第十二話 絶望
会社につくと無意識のうちに佐々部長を探してしまう。
こんなにも嫌いなのだから放っておけばいいと自分でも思うのだけれど、どこにいるか確かめておかないと落ち着かない。もしトイレに行ったとき廊下ですれ違ったら心臓に悪い。
部長席にはいないし、さっと執務スペースを見渡してもブランド物のスーツに身を固めた姿が見えない。
(今日は休みじゃなかったはずだけど)
念のため各自の予定が書かれたホワイトボードへ目をやると、佐々部長の欄に「午前中は立ち寄り 帰社予定 十四時」となっていた。
書かれているのは部長の字じゃない。つまり立ち寄り予定なんて昨日の時点ではなかったってことだ。今朝になって会社へ電話を入れたんじゃないかな。
きっと昨日の夜に飲み過ぎて二日酔いなんだろう。前にもこんなことが何度かあった。
支店長が何も言わないから、いい気になってつけ上がってるんだ。
でも、しばらくの間は顔を合わせないで済むし、なによりあの不快な怒鳴り声を聞かなくていいかと思うと安心する。
僕も十時からケーエス・コーポレーションの内覧立会いがあるから資料の確認をしておかないと。今回は手狭になった事務所の移転を検討しているとのことで、午前中に二か所を見て回ることになっていた。
準備を終えてホワイトボードへ「十四時 帰社予定」と書きこんでから、いちおう藤崎君にも声をかけてオフィスを後にした。
一か所目は会社から歩いて十分ほど、仙川駅の反対側にある七階建てのオフィスビルだ。築年数は三十年を超えるものの、外装の改修も昨年には実施済みなので古さを感じさせない。
エントランス前で待っていると、それらしき人たちが歩いてきた。近づいてくると手にケーエス・コーポレーションと書かれた封筒を手に持っているのが分かる。
「はじめまして。よつばエステートの山瀬です」
「どうもお世話になります。ケーエス・コーポレーションの久保田です」
「同じく宮下です」
担当の総務課長、久保田さんとは電話やメールではやり取りしていたが、こうして会うのは初めて。もう五十歳くらいになる温厚そうな方だ。
一緒に来た女性は僕と同じ年代だろうか、名刺を見ると経理課となっている。
「移転するとなると若い女性の声も聞いた方がよいと、社長からの指示がありまして。無理を言って彼女にも同行してもらったんです」
僕がちょっと不思議そうにしていたのがばれていたみたい。
「それでは、どうぞこちらへ」
二人をエレベーターで四階へと案内する。
扉の鍵を開けて中へ入るとブラインド越しに陽の光が射し込んでいた。
「こちらは四十五坪でしたよね」
「はい。会議スペースや更衣室を設ける場合、理想的な広さは一人当たり三坪程度とされています。御社の場合、十数名というお話でしたので適した案件かと」
「こうして何もないと、かなり広く感じるなぁ」
久保田さんの言葉に宮下さんも相槌を打っている。
南に面したこの部屋は奥行よりも間口が広い長方形なので、レイアウトもしやすい。
「漠然としていてイメージが掴めませんね」
「この入り口正面に受付カウンターを設けて、執務スペースは縦に机四台×二列の島を二つ作れば人数分を確保できます。左手の流し場廻りには更衣室などのスペースを、右手には会議スペースを設けるのが標準的なレイアウトです」
部屋の中を歩きながら手で指し示し、おおよその位置や広さを久保田さんへ提示してあげた。
会社で図面を見ながら、あーでもない、こーでもないと考え、それを現地でこうして確かめるのはいつもわくわくしてしまう。
「なるほど。今は会議スペースがほとんど取れていないので、そこを解決したいと思っているんです。どうかな、宮下さん」
「何となくイメージ出来ました。日当たりも良くて明るいし、いいんじゃないですか」
よかった。なかなか好印象みたいだ。
でもマイナス面も伝えておかないといけない。二人を部屋の外へ連れ出した。
