第二十五話 期待
「林ビルへの賃貸希望を出している増進スクールの件、売上高の推移を棒グラフにして追加するように。こんなことぐらい俺に言われる前にやっておけよな」
貸しビルのオーナー側にテナント候補の経営状況などをまとめた資料を提示して、成約につなげることは僕たちの業務の基本になっている。
昨日つくった資料に対し、佐々部長から注意を受けていても「どうせあと二週間もすれば……」と、つい冷ややかな目で見下ろしてしまう。
部長もそれを感じ取っているのか、口調も以前とは変わり、奇妙なものを目にしたように僕を見上げている。
(もう手遅れだけどね)
黙って頭を下げながらほくそ笑んだ。
席へ戻ってグラフの作成を始めるとすぐに内線電話が鳴った。
『山瀬さんに瀬田建設の三木さんという方からお電話が入っています』
受話器を取ると小島さんからの取り次ぎだった。
「わかりました」
そう応えたものの聞き覚えのない会社だ。でも僕へ掛けてきているのだから、どこかで接点があったのかもしれない。
「はい、お電話替わりました。山瀬です」
『わたくし瀬田建設株式会社の三木と申します。初めてお電話するのですが、少しお話させて頂いてよろしいでしょうか』
「はい。どういったご用件でしょう?」
やっぱり初めての相手か。でも、どうして僕にわざわざ掛けてきたんだろう。
『当社で事務所移転の計画が持ち上がっておりまして、相談先を検討していたところ、知人から御社のお話を聞きまして。その時のご担当が山瀬さんだったということでお電話した次第です』
こんなこともあるのか。誰だか知らないけれど、紹介してくれた人に御礼を言いたい。気持ちを込めて担当していればいいこともあるんだな。
それにしても、こんなやりがいのある仕事を僕から取り上げようとするあの男をやっぱり許せない。
三木さんとは希望する条件について話をして、来週に候補地を内覧することになった。
『この件についてはまだ社内でも慎重な意見があるので、当面はご内密にして頂けますでしょうか』
「分かりました。それでは候補を数件に絞り込んでからご連絡いたします」
事務所の移転というのは引っ越し費用だけじゃなく、封筒や名刺といった印刷物や取引先への案内など、かなりの出費となるため慎重になる企業は多い。
三木さんからの申し出は
これは頑張らなくっちゃ。
*
日曜日は休みを取り、久しぶりに建築巡礼に行った。
会社で賃貸物件を探している時に見つけたオフィスビルは、築四十年を超える建物だけど大規模なリノベーションを去年行っていた。
室内は塗り替えや照明をLEDに変えたくらいだけれど、それまでの古いタイル貼りから石張り調のお洒落な外観に変わっている。
(中身は同じでも外見を変えるだけで、その評価って変わってくるんだよなぁ)
もし佐々部長が言葉遣いや人に接する態度を少しでも改めていたら、社内での評価は一変していただろう。
そのことに部長はもっと早く気づくべきだった。
そして迎えた火曜日。
今日、ミキが実行するのかもしれないと思うと朝から落ち着かない。
部長のことも出来るだけ視界に入れないようにして一日を過ごした。
定時が過ぎ、佐々部長が会社を出てゆく。
問題はここからだ。
僕のアリバイを作っておかなければならない。
まだ何人か残業しているので、とりあえず僕も会社に残った。
七時半を過ぎると最後の一人が帰り支度を始めたので、僕も一緒に出て駅に向かう。
その途中でお昼によく行くラーメン屋さんに立ち寄った。ここで塩ラーメンに辛ねぎトッピングを注文。食べ終わって時計を見ると、まだ八時半にもなっていない。
(うーん。アリバイ作りも難しい。結局はあそこに行くしかないか……)
家に帰っても一人だし、夜遅い時間のアリバイを証明してくれるのはあのネットカフェしかない。
味気ないと思っていた自動改札も通った時間を正確に記録してくれているから、いざというときには役に立つはず。
ロータリーをぐるりと回って、今夜はコンビニを素通りして歩いていくと遠くからでもはっきりとわかる赤いフラッシャーが目に飛び込んできた。
(あれは……救急車? いや、パトカーだ。しかもネカフェのあたりじゃ……)
近づくにつれて回転する赤い光が視界を覆っていく。
やっぱりパトカーは見慣れた雑居ビルの前に停まっていた。
(ここで何かあったのかな。それとも臼井のお爺さんの件⁉ いくらなんでもそんなはずはないか。もしそうなら僕を探しに……)
手前にある薬局の黄色い看板のあたりで立ち止まり、様子をうかがっていると二人の警察官が雑居ビルから出てきた。
僕と目が合うと、こちらへ近づいてくる。
(ヤバい!)
ここで逃げ出しては最悪なことになる。素知らぬ顔でと思ったけれど、そもそも逃げ出したくても緊張して足が動かない。
「こんばんは。いまお帰りですか?」
「はい」
優しい問いかけにも心臓は僕の胸を連打したまま。顔もこわばる。
「実は先程、この辺りで傷害事件が発生しました。犯人が潜んでいる可能性もありますので、お気をつけてお帰り下さい」
「ありがとうございます」
なんだ、そういうことだったのか。
いや、それはそれでヤバいんじゃないか。
ほっとしたのもつかの間、新たな緊張が走る。
すぐに階段を駆け上がって店の扉を開けた。
「あぁ。いらっしゃい。おまわりさんに会った?」
さすがに店長さんもヘッドホンを外して心なしか緊張した表情を見せている。
「はい、そこで声を掛けられたのでびっくりしましたけれど……。この近くで傷害事件って、あの通り魔ですか?」
「そうらしいよ。この前は線路の向こう側だったけれど、今度はここから北に二キロほど行ったところだって。山瀬さんの家の方角じゃない?」
マジか。黙ったままうなづいた。
僕の家はここから十分もかからないから、事件のあった場所とは少し離れているとはいえ良い気分はしない。
「お爺さんが背中を切られて重傷なんだって。怪しい人物が来たら、すぐに通報して欲しいってさ」
「そうですか……」
よりによって今夜、こんな事件が起きるなんて。
遅くまでここにいてアリバイを作っておきたいのに。早く帰った方が良いかなぁ。
でも中途半端な時間に帰るよりも深夜まで粘った方が安全かもしれない。
あの犯人は同じ日に二回、襲ったことがない。
おまわりさんが言っていたように、いま帰ったら犯人と出くわしてしまう可能性があるし、僕にとって肝心なのはアリバイの方だ。
あえてあの闇サイトにはアクセスせずに、ドリンクバーの苦いだけのコーヒーをお替りしながら漫画を三冊、合間にはネトゲを楽しみながら零時になるまでだらだらと過ごした。
(もう、終わってるかもしれない)
帰り道、人影を気にしながら、顔も知らないミキのことを思い浮かべる。
明日は僕も部長も休みを取っている。
部長に何かあれば昼までには会社へ連絡がいくだろう。
そのときには水野がきっと教えてくれる。
僕はただ待っていればいい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます