋晴れの青空が広がっていた。
ミキと約束した期限は三週間後だけれど、必ず今日で終わらせる。
前回と同じようにショルダーバッグへ着替えを詰めて、黒のタートルネックにモスグリーンのジャケット、デニムのパンツという服装で家を出た。
電車の遅延もなくふじみ台の駅に着き、外出したお爺さんがあの囲碁クラブへ入っていくのも見届けた。
この前のコーヒーチェーン店では顔を覚えられている可能性も考えて、少し離れたファミレスへ入って時間をつぶす。
八時過ぎには店を出て、公園で着替えを済ませると神社へと向かった。
(さぁ、ここからだ)
自分に気合を入れ、石段を上っていく。
境内に立って見渡しながら、隠れるのに都合がいい場所をあらためて探した。
石段の右手にある大きなイチョウの陰ならば、外灯の光は届かないし下からも見えないはずだ。そこへ回り込み中腰になると、石段の踊り場が目に入る。
ここなら申し分ない。
準備はすべて整った。
二週間前よりもずっと落ち着いているのが自分でもわかる。
そろそろお爺さんがやって来る。
すると階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
でもリズミカルで、駆けあがるように早い。
(これは、お爺さんではない⁉)
とっさに大イチョウの陰に身を潜めた。
石段から現れたのはお爺さんよりもずっと若い男だった。背が高く引き締まった体つきで、ニット帽をかぶってマスクをしている。はっきりとは分からないけれど、デニムのパンツに羽織っているブルゾンの感じからは三十歳くらいだろうか。
こちらに気づいた様子はない。
(早く行ってくれ)
そんな僕の願いは届かず、階段から少し離れた所で立ち止まっている。
このままじゃマズい。
お爺さんが来ちゃう。
案の定、別の足音が聞こえてきた。
今度はゆっくりと上ってきている。
(頼む、早くいなくなってくれ!)
しかし、男は動かない。一体何をしているんだ。
その間にも足音は近づいてきた。
そっと伸びあがり石段を覗いてみる。間違いない、臼井のお爺さんだ。
でも、あの男がいたのでは何もできない。
せっかく今夜こそ決める気できたのに……。
もうお爺さんは階段を上りきってしまう。
がっくりとして大きなため息をつきそうになった、その時。
「あっ!」
思わず小さな叫び声をあげてしまった。
境内へ姿を現したお爺さんへ、男がいきなり駆け寄り思いっきり両手で突いた。
「うわぁー」
叫び声を上げてお爺さんがよろめく。
そのはずみで男のマスクに手が掛かった。
男がもういちど両手を突き出すと、鈍い音を立てながら臼井老人は石段を転げ落ちていった。
男は落ちていたマスクを拾うと、すぐに裏道へと駆け出して行った。
僕は何が起きたのか理解できず、木の陰にしゃがみこんだまま呆然としていた。
しばらくすると下の方で大きな声が聞こえてきた。
通りがかりの人が集まり始めたみたいだ。
(ヤバい、僕もここを出なきゃ)
我に返って、裏道へ向かう。
道路へ出たときには辺りに人影もなかった。
鼓動が早くなっているのを気付かれないように、下を向きながら駅へ向かって坂を下っていく。
それにしても、あの男は一体……。
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