第十一話 焦燥
水野は気をつかってもう一軒行こうと誘ってくれたけれど、とてもそんな気分にはなれなくて二人と別れて仙川駅へ向かった。
電車に揺られながら
トップになったからと言っておとなしくなるなんてありえない。きっと今まで通り、自己中心的な振舞いは変わらないだろう。
自分より上の立場の者がいないわけだから、むしろ横暴さに拍車がかかるかもしれない。
大げさじゃなく、目の前が真っ暗になった気がした。
水野の言う通り直接に相対する機会は減るかもしれないけれど、僕へのパワハラは続くはず。
(そうか、昼間に部長が言っていた『一人前になるまで鍛えてやる』っていうのはこのことだったんだ。あと数年はこの支店に残ることが分かったから、あんなことを言ったのか。きっとそうに違いない)
いつもならば湧き上がってくる不平や不満と言った怒りはなく、あきらめと絶望が胸の中に拡がっていく。
更井駅に着いた。いつにも増して鉛のように重い体を引きずり跨線橋を上る。人の流れに乗れず、一人ポツンと改札を出た。あじけない乾いた電子音だけが僕を見送る。
いつから降り出したのか路面が濡れていた。傘はない。
コンビニまで走る気にもなれず、雨のつぶを頬に感じながら歩いた。
「イラシャイマセ」
カウンターからズンさんの声が聞こえる。目が合うと満面の笑み。今夜の僕には彼の白い歯はまぶしすぎる。
入り口横に掛かっていたビニール傘を手に取って、レジに出した。
「オニギリ、アリマス」
「今日はコレだけで」
「スグツカイマスカ?」
「はい」
雨の日対応もしっかりと教育されていて、タグをハサミで切り取ってくれた。
それにしても毎回のようにおにぎりを勧めてくるのには困ってしまう。確かに野沢菜明太は美味しいけれど。
苦笑いを浮かべてコンビニを出た。
ネットカフェの扉を開けると男性のお客さんが二人立っていた。店長さんが珍しく忙しそうにしている。
雨宿りがてらに来たのかなと思って様子をうかがっていると、どうやら新規のお客さんらしい。会員申込書への記載を説明している。
「ごめん、山瀬さん。ちょっと待ってて」
「構いませんよ」
会員証だけ渡して、カウンター廻りをうろうろする。手持無沙汰でマガジンラックの雑誌を眺めていたら店長さんが声を掛けてきた。
さきにブースの手続きをしてくれたようだ。
九番と書かれた紙を受け取り、ドリンクバーでホットコーヒーを入れてからブースに入った。
(ミキは待ってくれているのかな)
部長の昇進話を聞いてから、ずっと彼女のことが気になっていた。
五日前にあのサイトで話をしたとき、ミキは僕を待っていてくれた。交換殺人の相談相手として。
ミキが誰なのかはもちろん、本気で実行する気があるのか、それすらもわからない。でも初めて聞いた彼女の話。あれが真実ならば僕が直面しようとしている状況と全く同じだ。
逃げ出そうと思えば逃げだせるかもしれない。だけどここに留まりたい。ここで自分の思うように生きたい。それには邪魔な人間が一人いる、という共通点がある。
苦いだけの熱いコーヒーを口にしながら、今夜は闇サイト『あなたが殺したい人は誰ですか』へ最初にアクセスした。
掲示板に並ぶ不平や不満を眺めていても、なぜか今夜は共感を覚えない。
すぐにチャットルームへ移動して「話の続き」という部屋を作った。
この前は僕を待ち構えていたミキが間をおかずに入室してきたけれど……。
数分待っても彼女は来ない。部屋はそのままにして、もういちど掲示板を別画面で表示させた。
もしかしたら僕のほかにも話を持ち掛けていた相手がいるのかもしれない。確かめようと過去ログを遡っても、彼女が誰かと接触したような痕跡は残っていない。
やっぱり交換殺人なんて突拍子もない話はネット特有のおふざけだったのか。
それとも他のサイトでも相手を探していたのか。
いやいやそんな簡単に信頼できそうな相手なんか見つからない、って言ってたのはミキじゃないか。
彼女は僕の境遇にも共感してくれた。あんなひどい男、いなくなればいいのにと言ってくれた。
僕も彼女の立場に同情した。ひとをモノのように扱う爺さんをひどい奴だと思った。
そうだよ、僕たちならきっと。
もう三十分が過ぎた。ミキは現れない。
いつもこの時間帯に会えていたのに今夜は来ないのか。
もう少し待てば来るかも。
でも、なにか用事があったのかもしれない。
僕だって毎日このサイトへ来るわけじゃないし。
いや、そもそも彼女にはもう会わない方がいいのかもしれない。
だけどミキともっと話がしたい。
自分自身でもよく分からないほど、色々な思いが僕の中でぐるぐると廻っていた。
だめだ、今夜は帰って頭を冷やそう。
「あれ、もう帰っちゃうの?」
カウンターに置いた会員申込書を見ながらパソコンに入力していた店長が顔を上げた。
「仕事終わりに呑んできたせいか、何だか眠くなっちゃって」
言い訳をしながら精算を済ませて店を出た。雨はまだやみそうにない。
透明なビニール傘越しに見たマンションは白くゆがんでいた。
誰もいない部屋に入り、袖のあたりが濡れてしまったスーツをハンガーに掛けた。
ベッドに腰を下ろして枕元のコルクボードへ目をやる。
そこには休日に撮った写真だけじゃなく、新築や改修した後のオフィスビルの内観もたくさん並んでいた。
どれも僕が成約に関わったものばかり。一つ一つの建物に思い入れがある。
家具が一切ない、がらんとした空間に漂う独特な匂いも好きだ。机はどんな配置にするのか、応接スペースはどこに作る? パーティションも置くのかな、と想像するのも楽しい。
企業向けの不動産には住宅とは違った面白さがある。
この仕事から離れたくない。
翌朝、雨はすっかり上がって、うっすらと白い紗を掛けたような空が広がっていた。駅前のケヤキも色づき始めたようだ。夏の名残はもうどこにもない。
やまない雨がないように、季節がかならずうつろうように、僕の心に垂れこめている厚い雲も晴れるときが来るのかな。
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