第十話 昇進

 水野の思わせぶりな態度が気になって仕事が手につかない。

 もし良い話なら黙っていられずにすぐ話してくれただろう。あいつはそういうヤツだ。

 はっきりとしない物言いにあの表情。いったい何があったっていうんだ。

 藤崎君も一緒と言うことは――ひょっとして佐々部長が絡んだ話なのか。


「おーい、山瀬!」


 タイミングがいいのか悪いのか、部長席から僕を呼ぶ声が聞こえてきた。

 電話している人だっているのにどうしてそんな大声を出すかなぁ。この男の考えていることは本当に分からない。


外手町そとでちょうのオフィスビル、あれを来週の月曜に山北商事さんが内覧することになったから。それまでに設備概要と平面図、あと内外観の写真もまとめておいてくれ」


 珍しく機嫌がいいのか、声は大きいけれど怒鳴りつけることもなく、うっすらと笑顔さえ浮かべている。


「分かりました。いつまでに用意しておけばよろしいですか」

「そうだなぁ。金曜までに俺の所へ持って来い。それならお前がミスしても日曜には仕上がるだろ」


 面と向かっての嫌味はいつも通り。これくらいは聞き流さなきゃ。


「お前が一人前になるまで俺がみっちりと鍛えてやるからな。ありがたく思えよ」


 そこでニヤリと笑うな。ありがたいどころか、こっちからお断りだ。

 どうしていつも僕の心をこんなにもざわつかせるのか。

 資料が足りない、間違っていた。そんな明らかなミスなら怒られても仕方がない。だけど、言いがかりみたいなことで文句を言われたって、僕は指導されてるなんてこれっぽっちも思っていないからな。なんなんだ、その上から目線。


 体温が一気に上昇したみたい。顔が熱い。

 それでも何も言えずに頭を下げてから席へ戻った。

 パソコンに向かってもキーボードに置いた手は動かない。気分を落ち着かせようとお茶を入れにマグカップを持って立ち上がった。

 廊下に出るとトイレから出てきた金井さんとすれ違った。と思うと、いきなり話しかけてくる。


「あなたもとんだ災難だわね」


 トイレにいた彼女が、いまの部長とのやり取りを見ていたはずはない。

 だけど、お局様は心の底から心配しているといった感じで眉をひそめて、僕の右腕を両手で包み込んだ。

 いったい何のことだか分からずに戸惑っていると、彼女の口から驚きの言葉が続いた。


「まさか佐々部長がうちの支店長に昇進するなんてねぇ。あたしの方がよっぽど会社に貢献してるのに。あの人も偉くなったら少しは変わってくれるといいけれど」


 えっ、部長がここの支店長に⁉ 嘘だろ。

 この支店にいるのはセクハラの件でほとぼりが冷めるまでって話だったのに。東京の本社には戻らないってこと?

 さっき水野が言っていたのはこれのことか。


「まぁあまり深刻に考えずに。何とかなるわよっ。なにかあったらいつでもあたしに相談しなさいよ」


 返す言葉もなく固まっている僕を、上目遣いに見上げる金井さんの目はどことなくうれしそうに見えた。


 席に戻って、水野の姿を探したけれど見当たらない。

 ホワイトボードに目をやると『外出』と書かれていた。

 詳しい話は夜までお預けか。それにしても――顔だけを右に向け、部長席をぼんやりと眺めた。




 帰り支度をしてエレベーターで一階へ降りると、エントランスに水野が立っていた。すでに藤崎君も来ていて頭を下げる。


「お待たせ」

「この前の店でいいかな」


 焼鳥屋へ向かうあいだ、誰も口を開かなかった。駅へ向かう人の流れに乗りながら歩き、左に曲がって路地に入る。

 店内は思っていたより混んでいて、一つだけ残っていた奥のテーブルに座った。

 今日は隣に水野、向かい側に藤崎君。

 注文を終えるとビールが来るのももどかしそうに水野が切り出した。


「会社じゃ、ちょっと言えない話でさ」

「佐々部長のことでしょ」

「何だよ、知ってたのか?」


 僕が返すと驚いたように水野がこちらを向いた。

 藤崎君も知っていたのか、それとも予想していたのか表情を変えない。


「誰から聞いたんだよ」

「お局様。こっちから聞いたわけじゃなくって、向こうから勝手に教えてきたんだけどね」

「そういうことか。なら話は早い。どこまで聞いてる?」


 どういう風に話すか、水野なりに悩んでいたみたいだ。ちょっとホッとした表情を浮かべた。


「佐々部長が支店長になる、ってことだけ」

「え、マジっすか⁉」


 やっぱり藤崎君は肝心なことを知らなかったのか。

 普段はおとなしい彼らしからぬ大きな声で身を乗り出してきた。

 顔も体も大きい藤崎君の正面に座っていたから、圧を感じてそっと背もたれに体を預ける。

 水野はため息を一つついて、話を続けた。


「どうやら支店長が本社へ戻る内示を受けたらしい」

「え、部長じゃなくてですか」


 前のめりのまま顔を水野の方へ向けて、藤崎君が疑問を投げかける。

 そう、この前の話を聞いて、次は佐々部長が本社へ呼び戻されるものだとばかり思っていた。

 彼も僕も、あの男部長が支店長としてここに残るということは、これからの社会人生活を左右するといっても大げさじゃない、死活問題だ。

 水野は黙ってうなづき、話を続けた。


「俺だって部長が戻ると思っていたさ。金井さんも予想外だって言ってたし。こればっかりは上の考えることだから、わかんねーよなぁ」


 中ジョッキを持ち上げて、半分ぐらい残っていたビールを水野は一気に飲み干した。

 藤崎君はうーんと低くうなりながら体を後ろへ反らせ、顔を天井へ向けた。


「確実な話、なんだよね」


 まだ二口しか飲んでいない中ジョッキに手を添えたまま、僕は隣に座る水野へ顔を向けた。


「支店長が年明けに本社へ戻るという話は本当らしい。ただ、後任の支店長に佐々部長が昇進するかもしれない、というのは本社の人事部での噂だそうだ」

「それも金井さん情報?」

「ああ。本社の人事部にまで顔が効くって、一体あの人は何者なんだよと思うよな」


 そう言って笑う水野へ、笑顔を返せない僕がいた。

 藤崎君はというと、すっかり静かになってポテトフライへ手を伸ばしている。

 僕はすっかり食欲を失くしてしまった。白い泡の消えかかったビールも飲む気にならない。

 

「佐々部長を昇進させるということは、ある程度の実績を作ってから本社へ戻すってことだよね」

「多分そうだろうな」


 水野の答えが重い宣告のように耳へ響く。

 もしそうなったらあと三、四年はこのまま鬱屈うっくつした毎日を過ごさなければいけない。


「でも支店長になったら俺たちへ直接指示する機会は減るんじゃないか? 今の伊藤支店長から何か注意されたことなんてないし」

「それは人によると思うよ。あの人は支店長になったって『俺が、俺が』って感じで直に指示するよ、きっと」

「まぁ……確かにそうかもしれないな」


 励まそうとしてくれた水野の気持ちもわかるけれど、素直に受け止められない。

 肉豆腐を食べていた藤崎君が眼鏡を持ち上げて汗を拭きながらぼそっと言った。


「ぼくはあくまでも噂だと聞き流してみます」


 意外と強いんだよなぁ、彼は。とてもまねできない。

 ジョッキの中で気の抜けたビールを僕は見つめていた。

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