第七話 幸福

 今日は朝から気分がいい。

 いや、実は昨日の夜から心も軽い。

 本当は二週間前から、今日が幸せな一日になることを知っていた。


 そう、今日は佐々部長が休みなのだ。

 うちの会社は交代で休日を取るのに、なぜか僕が休みの日にあの男も休むことが多かった。つまり僕と佐々部長の出勤日は重なることが多いと言うこと。僕をイジメるためにわざと休日を調整しているんじゃないかと勘繰ったことがあるくらいだ。

 それでも月に一、二回は休日がずれる。まさにその日が今日。穏やかに一日が過ごせることが確実だから、久しぶりにお弁当まで作ってきてしまった。

 さらに支店長まで東京本社へ出張のため不在だなんて。

 担任の先生と不良のボスがいない、自習時間の教室にいるみたいな気分で仕事ができる。


 仙川駅のコンコースも心なしかいつもより明るく見えた。

 澄み切った秋晴れの空の下、いつもと同じペデストリアンデッキを歩く足も軽快になる。敷き詰められたタイルに靴音を響かせながら、隣を歩く見知らぬ人たちに「おはようございます」と声を掛けたくなる気分。

 ビルに着いてエントランスでエレベーターを待っていると、後ろから声を掛けられた。


「おはようございます」


 振り返ると小島さんが首を傾けるようにして笑顔を見せていた。

 ブラウンに染めた長い髪をバレッタで留め、からし色のニットにオフホワイトのプリーツスカート。斜め掛けしたこげ茶のバッグで胸が強調されているのは、反則を越えて卑怯な気さえする。佐々部長はもちろん、あの藤崎君ですら彼女のことが気になってしまうのもうなずける。


「おはようございます」

「何か良いことでもあったんですか」

「えっ」

「今そこで思い出し笑いしてましたよ」


 マジか。無意識のうちにニヤけていたなんて。ちょっと、いや、かなり恥ずかしい。顔が熱くなった。


「いや別に、大したことじゃなくて、そのぉ――そう、昨日の残り物でお弁当を作ってみたんだけれど僕にしては上手に出来たかな、ってただの自己満足なんだけどね」

「えー、山瀬さんってお弁当を作るんですか? すごーい。わたしも山瀬さんのお弁当、食べてみたーい」


 佐々部長が休みだからニヤけていたなんて言えなくて、とっさにお弁当の話でごまかしたのに、かえって話がややこしくなってしまった。

 小島さんになんて切り返そうかとまごまごしているところへエレベーターのドアが開いた。三階で降りると「お昼に見せてくださいね」と彼女が微笑んでいる。

 それを断るだけの勇気が無くって「うん」とうなずいた。



 思っていたように朝からキーボードを打つ手も滑らかに動く。

 いつ呼び出されるか、びくびくしながら仕事をしているとどうしても効率が落ちてしまうけれど、プレッシャーはないし頭の回転もいつもより早い。


「随分と仕事がはかどっているようじゃないか」


 背中越しに声をかけてきたのは水野だった。ちょっと支店長のモノマネがはいっている。


「まあね。今日はヤル気度が違うから」

「いつもこんな感じだといいのにな。山瀬は一日ずっと社内?」

「いや。午後からオフィスビルの内覧が入ってる。学習塾がツーフロア借りたいって言ってるんだ」

「そろそろ飯だけど一緒に行くか」

「ごめん、今日はお弁当を持ってきてるんだ」

「マジかよ。珍しいな。じゃ俺もコンビニで弁当でも買ってくるかな」


 水野は片手を挙げて廊下へと出ていった。

 集中していたせいか、時間を気にしていなかった。モニターの右下には十一時五十分と表示されている。


(もうこんな時間か)


 両手を組んで真上に伸ばし、椅子の背もたれに寄りかかって伸びをしてから、もう一度向き直る。


(あと少し、キリの良いところまでやっちゃおう)