「この奥がトイレとなっているんですが、築年数が古いこともあって、男女別にはなっているもののそれぞれ一ブースしかありません」
トイレの扉を開けて、それぞれを見てもらう。
内装は改修してあるけれど狭い感じは否めない。
「うーん……狭いのは仕方ないとしても、これだとお化粧だけしたいと思っても誰かが使っていたらできないし。でも一人専用と考えればかえって気兼ねなく使えるかも」
「男性の方はあまり気にしないんじゃないかな」
久保田さんたちが話をしながら何カ所かの写真を撮ったあと、次の場所へタクシーで向かった。
二か所目は隣の
部屋の形は正方形に近く、一フロア当たり三十二坪と先ほどの案件に比べて少し狭いが、二フロア借りも可能としてご紹介した。
「確かに先程のを見てしまうと狭い感じがしますね。かと言って二フロア借りるとなるとスペースが余ってしまうし、経費も掛かるからなぁ……」
「一方のフロアを執務室として、もう一方を会議や販促・展示スペースにする例もあります」
「商品の展示スペースか。うーん……」
「トイレは断然こちらの方が良いですね。広いし、手洗いカウンターもあるし」
こちらでも久保田さんが写真を撮り、持ち帰って社内で検討するということになった。
二人と別れてからカレーチェーン店で昼食をとる。辛口のチキンカレーは思っていたよりもスパイシーの効いた味だった。
会社へ着くころには、もう十三時半を過ぎていた。
ビルのエントランスに入ると、小太りでアンバランスなブランド物のスーツ姿が目に入った。佐々部長だ。胃がきゅっと痛んだのはカレーが辛すぎたせいなんかじゃない。
「お疲れ様です」
背中越しに声をかけると、部長が振り向いた。
「おぉ。内覧か?」
「はい。ケーエス・コーポレーション様の件で」
「どうだった」
「持ち帰って検討するとのことです」
「そうか」
何となく機嫌が悪そうな感じ。お酒が抜けていないだけかもしれないけれど。
緊張したまま一緒にエレベーターに乗り込んだ。
三階で降りると部長はまっすぐトイレへと向かった。
その後ろ姿が見えなくなり、大きく息を吸い込んだ。息をするのを忘れていたかもしれない。
十六時を回ったころ、部長から声がかかった。
「ケーエス・コーポレーションの件、決まったぞ。一件目の如月ビルにするそうだ」
「そうですか」
久保田さんから連絡をくれるはずになっていたのに。
「俺の方から、向こうの前島常務に確認したんだよ。俺が取ってきた案件だからな。またこれで俺の実績も増えたし、
え、ちょっと待って。部長の実績にするつもり?
たしかに取っ掛かりは部長かもしれないけれど、担当したのは僕じゃないか。
ずっと久保田さんと打合せを重ねて、内覧までして。
「なんか不満か?」
また、僕の思いが顔に出てしまっていたらしい。
「お前は資料を作って内覧に立ち会っただけ。もともと俺が話を持ってこなかったら、お前が担当することもなかったわけだよ。当然、俺の実績だろうが」
低い声でゆっくりと言い聞かせるかのように言葉を投げつけてくる。
「不満なら他の部署に代わってもらうぞ。お前の代わりならいくらでもいるしな。来年になればお前を飛ばすことだってできるんだから」
佐々部長が最後にニヤリと笑った。
「あの……部長が支店長に昇進されるといううわさを聞いたのですが……」
我慢できずに確認すると、輪をかけてニヤつきだした。
「なんだ、もうそんな話が出てるのか。まぁ、そうなる予定、というところだ。お前もしっかりと頑張ることだな」
まんざらでもない表情で椅子にそっくり返っている。
やっぱりうわさは本当だったのか。
この男が支店長になったら……。本当に僕を異動させたり、ほかへ飛ばすこともやりかねない。
こんなにもやりがいがある今の仕事を奪われるのは絶対に嫌だ。
僕の中で何かが切れた。
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