第八話 矛盾

 幸せなときは短いからこそ、よけいに喜びを感じるのかもしれない。

 翌日になり佐々部長も、もちろん支店長も当たり前のように出社して、また息苦しくなるような日常が始まった。顔を右に向ければいやでも部長の机が視界に入る。デスクのモニターを見ていても右から押し寄せてくる無言の圧がどうしても気になってしまう。


「おい、藤崎っ!」


 最初に呼ばれたのが僕じゃなかったことにほっとしてしまった。

 でも、それは単なる順番を示しただけで、僕へのカウントダウンが始まったに過ぎない。

 モニターに映し出されている数字を目で追ってはいるものの、右耳は佐々部長が藤崎君を罵倒している方へ向いている。これじゃ、仕事が進むわけない。

 いつものように「お前、この仕事を何年やってんだ」「こんなことも出来ないのか」「ほんとに使えないやつだな」と心をえぐるような言葉が続いていた。

 大きな声だから、自分が言われているようにさえ思えてしまう。


 耐えられずに部長席へ目を向けると、立ったままの藤崎君が何度も頭を下げながら眼鏡をずらして顔の汗を拭いていた。

 今日は水野が休みでいないし彼を助ける人は誰もいない。ごめん、僕も動けない。

 本当なら支店長が声を掛けるべきだと思うけれど、佐々部長が社長の親戚という噂は本当なのか見て見ぬふり。

 あー、もぉいやだ、この空気。


 やっと藤崎君への注意イジメが終わったと思ったら、間髪入れずに僕が呼ばれた。


「何でしょうか」

「何でしょうかじゃねぇよ。これは何だよ」


 ポンッと机の上に投げられたのは、僕が昨日作った資料だった。


「先日、部長からの指示を受けて私が作成した資料です」

「そうだよ、お前に作っておくように頼んだよな」


 佐々部長が机に肘をつき、両手を組んで体をグイッと前に出した。

 物理的な距離が近づいたせいで、思わず一歩後ろに下がりたくなるほどの圧を感じる。黙ったまま固まって立っていると、部長が眼鏡を直し、下からねめ上げるように見ながら言葉をつづけた。


「いったいさ、お前は何年この仕事をやってんだよ。ここの数字の比較、折れ線グラフとかを使って補足説明するのが当たり前だろ?」


 僕だってそう思ったさ。

 だけど、前にグラフを挿入したら「指示もないのに勝手なことをするな」と怒ったのはあんたじゃないか。

 そっちは忘れてるかもしれないけれど、僕は忘れていないからな。


 一転して部長は背もたれに体を預けて、小馬鹿にしたような口調で言う。


「何から何まで言わないと出来ないのかぁ? 少しは自分の頭で考えろよ」

「申し訳ありません」


 意思に反して、体が勝手に動いて頭を下げていた。

 握った手に力が入る。


「今日中に直しておけよ」

「でも今日はこの後、岬町にあるテナントビルの一棟貸しの件でクライアントとの打ち合わせと内覧が入っているんですが」

「だから何だよ。俺は、と言ってるんだ」

「……わかりました」


 深々とお辞儀をして自分の席へ戻る。

 急ぐ必要もない資料なのに。今夜も残業確定だ。

 椅子に座って大きなため息をついた。



 今夜も遅くなるのが分かっていたから、内覧の後でお蕎麦屋さんに立ち寄った。

 出汁が効いた麺つゆに大きな海老の天ぷらそばはとても美味しかった。こんなささやかな楽しみでもないと、とてもじゃないけれどやっていられない。

 六時過ぎに会社へ戻るとすでに佐々部長の姿はなかった。少なくとも、あの男がいない方が仕事もはかどるのでありがたい。


 資料の修正を終えるころには九時になろうとしていた。

 プリントアウトして佐々部長の机へ置いた。

 他には誰も残っていない。

 セキュリティを掛けてドアの鍵を閉める。疲れた。



 翌朝、会社へ行くと席に着くなり大声で呼ばれた。

 もちろん、声の主は佐々部長だ。

 荷物を置いてすぐに部長席へ向かう。


「はい、何でしょうか」

「これは何なんだよ、山瀬」


 椅子にふんぞり返って眉間にしわを寄せている。机の上には昨日修正してプリントアウトした資料が、グラフのページを開いたまま置いてあった。

 数字は何度も確認したし、間違っていないはず。黙ったままでいると部長が低い声を出した。


「これ、棒グラフだよな」

「はい……」


 数値の比較をグラフでという指示だったから、それには棒グラフを使うのが基本のはず。今度は何に対して文句をつけようって言うんだろう。


「昨日、俺は折れ線グラフでって言わなかったか?」


 え、そうだったっけ。頭に来てたからそこまで覚えていない。


「ちゃんと言われた通りのことをやってくれよ。お前のミスにいちいち付き合ってられねぇよ」


 あきれたような部長の物言いに、僕の頭へ血が上っていくのが分かる。

 はぁ? ミス!? どこがミスなんだよ。データの数字が間違っているっていうならともかく、グラフの種類の話じゃないか。しかも本来は棒グラフを使うのが正しい。折れ線グラフは数値の変動を示すときに使うんだよ。

 それに昨日「自分の頭で考えろ」と言ったのはほかでもない、お前だ!


 僕の心の声はこの男には届かなかったらしい。


「もういい。これはこのまま使うわ」


 そう言うと、佐々部長は目を閉じて右手で僕を追っ払う仕草をした。

 こちらを見ていない相手に頭を下げる。

 怒りが収まらず、そのまま給湯室へ行った。

 マグカップにお茶を入れ、出ようとしたところへ小島さんが入ってきた。


「朝から大変でしたね」


 軽く眉を寄せてアヒル口を見せながら彼女が声を掛けてきた。


「ほんと、もぉ嫌になるよ」


 他の誰かに聞かれる心配もないから、思わず本音が出てしまった。

 ため息をついた僕に、彼女はうんうんと軽くうなずく。


「わたしも佐々部長って苦手だなぁ」


 首を傾けながら小島さんは口をとがらせた。

 そう言えば、彼女もあの男からしつこく言い寄られてるらしいって、水野が言ってたっけ。


「小島さんも佐々部長から何か言われてるの?」

「食事に誘われているんですけど、ねぇ。部長、既婚者だし、二人で行っても楽しくはないだろうし」


 うっすらと笑みを浮かべた彼女からは、そこはかとない場慣れ感が漂ってくる。

 きっと学生の頃からモテたんだろうなぁ。


「部下の僕たちを食事に誘うなんてことは一回もないけどね」

「部長が誘ったら行きますか?」

「え、いやぁ……」

「でしょ?」


 にっこりと微笑みながら僕の顔を覗き込んでくる。


「そんなことより、今度一緒にお酒飲みに行きましょうよ。山瀬さんの話、色々と聞いてみたいんです」

「あ、うん。今度ね」


 こういう時にどう返せばいいのか、ちゃんとしたマニュアルが欲しい。

 とりあえずマグカップを持って給湯室から逃げ出した。

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