 作った資料をパソコンへ保存したときには十二時を十分ほど過ぎていた。

 バッグからお弁当を取り出して給湯室へ向かう。

 自分のマグカップにお茶を入れなおすと、お弁当と一緒に会議室へ持っていった。

 うちの会社ではお昼休みはこの会議室で食事をしてもいいというルールになっている。

 ただ、佐々部長はそれをよく思っていないらしく「においが残る」「食べかすが落ちている」などの文句を言うので使う人は少ない。

 でも今日はあの男はいない。それがお弁当を作ってきた理由の一つでもある。


 中に入るとテーブルでは金井さんが一人で食事をしていた。

 お局様つぼねさまは部長に文句を言われようがお構いなしで「食べ終わってから窓を開けて換気しています」「拭き掃除もしっかりとやっています」と、毎日ここでお手製のお弁当を食べていた。


「あら、山瀬さんもお弁当? 珍しいじゃない」


 箸を持つ手を止めて嬉しそうに話しかけてきた。

 いつもソバージュっぽい髪をひっつめていて、笑うと歯茎があらわになった。


「そんな遠くに座らないで、こっちに来て。いつも一人で食べてるからつまらないのよ。こういう日くらい一緒に食べましょうよぉ」


 ぎょろっとした目をさらに見開いて今にも立ち上がりそうな勢いなので、僕も「そうですね」と手を掛けていた椅子を戻した。愛想笑いを浮かべながら彼女と一つ椅子をあけて座った。


「自分で作ったの?」


 腰を浮かせながら、僕がお弁当箱を開くのを覗き込んでくる。


「昨日の夕食の残りをおかずにして簡単に作っただけですよ」

「あら、ちゃんとしたお弁当じゃないの」


 昨日食べたミートボールをメインにして、きんぴらごぼうと冷凍ブロッコリー、いろどりにプチトマトを一つ。ご飯は二段にして、真ん中に僕の大好きな海苔の佃煮を塗ってある。


「お、久しぶりに見たな。山瀬の弁当」


 そこへコンビニのレジ袋をぶら下げた水野が帰ってきた。

 僕の隣へ袋を置くと、ひょいっと手を伸ばしてミートボールをつまみ上げた。


「あっ!」

「うん、うまい。これも自分で作ったのか?」

「もぉなんだよぉ。食べ始めるところだったのにー」

「まぁそう怒んなって。俺のハンバーグを少し分けるからさ」

「同期とはいえ、あなたたちはホント仲がいいわねぇ」


 水野は金井さんと僕の間に座り、コンビニのハンバーグ弁当を食べ始めた。

 正直、ヤツが来てくれてホッとした。

 お局様と一対一だったら話にも困っただろうし、ぐいぐい攻められっぱなしだったはず。水野があいだに入ってくれたおかげで三人の会話も弾んで、楽しいランチタイムになった。

 食べ終わってからも話を続けていると、外で食事をしてきたグループが帰ってきた。


「あ、もう食べ終わっちゃったんですかぁ? お弁当を見せてくれる約束だったじゃないですかぁ」


 小島さんが顔だけを会議室にのぞかせて、口を尖らせながら大げさなため息をつく。金井さんと水野の視線が僕に注がれた。


「山瀬さん、今度お弁当を作ってきたときにはわたしにも食べさせてくださいね」


 笑みを浮かべてそう言うとひょいっと顔を引っ込めた。

 どこまで本気にしていいのか、僕にはよく分からない。


 給湯室で金井さんと一緒にお弁当箱を洗っていると、いきなりお局様が間合いを詰めて切り込んできた。


「佐々部長のことは大変そうだけど大丈夫なの? 恋人はいるの? 一人で抱え込み過ぎずに水野さんだったり、あたしでもいいから相談しなさいよ、力になるから。だてに二十年以上もここで働いてないから頼りになるわよ、あたしは。あなた、意外とまめなところがあるから。自信を持ちなさい。今のご時世じゃ流行らないけれど、佐々部長には盆暮ぼんくれの付け届けが案外効くかもしれないわねぇ」


 一方的にまくしたてられて、答えるどころか相槌を打つしかできない僕だった。

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