第二十四話 解放

 右にゆるくカーブした坂道を下っていくと、赤いフラッシャーが見えてきた。

 サイレンを消したパトカーが一台、鳥居の前に停まっている。

 すでに救急車の姿はなく、野次馬が十数人ほど集まって石段の方を眺めていた。

 かぶっていたキャップの庇に手をやり、その横を足早に通り過ぎる。鼓動は小刻みなビートを刻んでいた。


(お爺さん、どうなったんだろう)


 誰かに見とがめられることもなく電車に乗り、玄関の鍵を開けて部屋に入った途端、膝の力が抜けるように座り込んでしまった。

 しばらくして立上り、流しに行って水をコップに注いだ。飲み干して、やっと少し落ち着いた。

 それでも、あのとき男が両手を突き出すさまや落ちていくお爺さんの目を見開いた顔が鮮明に焼きついている。


(とにかく今日は寝よう)


 何も考えられずにシャワーも浴びないままベッドにもぐりこんだ。


 緊張して眠れないかもと思ったけれど、精神的な疲れがそれを上回っていたらしい。目を覚ましてスマホの時間を確かめると六時を過ぎていた。

 すぐにテレビをつける。

 ネットのニュースも見たけれど、お爺さんのことはどこも取り上げてはいなかった。

 少なくとも殺人だとは思われていないようだ。

 でも、助かったという可能性だって残っている。もしそうなら襲われたことも明らかになってしまうし、同じ方法は二度と使えないことにもなる。


(確かめなきゃ)


 会社に行っても仕事が手につかない。

 休み明けの出勤日は、たいてい佐々部長から「一日リフレッシュしたんだから、さぞかし仕事もはかどるだろうな」といった嫌味が続くけれど、今日は相手にしなかった。


(自分のことを心配した方が良いのに。可哀想なやつ)


 もしお爺さんが死んでいれば僕の役目は済んだことになる。

 誰がやったかなんて、ミキには分からない。

 結果さえ出れば今度は彼女の番だ。



 会社を定時で出るとそのままの足で、ふじみ台へと向かった。

 この一か月余りの間に何度も来た商店街を抜けていく。左へ緩やかなカーブをしている坂道を上っていくと鳥居が見えてきた。

 近づいていくと石段の上り口に白い花が供えられていた。


(やっぱり……)


 確信を胸にお爺さんの家へと急ぐ。

 さすがにこの石段を上る気にはならなかったので、昨日、神社を抜けて下りてきた坂道を上って行った。

 昨夜は気にならなかったけれど、だらだらと続く上り勾配は結構きつい。

 これじゃ、神社を抜けて近道をしたくなるのも分かる。


 十五分ほど歩くと、やっとあの立派な門が見えてきた。

 門は開けたままになっていて両側に提灯が掲げられ、白黒の幕が張られている。

 間違いない。臼井老人は亡くなったんだ。



 帰りの電車でシートに座ると、安堵した気持ちが胸の奥から湧き上がってきた。

 自分の手で殺すことなく、目的を達成できたなんて……。信じられないくらい僕は幸運だった。

 この数週間、背負っていた重荷が一気に軽くなる。それと同時にあのニット帽の男のことを考えていた。


 臼井老人は財を成すためにあくどいことを重ねてきたという。

 自分と同じように愛人にされている女性が複数いるらしいともミキは言っていた。

 どちらにしろ、あのお爺さんを恨んでいたのはミキだけじゃなかったってことだ。

 あの男がお爺さんとどんな関係だったかは分からないけれど、彼にはお礼を言いたいくらいだ。


(まさか彼も交換殺人だったりして)


 シートに座ったまま、ほかの乗客に気づかれないように下を向いて笑みをこらえた。



 金曜の朝はすっきりとした気分で会社へと向かった。

 僕の役割はこれ以上ないほどの幸運な形で終わった。

 後はただそのときを待つだけ。

 もうすぐあの罵倒や恫喝から解放され、配置換えで脅されることもなくなる。


「おはよう」


 先を歩いていた水野に追いついて声を掛けた。

 あの一件以来、お互いに少し無理して以前と同じようにふるまっている気がしないでもない。


「あ、おはよう。なんか今日は機嫌がよさそうだな」

「そう? いつも通りだよ」

「いや、いつもは朝からどんよりとした顔してるぞ」

「そうかなぁ」


 冗談交じりに笑っている水野へ、わざと口を尖らせた。

 まぁ心当たりは大いにあるんだけどね。



 昼休みが終わる頃、めずらしく藤崎君に声を掛けられた。


「山瀬さん、もう終わったんですか」

「え、何のこと?」

「隠しても無駄ですよ。山瀬さんのことならお見通しですからね」


 まさか、臼井のお爺さんのことを知ってる?

 そんなはずない。


「僕には何のことだかさっぱり分からないけど」

「もうすぐ分かりますよね。それまで待ちますよ」


 そう言うと笑みを浮かべて去っていく。

 いったい何のことを言っているのだろう。ミキとのことを彼が知っているはずはない。何か勘違いしているのかもしれないけれど……。

 少し気味が悪い。



 めっきりと減ってきた部長からの叱責もやり過ごし、残業を終わらせて会社を出たのが七時過ぎだった。

 ミキと会う予備日にしていたのが今夜。

 もう臼井老人が死んだ報せは彼女にも届いているに違いない。ひょっとしたら、あの闇サイトに現れるかもしれない。

 もし会えたなら、ミキがどんな反応をするのか楽しみだ。


 コンビニへ寄ってポテトサラダとお気に入りの野沢菜明太おにぎりを手に取ってレジへ向かう。

 会計を終えるとズンさんが白い歯を見せて言った。


「アー、キノウノキノウ、アナタ、フジミダイイタネ」


 なにを言われたのかとっさに分からず固まってしまい、意味が分かると今度は驚きで言葉を失くした。


(一昨日の水曜日に僕をふじみ台で見たというのか……あんなに注意していたのに)


「アナタ、シゴト?」


 まさかズンさんにまた見られていたなんて。あの日は普段着だったし、仕事とは言えないな。でも彼にはその区別が分からないかも。そもそも見られたといっても、僕があの事件に関わっていたわけじゃないから。いや、ズンさんの証言がきっかけになることだってある。なぜ、ふじみ台にいたのかを追及されたら……。


 ここでなんて答えておけばいいのか、頭の中で考えがぐるぐる回る。

 なおも言葉を探していたら、後ろに並んだお客さんに舌打ちをされた。振り返って軽く頭を下げると、黒いスカジャンを着た二十歳くらいの男の人が僕をにらみつけて大げさにため息をついた。

 ヤバっと思いながら笑顔でごまかして、ズンさんには何も言わずに急いでコンビニを出た。

 彼にとっては気にも留めない会話だろうから、次に会った時にはきっと忘れている。そう信じておこう。



「いらっしゃいませ」


 ネットカフェのドアを開けると珍しくすぐに声が返ってきた。でも声を掛けてくれたのは店長さんではなく会ったことがない男性だった。バイトなのかな。


「今日は新井さん、お休みなんですか?」

「ええ。急用が出来たとかで、無理やりシフトを交代させられました」


 そう言いながらも、怒っている様子はない。

 人当たりの良い穏やかな表情のまま、受付作業をしている。

 彼から示されたブースへ入り、すぐに闇サイトへアクセスした。チャットルームを覗いてみたけれどミキが立てた部屋はなかった。

 僕は「報告」というタイトルで部屋を立ててから掲示板を見に移動した。

 こちらにも彼女が訪れた形跡はない。


 おにぎりとサラダを食べながら一時間ほどネットニュースを見て回ったけれど、チャットルームへの入室を知らせるチャイム音は鳴らなかった。

 今日はさっとあきらめて帰ろう。

 期限はあと二週間。

 再来週までにはすべてが終わる。

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